化け物と誤算
あの時は気が付かなかった。逃げることに必死で、何も考えていなかった。今、あいつの顔を見て思い出した。一瞬にして目の前に来た男。俺の腹に悶絶ものの一撃を入れた男。
「216番……」
研究所でよく見かけた。確かあいつは複数の能力を混ぜる研究の被験者だったはずだ。俺が受けていた能力の単純強化の実験の隣室。奴の呻き声も叫び声も何度も聞いた。施設の事故はあいつらの研究室からだったはずだ。あの直後から見かけなかったから、死んだものだと思っていた。
「覚醒しやがってたのか」
「なんだよ、サンダ。あいつを知ってるのか」
216番から目線をそらさないまま、ハーディーが問いかけてくる。ああ、と頷くと、ハーディーの袖を小さく引っ張った。一度引くぞ、という合図である。相手は一瞬で移動してくる。奇襲に賭けなければ、簡単に逃げられてしまうだろう。
少し遠目から、216番の様子を窺う。相手からは感づかれない、かつこちらからの視界が遮られないギリギリの距離でこの後の作戦を練る必要がある。警戒を怠るわけにはいかない。
太陽はまだ低い。しかし、余り時間をかけすぎると、街の人々が活動を始めてしまう。少しずつ短くなる建物の影が焦りとして、煽るように背中を押す。
「俺が後ろに回り込む。俺のは触れさえすればどうにかなるからな。それまでは、ハーディー。あいつの気を引いてくれ」
「わかった。……どのタイミングで出ていくべきか、合図をくれるか」
「いや、少しでも感づかれる危険を減らしたい。ちょうど詰所の影が、隣の木にかからなくなった時に姿を見せてくれ。俺もそれまでに準備を済ませる」
ああ、とハーディーは力強く頷く。こういう時のこいつは頼もしい。俺も準備に取り掛からなければ。
ハーディーの潜む家の陰から三軒隣。その三軒とも曲がった道に面しており、俺がいるこの家は詰所の右隣にある。その家の屋上に、俺は忍び込んでいた。
この家はガルナーレの中でも珍しく、鉄の柵で覆われており、身長の倍は高く構えられているそれは、本来侵入者を寄せ付けないためのものであった。
この前掃除をしたときに埃が集まった。その時にもう一つの効果に気が付いた。少しだけ力を込めると、鉄が吸い付いてくるのだった。この柵もまた同様であり、体重を支える力さえあれば、どれだけ高かろうとまるで意味をなさないものとなった。
そうして鉄柵を登り、そのまま壁伝いに屋上まで侵入することが出来たのである。そしてその柵は詰所のすぐ近くにまで張り巡らされている。屋上からの落下による奇襲。地面ギリギリで鉄柵に能力を使い、衝撃を減らす。ハーディーが気を引いている間に、死角から一撃を決められれば、俺たちの勝だ。
また少し、太陽が空に昇る。じりじりと縮む影が、隣に細く伸びる木の幹から、そっと離れる。その時、詰所の向かいの建物から、ゆっくりとハーディーが姿を現す。
詰所の中の216番がピクリと動いた。ハーディーに気が付いたようだ。静かに立ち上がり、じっとハーディーを睨んでいる。明らかに不審な人物に、警戒してくれている。それは、ハーディー以外からの注意を奪ってくれる。
能力の発動準備動作なのだろうか。216番の周りの空気が揺れているように見える。まるで陽炎が包んでいるようで、不気味に揺らめいている。
あまり長く様子を見ているわけにはいかない。ゆっくりと、216番が詰所を出て、ハーディーに近づく。一つ、二つと深呼吸をして心を落ち着かせると、意を決して屋上の縁を強く蹴った。
左手を鉄柵に添えたまま、風を切って落下する。地面の石や草が一瞬で数倍の大きさになる。あと一息で地面という瞬間に、左手に強く力を込めた。ガクリと体に圧がかかり、落下が急停止する。
音もなく着地した俺に、216番はまだ気が付いていない。腰のベルトに挿していたいた鉄の棒を抜き、背後から近づいて素早く振り下ろした。
棒が風を切る音に反応して、216番が振り返る。遅い。急な体の反転に、足元がふらついている。この態勢から出来ることはないだろう。振り抜いた棒の先が216番の肩口を強かに打ち付けた。
……はずだった。
「焦った。もう一人いたとはね」
鉄はただ空を切り、声は遥か道向こうから聞こえていた。完全に死角だったはずだ。あの態勢から躱せる訳がないと思っていた。
呆然としたまま声のする方へ顔を向ける。そこには、じっとこちらを睨む216番と、その先に、家の壁にもたれてぐったりとしているハーディーの姿があった。
あの一瞬で、俺の攻撃を避けただけでなく、その回避先にいたハーディーを一撃で伸してしまったのだ。
「化け物め……」
思わず声が漏れる。奴の体が二倍にも三倍にも膨れあがるような錯覚に陥るほど、その重圧は常軌を逸していた。
ハーディーが壁にぶつかる音が響いたようだ。近くの家から、様子見を、とちらほら顔を出し始めた。ただでさえ化け物を相手にしているというのに、さらに状況が悪くなる。
このままでは、ハーディーもろとも捕まってしまう。何か、何かないか。
その時、すぐ隣の家、先ほど俺が飛び降りた家から、一人の老婆が姿を現した。よたよたと歩く老婆は、家の目の前で起きている事がわかっているようには思えなかった。
やむを得ない。この状況を打破するために、老婆を人質にするしかない。住民が盾となるならば、あの化け物も早々手を出すことが出来まい。
そう思い、一つ地面を蹴る。老婆は直ぐ手の先、少し気絶させて、街はずれまで逃げられれば、そこで解放すればいい。掌に、力を込める。あとわずかで老婆の腕をつかめる。その時、俺と老婆の間に割り込む影があった。
216番め、また俺の邪魔をするのか。その怒りに、右手の力が強まる。割って入ったその影に対し、能力のすべてが向けられる。その影、男は呻いた。俺の能力は直撃し、跪く。
「ざまあみろ!」
そう叫び、その男から手を放した。ごろりと転がって気を失った男。
それは216番ではなかった。この作戦の鍵、我らがリーダーである、マハトその人であった。




