別れと出会い
何だろう、やけに騒々しい。甲高い風のような音と混ざり合うように、研究員達の慌てふためく声が聞こえてくる。しかし、距離が遠いのかはっきり聞き取れない。
全身が気だるく、瞼が重い。どうしたことか、うつ伏せに寝ているようだ。取り付けられていた器具も、いつの間にか外されているのか、皮膚に触れている感触がない。起き上がろうと両腕に力を込めると、掌に違和感を覚えた。
冷たい。
ギュ、と音がした。恐る恐る目を開くと、そこには土交じりの雪が見えた。外にいる。投げ出されたのだろうか。雪がクッションになったお陰か、体に痛みはない。
――そうだ、216は
顔を上げると、そこには研究所の外壁が見えた。その窓からは、研究者達がバタバタと走り回る光景が見える。二体が脱走した、と聞こえた。何人かの研究者は窓の外に目を凝らしているようだ。
何故かはわからないが、僕は施設から脱出したらしい。いや、恐らく僕らが。
幸い雪と風で視界が悪いためか、研究員達は僕に気づいていない。外に投げ出された理由はわからないが、この騒ぎようを見るに、何か大きなトラブルが発生している事は確からしい。
恐らく、僕はそれに巻き込まれたのだろう。はたして、何をされたのだろうか。急に恐ろしくなる。連れ戻されたら何をされるのだろう。心細さに拍車がかかる。
――逃げなければ。
216を探したいが、このまま此処にいてはすぐに見つかってしまう。何より216の方が僕よりよっぽどしっかりしているのだ。きっと大丈夫。のしかかる不安を振り払い、ゆっくりと歩き出した。この雪だ。きっと足跡は消してくれる。
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高い木と木の間を、僕の身長くらいに高い草々が覆うように茂っている。獣が通ったのだろう、その一部の草がなぎ倒されている。
どれくらい歩いただろうか。日はとっぷりと落ち、風と雪は落ち着いてきた。着の身着のままではあるが不思議と寒さは薄い。これは何かの能力に覚醒したのだろうか。それとも死が近いときはこのような感覚なのだろうか。
一つ溜息をつく。近くの倒れた木に腰を降ろすと草の隙間にうっすらと明かりが見えた。立っている時は気づかなかった。光源は案外近いようだ。
慌てて立ち上がると、草を割って歩を進める。鋭い葉先が腕をこするが今は気にならない。久しぶりに感じる明かり。暖かみ。気が急いだ。それまでの疲れを忘れたように思えるほど心が躍った。
「助かった」
思わず擦れた声が出た。目の前には小さな小屋があった。人の声がする。確かに、人の声がする。
明かりの漏れる窓に近づくと、暖炉の前で椅子に腰かけ本を読む老齢の男性が見えた。思わず窓を叩いていた。気づいてくれと、力がこもった。男が驚いたような声を上げ、窓を見る。
「何事ですか、おじい様」
その男の悲鳴を聞きつけてか、部屋の奥から声が聞こえた。
「いや、風が窓を叩いたらしい。驚かせてすまない。アイシャ」
そういうと、男は本に目を落とした。僕に気づいていないのか。風と雪で視界が悪いとはいえ、先ほどよりかなり大人しくなった。
――おじいさん!
力いっぱい叫んだが声は出なかった。いや、疲労と乾燥のせいか音にならなかった。
もう一度、窓をたたいた。その音に男は訝し気に顔を上げて再度窓に目を向けた。確かに、目があった。僕はそう感じた。気づいている。きっと男は気づいている上で無視しているのだ。まるでそこにいないかのように。
煩わしいのだ、僕が。
考えてみれば当たり前のことだろう。正体もわからないボロを着た男。家の中には孫娘らしき少女もいる。誰が好き好んでこんなわけのわからないものを引き入れるというのだ。
グッと下唇を噛むと、僕はゆっくりと窓から離れた。山奥とはいえ家の前には人が通れるよう道がある。しばらく歩けば町に出られるのではないだろうか。死にたくはない。が、迷惑もかけられない。
仕方がない、仕方がないのだと自分に言い聞かせる。暖かな光に後ろ髪をひかれながら、絶望の敷かれた雪道へと重い足を運んだ。
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ようやくだ。日はそろそろと照り始めている。結局僕は一夜中歩き通した。気づけば町の目の前まで来ていたようだ。
まだ人通りはまばらのようだが、町は活動を始めている。誰か助けてくれるかもしれない。が、もう体力は限界にきている。とりあえず路地の影に腰を下ろすと、通りを歩く人々を眺めた。誰もこの浮浪者には目を向けない。
どうしようかと一息吐く。ぼやけた視界の端に、こちらに近づいてくる影が映った。
「こんなところでどうしたの? 妖精さん?」
柔らかな笑みを浮かべた少女は、僕を見つめてそう聞いてきた。歳は僕の少し下、十五、六歳といったところか。顔つきの割には幼い服装をしている。
しかし、聞き間違いだろうか。確かに同年代の男と比べて華奢な体であることは自覚しているが、それにしても「妖精」とはあんまりじゃないか。だが、少女の目にはこちらを侮蔑している様子はない。
またか、と少女の後ろを歩く男性が悪態をつく。隣の建物の1階で八百屋をしている店主のようだ。
「やめてくれよフィーア、誰もいないだろ。そんなところで嘯かれちゃ、客が逃げちまう」
フィーアと呼ばれた少女は、え~、と気の抜けた抗議をする。
「何か困っていることがあるんでしょ?私の家にいらっしゃいな」
こんなボロボロな妖精さん見たことない、と小さく笑うと、僕の手を取り歩き出した。目先の窓に、町の通りが映る。ニコニコと笑うフィーアの繋ぐ手の先に
僕は、いなかった。