魔女
小さく震えるフィーアに駆けよると、大丈夫かと声をかけた。いや、大丈夫であるはずはないのだが、何か声をかけなければと思った。がばりと、フィーアが俺の腰に抱き着く。腰が抜けているのか、膝立ちのままの足が震えている。少し安心したのか、恐怖に引きつる表情が歪み、大声で泣き出した。
怖かったのだろう。頭に手をポンと置くと、泣き疲れるまで頭を撫でてやった。しばらくは、家まで送ってやろうと思う。こんな事があった今、一人で帰れというのは酷な話だ。
町の門が微かにざわつきだした。俺の叫び声を聞いて野次馬が集まってきたのだろう。警備隊も数名駆けつける。襲ってきた男はふらふらと立ち上がると、その光る鉄の棒を振り回しながら逃げ出した。警備隊も追いかけるが、一人、また一人と返り討ちにあっていた。男が強いのか、警備隊が不甲斐ないのか、結局は取り逃してしまったようだ。
とにかく、今はあの男よりもフィーアのことだ。家まで送って休ませてやらなければ。少しばかり落ち着いたようで、震える両の手で目元を拭っていた。とはいえ、まだ足に力が入らないようだ。どれ、支えてやるかと思ったとき、フィーアの体がふわりと浮いた。それは、不思議な光景だった。
俺自身、何も触れていないのに、腰ほどの高さまですっと浮かび上がる。まるで、透明な、柔らかく沈むソファにでも座っているかのようだった。緩やかに上下に揺れながら、ゆっくりと家の方へと進みだした。何かに抱えられているかのようで、フィーアも、何かに委ねるかのように穏やかな表情になっていた。
「魔女だ」
その光景に打たれていたのか、すっかり静まり返っていた野次馬の中から、一つの声が挙がった。それが呼び水になったのか、次第にがやがやと声が大きくなる。
それは、畏怖と喚起が交じり合うようなものであった。確かにこの光景は俺も思い出すものがある。この町に長く住んでいるものは皆そうだろう。それは、決して思い出したいものではない。少なくとも、俺にとっては。
魔女フィーアの噂は、瞬く間に町中に広がった。妖精が見えるなどとうそぶいていたので、元々変わった娘として思われていたのだが、特にある年齢から上のものたちは以前に比べて露骨に忌避する様子も窺えた。
決してフィーアが悪いわけではない。避けている者たちも、それは理解している。ただ、どうしようもない感情もある。今、実質の保護者は俺なのだ。俺から伝えてやらねばなるまい。
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ハロルドがフィーアの忘れ物に気が付いたころ。
小さな家の玄関先から、町の入口を眺める215。
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日課の草むしりはすぐに終わる。手持ち無沙汰な僕は、夕刻は玄関先でぶらつく事が増えた。フィーアの帰りを待つこの時間。どんな表情でお帰りと言おうか考えてるこの時間が好きだった。色々な人や馬が行きかう道を眺めていると、存外飽きが来ないものだった。
あの行商人は昨日も来ていたな、とか、あの家族は今日までの小旅行だったのだろうか、とか想像が掻き立てられた。例の山道にも、連日人が足を運んでいるようだ。
人だかりがまばらになってくると、僕は街道へ出た。そろそろフィーアが帰ってくる時間なので、迎えに行こうというわけだ。
門の影からフィーアの顔がのぞいた。僕に気が付いたようで、小さく手を振っている。フィーアが小路への曲がり角へ差し掛かったころ、門からハロルドが現れた。何だろうか、怖い顔をしている。
もう一度フィーアへ目線を向けると、その意味が分かった。そのすぐ近くに、見慣れない男が立っている。ハロルドが何かを叫んだ時、フィーアも男もビクリと反応した。
僕はすでに走り出していた。男が振り上げた獲物がバチリと光る。手の届くところまで近づいたのだが、男はもちろん僕が見えていない。フードの奥、にやりと口角が上がるのが見えた。ふざけるな、フィーアには絶対に手を出させない。光るそれを振り下ろすその瞬間、僕の拳は男の左頬を打ち抜いていた。
バキリと嫌な音がして、男は道を挟んだ向こうまで吹き飛んだ。何が目的化はわからないが、ふざけた男だ。一息の後、ハロルドが駆け寄ってきた。しがみついて号泣するフィーアとそれをやさしく包み込むハロルド。まるで本当の親子のようで、少し羨ましかった。
声を上げて泣いていたフィーアだが、暫くして落ち着きを取り戻してきた。小さく粗い呼吸だが、涙は止まっている。見ると、まだ足は震えているので、一人では立てないようだ。
懸命に足に力を入れようとするフィーアの肩にポンと手を置く。振り向いたフィーアに、任せてというと、そっと抱き上げた。お姫様抱っこというやつだ。少し気恥ずかしい。
呆けたハロルドの視線は少し気になったが、何よりフィーアを家に運んであげることが先決だ。大きく揺れないように、ゆっくりと、そっと。精巧なガラス細工を運ぶよりもよほど繊細にと心がけた。
暫く歩いていると、遠く、背後から何か声が沸き上がる様子があった。それが、フィーアに向けられているだろうことだけは分かった。