痺れる一撃
ローレンから発破をかけられてから、何度も何度も拳を繰り出していた。時折足元の草花が枯れてしまうこともあったが、それもほとんど無くなってきた。いい加減、拳を握る力は弱まっている。気づけば、太陽は木々の先に掛かろうとしていた。橙色に染められて、もうこんな時間かと呟いた。
夢中になると、周りが見えなくなる。額ににじむ汗も両の腕にのしかかる疲労も気にせずに、繰り返し巻き袋を突いていた。悪い癖だ。
袋の表面は一部破れてしまい、結んでいた縄も削れて細くなっている。そろそろ壊れてしまうかもしれないが、その分俺の中では納得できるだけのものとなった。
右手の甲も擦れ、中指の付け根からは血が滲んでいる。唾で消毒をする。アイシャが帰ってきたら、薬をもらおう。怒られてしまうかもしれない。そして、心配をかけてしまったことを謝ろう。
一度落ち着くと、全身からどっと汗が噴き出るように感じた。もう一度、水を浴びよう。洗い物を増やすなとローレンから小言があるかもしれないが、致し方あるまい。
額の汗を掌でぬぐうと、家の中へ向かおうと振り返った。すると、目線の先、道の先にアイシャの姿が見えた。大きな荷物を抱えている。やはり、手伝ってあげたほうが良かっただろうか。とりあえず荷物を預かりに行こう。と、その時、アイシャの後ろに影が見えたように思えた。
目を凝らす。確かに人影だ。若い男のように見える。アイシャは両手に荷物を握り、ふうふうと息を切らしながらこちらに向かっているが、俺にも、その男にも気が付いていないようだ。
男は帽子を深く被っているようで、顔はよくわからない。が、着ている服はところどころ破け、薄汚れているように見える。胸騒ぎがした。おそらく、その男は良くないもののように思える。アイシャに声をかけて、男を追い払う方が良いだろう。一歩、足を進めたときに、男の右手がきらりと光ったように見えた。いや、確かにそれは光っていた。
刃の長さは掌ほどだろうか。顔が見えずとも、狙いがアイシャであることはすぐに分かった。男がそのナイフのようなものを振り上げる。俺は強く大地を蹴った。俺とアイシャとの間には、まだ家十件分ほどの距離がある。間にあうはずがない。それでも、俺はがむしゃらだった。アイシャが、俺に気が付いた。ニーロと口が動くのが見えた。
なぜ、アイシャが襲われているのか。どうすればよいのか。今度は目の前で、大事なものが奪われてしまうのか。嫌だ。嫌だ。嫌だ。俺は必死に足を動かした。
不意に、足元の感触が無くなった。何か、浮いているような感覚が全身を襲う。目に映る景色は、確かに道を進んでいるが、飛んでいるという風でもない。それは不思議な感覚だった。
男が振り上げた腕が、頂点にあるまま動いていない。動いていないのは、その男だけではない。アイシャはその笑顔のまま硬直しているし、何より俺自身、体が動かないことが分かった。走っている途中の姿勢のまま、高速で進んでいるように思える。気が付くと、俺は男とアイシャの間まで移動していた。
三人が三人とも、何が起きたのかわからなかった。背後でアイシャの驚く声が聞こえる。男は、明らかに動揺している様子だ。急に目の前に大柄の男が現れたのだから、当たり前だろう。それでも、男は振りかぶった獲物を振り下ろしてきた。勢いよく振り下ろされたそれを、腕で受ける。途端、全身に鋭い痛みが走った。
男の武器は、刃物ではなかった。それは鉄の棒だった。そしてそれは、周囲の埃を焼くように、ばちばちと光と音を立てていた。生まれて初めて受ける痛みだった。体が硬直して動かない。全身がこわばってしまうように感じた。そのまま、俺は膝をついてしまった。と同時に、男がどさりと突っ伏した。棒に打たれるのと同時に、拳を相手の腹に突き出していたのだ。
咄嗟のことで、加減は出来ただろうか。幸い、男は死んではいないようだ。そうだ、アイシャは。
振り返ると、アイシャもまたうずくまっていた。急いでアイシャの体を支える。気を失っているようだ。辺りを見ると、足元の草が枯れている。まさか、と思った。
急いだアイシャを抱きかかえると、家へ向かい走った。後ろで、遠ざかる足音が聞こえる。男が逃げていくのだろう。今は、それどころではない。
「ローレン、アイシャが……」
家に駆けこむと、椅子に座るローレンに対し、声を荒げた。何事かと、ローレンが顔をこちらに向ける。
「アイシャが襲われていて……能力の……近くに……」
息を切らせている俺は、絶え絶えにでもと声を絞り出した。急いで、ベッドにアイシャを寝かせる。どうしようかと慌てふためく男二人。と微かに、すうすうと音が聞こえた。
「なんだ、寝ているだけのようだぞ」
アイシャの頬にそっと手をやって、ローレンが呟く。俺もアイシャの頬に手を寄せる。あたたかい。よかった。心の底から、そう思った。
結局、アイシャが倒れた理由は俺の能力なのか、相手の能力の流れ弾なのかはわからない。それに、助けようと必死だったときに起きた現象についても、あれはいったい何だったのか。が、ともかく今は無事であったことを喜ぼうと思った。