模擬戦なのか喧嘩なのか
こほこほと、咳をする。そうだ。先生は体調が優れないのだった。思い出話に花を咲かせすぎて、すっかりそのことを忘れてしまっていた。名残惜しいが、今日はもう帰ろう。アルツも、もうすぐ全快するだろうと言っていたのだから、また来よう。
お別れを言い、部屋を出る。先生もまた、名残惜しそうに俺を見送っていた。玄関でアルツに別れを告げると、屋敷を後にした。
玄関から一歩出たとき、頭が一瞬熱くなる。不意に襲ったその痛みに、思わず頭に手を当てる。それは本当に一瞬だった。その一瞬で、あるものが持っていかれた事がわかった。
そうだ。ティーレン先生は俺の事をなんと呼んでいただろうか。216ではなかった。他の名前だったことは覚えている。が、なんと呼ばれたのかは思い出せない。
自警団本部に戻る道すがら、必死に思い出そうと考えていた。色々はことを話したことは覚えている。それに笑顔で頷く先生も思い出せる。しかし、所々が霧がかったようになってしまうのだった。
その肝心なことを思い出せないまま、気が付けば本部の前、広場まで来てしまっていた。
広場の真ん中、ご神木の影でくつろぎながら、数人の男たちがたむろしている。何やら盛り上がっているようだが、何を言っているかは聞こえない。見ると、その中にクラフトの姿があった。
大きく手を振ると、クラフトも俺に気が付いたようだ。何故か、迷惑そうな顔をしている。まるで、間の悪い時にでも来てしまったようだ。俺が何をしたのかとも思ったが、すぐにクラフトの表情の意味が分かった。
他の男たちも俺に気が付いたようで、大層な笑顔で俺を出迎えた。
「ちょうどお前のことを話してたんだ、ニーロ」
「おい、やめろよ。新入りを困らせるな」
「いやいや、噂が本当なら、それを確かめたいってのが男ってもんだろ」
お世辞にも愉快とは思えない笑いを浮かべる男たちと、それを止めようとしているクラフト。噂とは何のことだろうか。ここに来てから目立つようなことはしていなかったと思うのだが。
「お前、あそこで用心棒やってただろ?」
そう言いながら、指さす先は旧宿屋である自警団宿舎。
「ああ、確かにあそこで働いていたが……それで? それがどうかしたのか」
「いやな、俺の昔馴染みがさ、あの宿屋で以前酒に酔って暴れたことがあるんだけどよ。そん時にそこの用心棒にあっさりやられたって言ってたんだよ。あいつはタイニーヴァルトで警備隊やってるからよ、かなり強いはずなんだよ」
何かと思えば、夜に酒場を開くあの宿では、酔っ払いが暴れることも日常茶飯事だった。そのたびに追っ払っていたが、相手は酒でふらふらになっているのだから、大概が勝手に転んで自滅しているに過ぎない。彼の言っている昔馴染みとやらも、おおかたその内の誰かというところだろう。
「いや、俺が相手をしていたのは酔っ払いだからな。皆へろへろだったし、大したことないよ」
その謙遜が、彼に火をつけたのだろうか。さらに瞳をぎらつかせて、興奮したように話を続ける。
「で、だ。俺たちは話してたわけだ。俺たちの中で、間違いなく一番強いのはクラフトだ。これまで何度も喧嘩したが、一度だって勝てたことがねぇ」
「そして、新入りもまた腕っぷしが強いときた」
「こりゃあ、見ねえわけにはいかないよな?」
呆れたように頭を押さえるクラフトと、言っている意味が良く理解できてない俺を置いてけぼりに、さらに男たちは興奮していく。その声を聞きつけたのか、いつの間にかグスタフもその輪の中に入っていた。
「面白そうだ。よし、団長命令だ。お前ら二人、戦え」
グスタフの鶴の一声である。こうして、俺とクラフトが模擬戦を行うことになった。善は急げと言わんばかりに、男の一人が木刀を持ってくる。クラフトは受け取り、俺は断った。
「やるなら素手でいい。武器なんか使ったことないんでね」
「ごめんな。変なことに巻き込んでしまって。俺は止めたんだけどね」
「いや、有難うクラフト」
「お手柔らかに頼むよ」
そういうクラフトの顔は、すでに真剣そのものだった。気を引き締めねば。一つ拳をたたき、気おされぬように構えた。その脇で、この早い時間からすでに酔っぱらっているグスタフが、片手をピンと天へ伸ばしていた。
「始めっ!」
勢いよく腕が振り下ろされる。それに呼応するように、クラフトが強く踏み込んできた。早い。木刀の先が左頬をかすめる。返す刀で薙いだ木刀をすんでのところで躱す。当たると確信していたのか、不意にしゃがみこんだ俺を目で追いつつも、木刀に振られるように僅かに隙を見せた。沈み込んだところから、起き上がりざまに右拳を強く振り上げる。それは確かに顔を捉えたかと思えたのだが、振り上げた腕、肩に近いところで阻まれた。そうして弾かれた腕を、肘を畳んで振り下ろしてくる。右肘が顔面に当たる寸前に、左手が間に合った。ギリギリで受け流す。クラフトはその勢いのまま手をついて一回転し、一度、距離が離れた。
その攻防に、周囲はさらに盛り上がる。やんややんやと囃し立ててくる。今度はこちらから。俺は一歩、深く踏み込んだ。




