3
暴力的にするつもりなど、勿論なかった。
だが走り去ろうとする女を、飛び付くように引き止めたせいで、ふたりはもみくちゃに地面に倒れこむ。
それでもなお逃げようとする。私はいよいよ乱暴に、女を押さえ込んだ。
街がざわつく。狼藉者はどう見ても私。だがそんなことはどうでもよかった。
「なぜ逃げるの!」
「ごめんなさい、勘弁してちょうだい」
女はまるで幼女のように悲鳴をあげた。
「なにが、どうしたって?あなたはビルさん、アリーのママよね?私はあなたの子を預かって-」
「違うわ、わたしは、ビルなんて名前じゃない!」
彼女が叫んだとき、少年が駆け寄ってきた。ライトブラウンの癖ッ毛が愛らしい。
確かアリーの弟の……
「おばちゃん、ママをいじめるな!」
「ああ、サム、リトルタイガー。可愛い子。お願いします、子供の前でひどいことをしないで」
「……子供……アリーは?アリーだって……あなたの子供じゃないの」
「違うわ」
女は言った。強い瞳だった。
「わたしの子はリトルタイガーひとり、あれは、“コドモ”ですらないのよ」
私はあまりの言葉に呆然とした。その隙に、少年は母を引き上げ、ふたりは走り去った。
わが娘への未練など微塵も感じられなかった。
私は、また、その背中を見送ってしまったのだ。
三十メートルの道を、ゆっくりと、歩いてもどった。足を捻ったようだ。半ば引きずるように、車へと戻る。
白いワゴンはそのまま停まっていた。
助手席には、やはり裸足を投げ出したアリー。
ただ、その眼差しはくつろいだものではなかった。
親に捨てられて打ち拉がれた瞳ではない。まして誰も憎んでなどいない。
なにか、家に入り込んでいた見慣れた虫でも摘むような……
「アリー」
予感じみたものは、あった。
ビル一家はあまりに不自然だった。なにより、アリーはやはりおかしかった。
なにもかもがおかしすぎて、違和感に気付かなかった。違和感がないことこそおかしいと気付くべきだった。
「おかえり」
『アリー』は言った。
「あなたは誰?」
私は追及した。
路駐にクラクションを鳴らされ、私はアリーを載せたまま走り始めた。
行き先は見失っていた。とにかくそのまま走った。
しばらく無言。横目で見たアリーは、ひどく大人びていた……ふた月前から、どれだけ背が伸びたのだというのか。もう第一印象の10歳になどまったく見えない。
「あのひとたちは、なに……?」
やっと、擦れた声で聞く。アリーはこともなげに即答した。
「ひとさらい」
「誘拐……されてたの?」
「んと、ちょっと違うかな。まぁ街で攫われたのだけど、あたしもともと孤児だから、身請け人もいないし」
「あなた……いくつ?」
「15。チビでしょ。みんな間違える。あのひとたちも間違えたの。リトルタイガーはバースデーに姉が欲しいと言った。一緒にあそべる同じ年頃の。だから攫った。けど、あたしはもう、ヒーローロボットで遊ばない。かわりに高等数学を教えてやったら、その日のうちに旅が始まった」
「高校生……」
「飛び級で大学生。あんたより高学歴よ。おばちゃん」
アリーの口調に、いままでとの違いはなかった。
だから、私はなかなか理解することができなかった。
だけど最後のことばで急速に理解した。
やっと言葉に感情をのせられる。
「なにもかも嘘だったのね」
アリーはにやりと笑った。
「あなたの……目的は何?」
「イタリアまで行きたい」
「……どうして?」
「なんだっていいじゃん。おばちゃんが家出したのと同じくらいどうでもいい理由」
「!私は、」
「ねぇ、イタリアに連れていって。でないとあなたを誘拐犯に仕立てるわ。窓を開けてヘルプと叫びましょうか」
「……」
「お願いよ。おねえさん」
私はやや乱暴に左折した。
西に向かう道だ。
「おねえさんはもうやめて、虫酸がはしるから」
アリーはすぐにすべてを理解した。
邪悪な笑みを消し、穏やかな表情になる。それは10歳の少女とも、ひとを貶める妖女とも違う、知的な少女の微笑み。
「ありがとう。またしばらくよろしくね、おばちゃん」
そして……アリーとの新しい旅がはじまった。
道中は、意外にもこれまでと大差がなかった。
私は、初めは強く当たろうとした。車中泊に、居候は野宿しろと追い出した。支払いは締めた。子供のかわりにやってあげてた買い出しや雑務も、オトナなんだから自分でやれと投げ付ける。
アリーはそこで泣くような可愛げなど、もちろん持っていなかった。驚くほど現金を持っていたし、むしろこれまでが退屈だったと言わんばかりに、キャンプの支度も店での支払いも、しまいには異国の露店商との物々交換まで交渉してしまう。
車内でインク切れしてた日本製のボールペンで、山羊の丸焼きを手に入れてきたのにはうっかり爆笑してしまった。
その報奨に、その夜は車中泊を許した。
それが何故か、十日たった今夜もそばにいる。
支払いもゆるんだ。ときにはアリーが私のぶんも買ってくるのだから、返さないわけにいかない。
マクドナルドのドライブスルーでジュースを買う。アリーの好きなフレーバー。礼も言わないアリー。求めない私。
その代わりに、奴が私のコーヒーにストローをさし渡してくれたとて、私だって、礼なんか言わないのだ。
夏はとっくに過ぎ、秋も終わろうとしていた。
イタリアが近づいていた。
日々憂うつになる私に、アリーは爪を切りながら。
「おばちゃんさ、そんなに家に帰りたくないわけ」
「そりゃね……」
「彼氏、その家でまだいるんでしょ」
私は苦笑した。そこまで言った覚えはないんだけどなぁ。
「お互いが嫌いになって別れたのよ。飛び出して二年近く放置したんだから、とっくに部屋を引き払ってるか、新しい女がいるんじゃないかしら」
「そーかな。あたしにはわかんないけど」
「またコドモぶって、わざとらしい――」
「だって、嫌になるだけ一緒に居たんでしょ。いろんなことを、嫌になるまで一緒にやってきたんでしょ」
手が、ふるえた。
「あたしにはわかんないからな――そんなに長く人と一緒にいたことがないもの」
イタリアの国境は目の前だった。
次回で最終回。