油断と成功
数度、息を整ええると、再度クラフトが突撃する。その後ろに隠れるように、俺も歩を合わせて走る。熊は後ろ足で立ち上がり、その突撃を向かい入れんと大きく腕を振り上げた。そして、俺たちに威嚇するように、周囲の木がざわめく程の強さで、地響きのような吠え声が轟いた。
肌を刺すようなその声と共に、腕が鋭く振り下ろされる。その腕の軌道を見切るように、クラフトは足に力を込めて、さらに踏み込んだ。それを見て、俺は一度足を止める。轟音のように風が切り裂かれる。俺の目の前で、また地面が爆発した。大人の膝程まで掘り返されたその穴は、俺とクラフトのちょうど真ん中に出来上がった。
土を抉った右腕は、その爪が深々と地面に突き刺さっていた。熊の態勢が傾いている間が好機だ。俺は左に大きく跳んだ。まだ熊の右腕は土に少し埋まっている。その不安定な状態であっても、野生の習性なのだろう、動くものは目で追ってしまうらしい。右肩に顎が乗るように、熊は捻じれたような態勢になる。隙だらけだ。
懐へ深く潜っていたクラフトが、構えた剣を天へと突きあげる。俺に目が向いている熊は気が付いていない。その鋭い突きは、熊の左頬を捉え、その左目もろとも深く切り裂いた。短く低い唸り声と共に、その巨体が地面を揺らした。
やった、と思わず声が漏れた。頭部を貫通とまではいかなかったが、十分な深手だろう。クラフトも剣を引き抜くと、ほっと一息吐いて、小さく飛び退いた。
戦いを見届けていたアルツが駆け寄ってくる。その足音に、クラフトも街の方を振り返った。俺も一歩、近づこうとしたとき、一際大きな唸り声が辺りに響く。その熊は、まだ仕留められていない。いつの間にか起き上がっていたそれは、顔面が血に染まっていても、左の眼が見えなくなっていても、まだ暴走は終わっていなかった。
その気配に気づいて、一瞬躱すような姿勢で跳んだクラフトだったが、完全に背を向けていた為に、その熊の一撃を避けきることが出来なかった。薙ぎ払うように振り回された黒い丸太の如き腕が、クラフトの背を切り裂きながら吹き飛ばす。大きく投げ出されたクラフトの体は、鮮やかな赤をまき散らしながら、二度、三度と地面を跳ねて転がった。
その反射神経のおかげで直撃は免れたようだが、背中の深い爪の後からは血があふれ、その傷は右肩まで伸びている。ごほっごほっと咽る中には、大量の血が混ざっていた。必死で上体を起こそうともがくクラフト。意識はあるようだが、もう戦える状態ではない。
「クラフト!」
目の前で吹き飛ばされた仲間を見て、動揺に足が一瞬止まる。アルツもまた、その急な出来事に腰を抜かすようにへたりと座り込んでしまった。
野生の生き物は、弱った獲物を逃がさない。それは、大きな傷を負いながらもまだ熊をにらみつけているクラフトの事ではなかった。動揺し、戦意を失ったまま動けなくなっているアルツこそが、熊にとっては格好の的であった。
傷だらけの体を、また深く沈み込むように構える。先ほどクラフトへ見せたように、飛び込む準備をしている。その対象はもちろんアルツ。クラフトですらすんでの所で躱したそれを、彼女が防げるはずがない。
クラフト、アルツ共に、絶望が顔を染める。熊が地面を強く蹴った。大岩のような巨躯が、鋭く風を切り裂いていく。間に合え、間に合ってくれ。そう願いながら、俺は意識を集中させる。
アルツの少し手前、熊がその攻撃のために伸びきった態勢になる地点。そこに座標を合わせて飛ぶ。極限の状況は、人に力を与えてくれるようだ。狙った場所に、寸分たがわぬ形で、瞬間移動する事に成功した。
迫る真っ黒なそれに対し、渾身の力で拳を振りぬく。周囲の生命力が、その拳に大量に取り込まれる。加減が出来る状態ではない。弾き返された熊の体は、自身の突撃の勢いと合わせて、それはそれは遠くまで吹き飛んでいった。
一息吐くまで、熊は落ちてこないほどであった。地面を揺らすほどに叩きつけられたその体は、ピクリとも動かない。俺の右腕は、肩まで真っ赤に染まっている。今、熊は惨憺たる状態であろう。
そうだ、クラフトは。そう思い振り向くと、すでにアルツがその肩を支えていた。驚いたような顔をして、クラフトはじっと俺を見つめている。俺もすぐに駆け寄ると、もう片方の肩に手をまわした。
「大丈夫か、クラフト。酷い怪我だ」
「正直、もう動けないな。血を流しすぎた」
「まずは南詰所に行く。こういう怪我を直すために、私がいるんだから」
騒ぎを聞きつけた街の住民が、ぞろぞろと門の近くに集まっている。大怪我をしたクラフトと、血に染まった大岩のようなものを見て、口々に何かを話している。そんな人々の脇を抜けて、クラフトを詰所まで運び込んだ。
「いい、治療が落ち着くまでは入ってこないでね。気が散るから」
詰所の奥の仮眠室のベッドにクラフトを寝かせると、そんな事を言いながら、アルツは俺を部屋から追い出した。幸いこの詰所にも治療道具はあるようで、アルツの看病は夜が明けるまで続いた。




