突き出した拳
昼飯を済ませると、アイシャは買い物に出た。麓まで降りるという。荷物持ちでも手伝おうかと尋ねてみたが、先ほどの風呂の件を案じてか、アイシャには断られてしまった。
夕方ごろには戻るからと手を振ると、アイシャは日に照らされた道を下って行った。こちらも手を振り返して見送る。角を曲がるまでは眺めていたが、その姿が見えなくなると、さて何をしようかと空を仰いだ。
今は体を鍛えるしかやることが無いのだ、と考え、ローレンに一つ頼み事をした。庭のすぐ裏にある木の幹に巻く藁をもらえないだろうかと聞く。俺は武術などはしたことはないが、宿屋の頃にこうして特訓まがいのことをしていた。当時はぼろになったシーツなどを利用させてもらったが、ここにあるかは知らなった。
そんなものはないと一蹴されたが、ふと奥へ消えたローレンは何かが詰まった袋を三つ持って現れた。それは、この辺りの山道の草を刈ったものを袋にまとめているのだそうだ。それによって町から報酬をもらっている。つまりローレンはこの山の管理人のようなものらしい。
先ほどの大岩のことを話すと、ローレンは驚くと同時に喜んだ。邪魔で仕方なかったようだが、何しろ一人でどうにかすることもできなかったのだ。
「お前さんのどこにそんな力があるんだ。しかし、助かった。凄いもんだな」
ローレンから受け取った袋を幹に巻く。機嫌が良くなったのか、ローレンも巻き藁ならぬ巻き袋づくりを手伝ってくれた。縄は粗いものではあったが、強く食い込ませることでしっかりと固定させることができた。
袋の中の草はいっぱいの量が押し込まれているようで、掌で押してみても存外固く、素人が拳をぶつける分には十分なものであった。
あまり袋を無駄にするなよ、と言いながら、ローレンは近くの切り株に腰を下ろした。暇つぶしに見物でもするようだ。
腹で大きく息を吸って、両の腕を肩から震わせて力を緩める。一際強く息を吐くと、巻き袋へ向けて大きく踏み込んだ。右こぶしをまっすぐ振りぬく。
ぽす、と情けない音がした。手の甲に感じるはずの痛みも、当然ながらまったくない。力を入れることが怖い。全力で殴ることが怖いのだ。一歩、二歩と後ずさり、もう一度と拳を振りかぶる。
「今朝、何かあったのか」
踏み込もうとしたところを、ローレンの言葉が阻んだ。あれだけ意気揚々と準備をした結果があの突きなのだから、違和感を覚えるのも当たり前かもしれない。隠しておくというのは不義理かもしれない。
「大岩をどけたときに怪我でもしたのか」
いいえ、と俺は首を振る。怪我など無い。俺の体は何も傷ついていない。
「実は、大岩をどけたときに、自分の能力に気が付いたんです」
「そうか、お前さん能力持ちだったのか。どうりで岩を動かせたわけだ。どんな能力なんだ?」
「それは……」
言いよどむ俺の目を見つめ、ローレンは何か悟ったように髭を撫でた。指の先で数度撫でると、ふむ、と小さく唸った。
「あまり、好ましくない能力だったのか」
「はい」
「あんな大岩を動かせるんだ。どんなものかは知らないが、強力なものじゃないのか」
「はい。確かに強力なものだと思います」
「何か大変な犠牲か制約のようなものがあるのか。例えば、激しい痛みが襲う、なんていうのはどうだ」
「いいえ、俺自身には何も。ただ、力を使ったとき、周囲の草木が枯れました。何か、奪ってしまったんだと思います。生命力のようなものを」
そうか、とローレンは頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ、私がここにいては集中できないだろう。まさか家の中にいても持っていかれたりしないだろうな」
冗談めいた口調でローレンは小さく笑う。俺は俯きながら、いえ、と微かに言葉を発することしか出来なかった。ローレンが近くにいる。ただそれだけで躊躇しているわけではないことは直ぐに察したところだろう。
やはり、不安に胸が詰まる。何もしないことも、この力を使うことも、どちらも心が拒絶をするのだ。215を助けたいという焦りと、力を込めることへの恐怖心が頭の中で激しく葛藤を繰り返している。
傍から見ると、ただウジウジとしているように見えるだろう。ローレンは、情けないなと一つ呟く。
「あのな、客人。せっかくの能力なんだ。怖がる前に、慣れなさい」
その言葉に俺は顔を上げると、ローレンはさらに続ける。
「薪割りを思い出してみなさい。少しコツをつかんだだけで夢中で半日も割っていただろう。加減がわかって、やり方を覚えて楽しかったんだろう。どんなものでも同じだ。まずはコツを掴めるまで繰り返すしかない」
せっかくのそれを無駄にするな、と巻き袋を指さすと、頑張れと言葉を残してローレンは家の中への消えていった。
まずは、コツをつかむまで繰り返す。確かにそうだと思った。右手で軽く拳を作る。確かに一度能力が目覚めた以上、これとは付き合っていかなければいけない。
ならば、使いこなすのだ。いつ暴れだすかわからない馬を乗りこなすのだ。しっかりと手綱を握り、鞭を入れる時を間違えなければ、これは何よりも早く駆けてくれる。そういったもののはずだ。
もう一度、踏み込んだ。突き立てた拳は、重い音を立てる。しっかりと振りぬいた。それは確かに、適度に加減されていた。その突きが生んだ風圧に、足元から腰辺りまで伸びていた草がさやさやと揺れた。