絆創ヒーロー
笑い声が聞こえた。
思わずそちらを振り返る。四角く黒い枠、その中には到底収まりきらないほどたくさんの人間の笑い声が、静かなリビングにこだましていた。
ここは、家だ。ぼくの家。あの粘着質な、くらい、狭苦しい奈落の底なんかじゃない。
そのことが、ぼくをひどく安心させた。心臓がばくばくしている。知らないうちに、額がうっすらと汗ばんでいた。
僅かに残っていた生ぬるい麦茶を飲み干して、テレビの電源を落とす。ぎゅっと閉じた瞼に、秋空のように淡く澄んだ青色が責めるように浮かんだ。
『お前のやってることって、ただの偽善じゃん。にせものだよ。あいつとの友情ごっこだって、にせものを本物っぽく見せるための小細工ってわけ』
栗色の目がぼくを見ている。澄んでいて、悪を悪だと叫ぶことの出来る強く正しい力を持った目。
やめてくれと心が強く叫んでいるのに、それを冷たく笑ったもうひとりのぼくが強引に記憶を掘り返す。
狭い部屋。おんなじ形、おんなじ色をした机が整然と並んでいる。前には大きな深緑色の板。
おんなじ服を着た人間が集い、きまってけたたましい笑い声を上げる。ぼくを、――彼を傷つけるたびに。
心も体もずたずたに傷つけられた彼が、その部屋の真ん中にふらつきながらも立たされていた。いかれた美術品みたいに醜悪な色合いの絵の具をたっぷりと浴びている。まるで彼には表情なんか無いんだ、魂なんか無いんだとでもいうかのように、その顔は垂れ落ちる絵の具に侵略されていた。
彼の前に立つ背の高いやつが、空になったバケツを放り投げた。目を見開いた、見るからに凶悪そうな笑みを浮かべて、彼に何か言っている。ぼくはそれを見ていた。――ただ見ていた。からだが小刻みに震えている。それを周りのやつらに知られたくなかったから、知られるわけにはいかなかったからわざと人の後ろに隠れていた。
背の高いやつがまた何かを言う。彼の頭をひどく乱暴につかむ。周りがどっと何かの波に包まれる。
――笑っている。むごい姿の彼を見て、笑っている。
その瞬間、僕はなんにも聞こえなくなった。
+++
寝不足でぼんやりする。昨夜は、何度も寝返りを打っているうちに夜が明けてしまった。
僕の通っている中学校は、家からほんの十数分の場所にある。だからすぐにあのベージュの洒落た校舎が視界に入ってきてしまって、こんな時はたまらなく憂鬱な気分になるのだ。
「……あ」
彼の背中が見えた。昨日、普段人があまり寄り付かない第二美術室でめちゃくちゃに殴られ、挙句に絵の具でカラフルな芸術品に仕立て上げられていたぼくの『親友』が、ぴんと背筋を伸ばして前方を歩いていた。
鼻の奥がつんとした。目頭があつくなるのを感じる。涙が滲んでやいないかと、慌てて目元を指先でこすった。
彼はぼくを守ろうとしていた。虐げられている自分に近しい存在であるぼくにまで影響が及ぶことを、彼は何より恐れているのだった。
ぼくのあの行為だって、彼はきっとよくは思っていないのだろう。
昨日、彼らがげらげらと笑い声を上げながら去ったあと、僕は慌ててスクールバックに入れていたタオルを濡らし、井原に手渡した。絆創膏の紙箱を開けて、三枚から四枚取り出す。人間らしい身なりに戻った彼はぼくに昔と変わらないかすかな笑みを浮かべて、「ありがと」とだけ言って教室を出て行ってしまった。ぼくは何も言えなかった。ただ、姿勢の良い彼の姿を見送ることしか、ぼくには出来なかった。
ここのところずっとこの調子だ。ぼくは彼と、本当に最低限の言葉しか交わせていない。最後にまともに話すことが出来たのは、もう一ヶ月も前のことだ。井原に対するいじめがはっきりと分かるくらいになったのは、その次の日のことだった。
以来彼は、たったひとり、終わりの見えない暗闇で戦い続けている。
ぼくは臆病だ。彼のことを助けることも、慰めてやることすらも、出来ない。じんわりと血の味が口の中に広がる。気づかないうちに、唇を強く噛み締めていたらしい。
不意に、肩がずしっと重くなるのを感じた。首に回される、細いのに筋肉がしっかりと絡みついた腕。どきっと、心臓がいやに早く蠢き出す。
「よう、笹野くん」
低くて、少し大人っぽくかすれている声が耳元で聞こえた。全身が吹雪にでも晒されているみたいに硬くなった。
「きのう俺らが帰ったあと、ひとりで残って何してたんだよ? 俺、一緒に帰ろうと思って待ってたっていうのにさっ」
――月島。井原をいじめているグループの中心にいるやつだった。
井原をあれほど痛めつけているのが信じられないくらいに爽やかな喋り口。ぼくは顔を上げることが出来なかった。ただ奴のスピードに合わせるためだけに、足だけは懸命に動かし続ける。
「べつに……なにもしてないよ。昇降口の方から校舎を出ただけ」
「ふうん。井原を甲斐甲斐しく世話してやってから、ね」
ひやりと、冷たい刃で首筋を撫でられたような心地がした。奴はぼくが彼と関わっていることに感づいている。見透かされている。ぼくももう――奴らのターゲットに十分になり得るということだ。
「なにビビってんの? 大丈夫だよー、俺ね、笹野くんとは仲良くしたいと思ってんの。だってさ、可愛いし、マイナスイオン出てる感じでそばに置いときたくなるし」
可愛い、というところを冗談めかした風に笑って言って、奴は急に真面目な顔つきになって、こちらを覗き込んだ。
「そういやさ、笹野って小学校のときいじめられてたんだろ? 顔が女っぽいだのどうこうってさ。馬鹿なやつもいるんだなあ。大丈夫だぜ、中学校からは可愛いやつは男も女も大事にされるんだから」
意味がよく判らなかった。そんなのはこいつの勝手な意見なのであって、じゃあ可愛くないやつはどう扱ってもいいのかと叫んでやりたくなる。
「そ、結局みんなから反感を買うのは井原みたいな、中途半端にかっこいいやつなんだよ。見た目の話じゃないぞ? 俺は外見や名前だけで判断する馬鹿じゃないからね、ちゃんと性格を見極めてるんだ」
叫べなかった。ぼくの喉は、大した力は込められていない奴の腕に、虚勢で塗りたくられた威圧にぎりぎりと締め付けられていて、叫ぶことなんか到底できやしなかった。それでも、ひ弱なぼくは惨めにも叫び続ける。音量ゼロの悲鳴はどこにも届かないんだって、頭では理解していながら。井原に、井原宗太に謝れよ。お前なんかが傷つけて許される人間じゃない、あいつはぼくの、たったひとりの親友なんだ!
ぼくの声にならない叫びが届くはずもなく、彼は機嫌よさげに僕から腕を離した。
涼しげな目元に、酷薄そうな唇、すらりと高い身長。黒髪に隠れた右耳にピアスの穴が開けられているのだということは、随分前に噂で聞いていた。華やかな層の女子たちからの支持は厚く、成績優秀で素行も表向きは安定、教師からの評判もいい。ただ、彼ら以外は気づいていた。教室の中心ではない僕たちは、盲目的なほど賑やかに笑っている彼女たちなんかよりずっと敏感に、奴の本性を見抜いていた。
「なあ、明日の放課後付き合ってよ。色々話したいこともあるしさ」
低い声で耳元に注ぎ込まれた囁きが、逃がしやしないぞと僕に笑いかけていた。
+++
「なあ、あのひと可愛いよな」
ちらりと後方に目をやりながら月島がそんなことを言った。ショートボブの女子高生の後ろ姿が僕の視界の隅っこに映る。
店内には迫力溢れる手作りポップなんかがここぞとばかりに飾られていて、流行りの音楽も鋭いリズムを刻みながら流れていて。こういうアップテンポな感じの店は苦手だ。対して、月島は鼻歌をうたいながら陳列棚を眺めている。かわいいとか言っておきながら、もうすでに興味は違うものに移ってしまったみたいだ。
きれいな横顔をした彼女は、すいと商品棚の角を曲がっていった。
奴は沈黙が苦手ならしかった。次々とどうでもいいことに目を留めては、何かしら喋っている。
「前さ、お前は偽善者だって、笹野に言ったことがあっただろ」
思わず奴の方を見た。月島はカラフルな整髪料のパッケージを眺めるついでみたいに、薄い唇を動かし続けた。
「あの時はちょっと言い過ぎたかなって思ってるよ。……ごめんな。でも、俺の言ったことって、あながち間違っていないような気がするんだよ」
きゅうう、と心臓が縮こまったような気がした。
瞬く間に、茶色く澄んだ瞳が柔らかく僕を見据えるイメージが浮かぶ。そういえば、もう長い間井原とは目を合わせたことがなかったのだと思い出す。
「おれがいつもつるんでる奴ら……知ってるよな? あいつらがさ、言うんだよね。笹野って井原の周りうろちょろしてるじゃん、あれ何なの、お前笹野のこと気に入ってるんならこっち入れるなりどうにかしてよって。まあ俺は正直このままでもいいんだけどさ、あいつらもいつも俺の言うこと聞いてくれるわけじゃないんだよね」
分かるよな? と、軽い調子で聞かれて。
する、と、音もなく奴の腕が僕の首に回される。体がぎゅっと硬くなるのが分かった。
「あいつらさ、そろそろちょっかい掛け始めると思うよ。……笹野に」
+++
ちゃぽん、と、水が優しくささやいてくる。橙色に膨れあがった夕陽が、今にも落っこちそうなくらい海面に近づいていた。
たっぷりと満ちた水面が、オパールのような輝きを見せる。月島から逃げるように早足で港へ来た僕を慰めるような寛大ささえたたえているようだった。
「どうしよう……」
滅多に呟かない独り言が、馬鹿みたいに震えていた。
かくんと項垂れて、深く息を吐き出す。肩が頼りなげに揺れたのが分かった。
「えっ、もしかして泣いちゃった?」
急に後ろから女の子の声がして、僕は思わず振り向いてしまう。
ショートボブの、爽やかな感じのひとだった。近くの公立高校の制服を着ている。
「……な、いてません」
変なところで言葉が区切れる。
「なんだ。ちょっと危うい感じの子に絡まれてたから、うっかりここで泣いてるのかと思った」
軽い感じにそう言いながら、彼女は僕の隣に腰掛ける。少し離れたところで釣りをしていたおじさんが、ちらりとこちらに目をやった。
「えっ……」
「あたしね、さっき君らがいた雑貨屋さんで買い物してたんだよ」
夕陽を眺めながら淡々と喋る彼女の横顔を見て、あ、と、思い出す。月島が「可愛いよな」と言っていたあの女子高生だ。
「ねえ、なんか悩んでるの」
彼女は僕の方を見ないまま、やっぱり軽い感じでそう言った。
+++
どうかしてる、と僕は頭を抱えた。
いじめられている井原のことも、彼をいじめている月島のことも、もちろん最低な僕のことも、全てを洗いざらい話してしまった。しかも、こんな名前も知らない女子高生に……。
全てを聞いた彼女は、ふうん、とため息のような呟きを漏らした。
「大変なんだねえ、中学生も」
がくっ、と、体中の力が抜ける。なんだそれ、分かってはいたけれど、すごく……他人事って感じだ。
「それでさ、君はどうするの。その幼馴染の子を助けてあげるの?」
「え」
「だってさ、どっちかにしろって言われたわけでしょう、要するに。その子を助けていじめっ子の敵宣言をするのか、その子を見捨てていじめっ子の仲間入り宣言をするのか」
――いじめっ子の、仲間入り。
ぞっとした。
彼女はいつの間にか、僕をじっと見つめていた。
+++
「よお、笹野くん」
さっと僕に影が差した。
ざわついていた教室内が、徐々に静まっていくのを肌で感じた。
こいつ……いつも月島とつるんでいる奴だ。それもグループの中でもひときわアクの強い奴。
「え、何? なんでふるえてんの? よく分かんないんだけど」
くすっ、と、目の前の細長いからだが大げさに揺れた。ちゃぷん、と水の音がする。
凍りつく。
奴の手には、教室の隅に飾られている花瓶が握られていた。
薄桃の花が二輪、黄色の花が一輪、白の花が三輪。ガラス製の花瓶にはなみなみと水が入れられていた。
ことん、と机の上にそれが置かれる。そうか、ついに僕が、とぎゅっと目を閉じた。何故か胸がすっとした。どうしてなのか僕は、こいつらにいじめられることをさほど恐れてはいないのだった。
奴が身をかがめてくる。伸ばし過ぎの髪が僕の頬に当たった。
やるならやれ、と思った。
それなのに、彼は言ったのだ。
「これをさ、井原に頭からぶっかけて欲しいんだよね」
ささやくようにして注ぎ込まれた呟きに、僕は今度こそ、自分でもはっきりと分かるくらいに体を震わせた。
――そう、か。
奴らは僕を試そうとしているのだ。キリスト教徒をあぶり出す為の踏み絵と同じように。
月島と目が合った。微笑んで僕を見据えている。その瞳にほんの少し罪悪感に似た何かが掠めたのを、僕は確かに見た気がした。でも、彼は何も言わない。
心臓が恐ろしい速度で脈打っている。「早く」、と僕の目の前の男が小声で言った。
――敵になる。それか、仲間入り。
僕は強く瞼を閉じた。昨日彼女と話した時に見た夕暮れの赤が、鮮烈に瞼の裏に蘇った。
+++
「僕、は……」
なんて言えばいいのだろう。彼女のどこか小動物を思わせるような可憐な顔を前にして、僕は完全にパニックに陥っていた。
正直、僕に井原を助けられるだなんて到底考えられない。だって僕は、何の力も持たない臆病者なんだから。
でも、それを言えばきっとこの人はあきれ返るだろう。そうして、腰を上げて去っていってしまう。せっかく僕の話をこんな風に、大げさ過ぎるリアクションをするでもなく責めるでもない、純粋に耳を傾ける人を見つけたっていうのに――。
「きれいだねえ」
不意に、心底感動したというようにうっとりした声で彼女が言った。
はっとして、前を見る。
夕陽が沈む、寸前だった。泣いている子どもの顔のように真っ赤な太陽が、赤を拡散させて消えようとしている。
一日の終わりにふさわしいと思うような夕暮れだった。
「わたしね、時々思うんだよね」
ゆったりとした口調で、彼女は膝の上に頬杖をついた。
「世界は、終わりに愛されているんじゃないかって」
意味はよくわからなかった。ちょっと痛いなとも思うような台詞だけれど、こんな言葉でさえ場面と発する人間によって重みみたいなものが生まれるんだなと、そんなことを僕は知る。
「わたしはね、別に助けなくたっていいと思うよ」
唐突に彼女は話題を引き戻した。
「それが君の答えだっていうんなら、いいんじゃないかな。人間、自分のタチに合わないことなんてするもんじゃないからね」
まるで誰かを嘲笑うような調子だった。相変わらず軽いけれど、その中に微かに滲む後悔のようなものを僕は感じ取っていた。
「もしかしたら君じゃない誰かがその子を助けるかもしれないし、誰も助けないかも知れない。どっちにしても、それが彼の運命だったんだって、割り切っちゃえばいいのよ。はいこれで終わり、おしまいってことにしたら、きっとずっと楽になれる」
そうでしょ、と、彼女は無邪気に笑った。死にかけの太陽が彼女の横顔をやわらかく照らし出す。
だけど、僕はもちろん納得がいかない。
「……そんなの、他人事だから言えることじゃないですか」
「あはは。そうだねえ。でも、本当に他人事なんだもん」
「……」
「どうしたって私は部外者で、今後君と会うことも多分ない、『通りすがりA』なわけだからさ。どんな勝手なことだって言えちゃうんだな」
そう言われてしまうともう何も言えない。
彼女はくすくすと面白そうに笑って、僕から視線をそらした。
「ときどき、もう終わりだーって皆が頭を抱えてる時に、事態を劇的に改善させる人がいるでしょう。ヒーローってやつ」
「ヒーロー……ですか」
「救世主とかも言うけどさ。私はヒーローって呼び方のほうが好きだな」
なんだよいきなり、ヒーローって。中学生にしてはいささか恥ずかしすぎるワードだと思った。
「さっき教えてくれたじゃん。その昔君を救ってくれた、かっこいいヒーローのこと」
そうだ、さっき、過去のことまでぺろっと喋ってしまったんだっけ。
ヒーロー。……確かに、あの時のあいつは僕にとってヒーローだったのかも知れない。
あの日、もう二度と外になんか出ないと独り泣いていた僕を救い出しに来てくれた、
――井原、宗太は。
「君もね、ヒーローになる資格は持ってるんだと思うよ。だって、君はこうして、友達を救えないことが苦しいと思っているんでしょう」
+++
僕は鉛のように重い腰を上げた。机の上の花瓶を掴んで、おもむろに井原の席へと足を進める。彼は自分の席で、いつものようにぴんと背を伸ばして、数学のワークを黙々と解いていた。昔から、生真面目に勉強を頑張る奴だった。目頭がじんわり熱くなる。
「……井原」
思わず声をかけた。僕は今から、すごく卑怯なことをするのだ。もう後戻りは出来ない。きっと彼は僕を許してはくれないだろう。
つ、と、井原が顔を上げる。
目が、合ってしまう。
柔らかい茶色の目が、僕を見つめた。敵意は感じられない。なんの疑念もない。――強い目だった。僕だって、そんな強さが欲しかった。
――ごめん。宗太、本当にごめん。
僕は、勢いよく花瓶を振り上げた。
+++
「なあ、久弥。開けてよ」
ドアの向こうから、まだ小学四年生だったあどけない井原の声が聞こえた。僕は布団の中で丸まったまま、身動ぎひとつしなかった。微かに隙間を開けて、ドアを覗く。
「なーあーって、ば!」
くるっと、十円玉ひとつで開けられてしまう鍵が回って、がちゃっと勢いよくドアが開いた。えっうそ、と目を丸くしている内にどんどんジーンズを履いた足が近づいてきて、乱暴に布団が引き剥がされる。
なんて乱暴なんだろう。両親にも高校生の兄にも、こんな風にされたことなんか一度もない。どかっと、猛然と宗太がベッドの上にあがる。
どうしたんだよ。こいつ、こんな豪快なやつだったっけ。その時の俺は豪快なんて言葉は多分知らなかったように思うけれど、とにかくその言葉に見合うだろう程度の衝撃は食らっていた。
「お前、いじめられてるんだって」
怖い声で宗太が言った。びくっと僕の体がすくむ。そうか、僕は一組なのに、もう四組まで噂が出回ってるんだ。宗太にまで知れ渡ってしまったら、軽蔑されてしまったら、僕はもう終わりだ。ぎゅっと目をつむった時、井原が言った。
「俺が、お前を守ってやるよ。くだらないこと言ってるやつら、ぜんぶ俺がボコボコにしてやる」
その言葉のとおり、井原は僕をいじめていた奴らを本当に、文字通りボコボコにしてしまったのだった。
そのせいで、井原は今いじめられているのかも知れないのに。
中学では、また新しいルールがあって、摂理がある。その中で、井原は完全に月島たちに手足を抑えられてしまったのだ。
今度は僕が、助けなくちゃいけなかったのに。
なのに、それでも僕は。
+++
僕はヒーローになんてなれない。
ぴちゃん、と、目の前を水滴が滴り落ちる。井原は目を見開いていた。それこそ予想だにしていなかったというように、ひどく驚いたような表情を浮かべていた。
「笹野……」
と、呟いたのは月島だった。そう、彼も驚いていた。それどころか、僕に「井原に花瓶の中身をぶっかけろ」と言ったあの長髪の男も、教室の連中すべてが、今起こったことが信じられないというような面持ちで僕を見つめていた。
服がぴっとりと肌にはりついてくる。気持ち悪いことこの上なかった。
僕は、花瓶の中身を自分で、頭からかぶった。井原の目の前で。そうして見るも無残な濡れ鼠になった僕は床に膝をつき、床に頭をこすりつける。
「ごめんな、宗太」
声が震えているかも知れない、とほんの少し心配していた。けれど、大丈夫だ。震えてなんかいない。小さいけれど、ちゃんと宗太には伝わっているだろう。許してはもらえないとしても。
「助けてやれなくて、本当にごめん。……もう、見過ごしたりなんかしない」
「やめろよ……」
ひどく震えた声が聞こえた。え、と思うより先に、ぐっと腕が掴まれている。
力強く体が引き上げられて、宗太の顔が見えた。乱暴に僕を見据える目には、たっぷりと涙をためていた。
「頼むから、土下座なんてしないでくれよ。頼むよ……」
そう言うのがやっとだというように、井原は僕から腕を離して顔を覆った。力なく椅子に体を落とし、うなだれてしまう。微かな嗚咽が聞こえた。
教室が少しずつざわつき始める。かわいそう……という声がどこからか聞こえて、なんだそれ、と思う。
「なんか、もう、いいや。こうなっちゃったら、続けるのも後々めんどいしさ」
月島がため息混じりにそう言うのが聞こえた。
+++
「月島ってさ、昔いじめられてたんだって」
広い背中の向こうから、井原の声が聞こえた。自転車をこいでいる途中だったからびゅうびゅうと風が吹いていたけれど、その言葉はやけにはっきりと聞こえた。
「あいつの下の名前さ、光里っていうじゃん。読みもヒカリだから、女っぽいのなんのってからかわれたのが始まり。……くだらないよな」
そうか、と、何となくいろんなことに納得が出来た気がした。だからなのかも知れない。奴がぼくのことを気に入っていると言ったり、最後の最後に僕をかばったり、
――昔いじめっ子をこらしめた宗太をいじめたり、したのは。
人の気持ちって難しいものだ、と改めて思う。でも、だからってあの行為が許されるものだとも到底思えないけれど。
「なあ、あとどれくらい?」
井原が声を投げてくる。
「もうちょっと。あ、そこの角まがって」
土曜日の午後。よく晴れていた。井原はあの後、涙ながらに僕を諭した。俺ははじめからお前に怒っていなかったんだとか、そもそもどうしてあの状況であんなことしたんだよばかとか、とにかくまくし立てては泣いていた。
でも、彼の本当の気持ちも分からないほど、僕は落ちぶれてはいないのだ。
そんなこんなで僕たちは、今となっては一緒に釣りに出かけたりなんかしている。先日あの女子高生と話した港へ向かう。
「それにしてもお前、よくあんな事出来たなあ。久弥にあんな勇気があるなんて思わなかった」
くすくすと笑いながら井原が言う。
「……僕は、ヒーローになんかなれないから。せめて、どんな形でもいいから、僕はお前の味方だよって示したかった」
言ってから、なんだか僕……くさいこと言ったような気がする、と口元を覆った。
「ヒーロォ?」と宗太が聞き返した。なんだそれ、と明るく笑う。
あのあと、宗太へのいじめはなくなった。もちろん、何の問題もないといえば嘘になる。今でも月島のグループのやつらにはことごとく無視されるし、クラスの奴らもどこかよそよそしい。でも何人かはむしろ親切に接してくれるようになったし、何より宗太がいじめられる前と同じように笑ってくれるから、これ以上のことなんてないと思うのだ。
「……ヒーローだよ」
風に混じって、微かに宗太の声が聞こえた。
「え?」
「こないだのお前、ヒーローみたいだった。かっこいいけど、なんか、そう、傷だらけ。傷だらけのヒーローって感じだった」
前のほうで自転車をこいでいる宗太の表情は見ることが出来ない。でも、きっと真顔なんだろうな、と思った。
傷だらけ。
そういえば小学生の時、僕をいじめていた奴らを殴った後の宗太は傷だらけだった。
傷だらけなのに、僕と目が合うとにやりと笑って。すごく、すごくかっこいいとその時の僕は思ったのだ。
ずっと助けられなかった挙句、自らびしょ濡れになって無様に謝罪した僕とは大違いだ。
「やっぱり、敵わないなあ」
「ん?」
「何でもない」
なんだよー、と呟いたあと、「あっ」と宗太が大声を上げた。
何事? と首をかしげる僕を、彼が半笑いで振り返る。
「お前、女子高生と話したんだろ。さっきうっかりスルーしちゃったけど」
「うん……」
「どうだった」
どうだったって、と僕は首をひねる。
「普通に、可愛い人だなって思ったけど」
「ふつうにい? なんだその余裕ありげな台詞っ。名前とか聞かなかったのかよ?」
あっこいつからかう気満々だ、と身構えたときにはもう遅い。奴はにやにやとこちらを振り返りながら「なぁ」と急かしてくる。危ないっつーの、と声を飛ばしながら、ぼくは必死で記憶を辿った。
フルネームは……、聞かなかった気がする。
「片瀬さん、だったかなぁ」
「誰だよ、だな」
「だから知らない人だったんだって」
「そっかー。ま、仕方ないよな」
「何がだよ」
――君もね、ヒーローになる資格は持ってるんだと思うよ。
遠まわしではあるけれど、彼女は僕の背中を押してくれたような気がする。
彼女は別れ際に、「私、失恋したんだよね」と呟いていた。それがあの嘲るような彼女の発言とつながっていたのかどうかは、僕には分からない。
どっちにしても、僕にとってのあの時の彼女もまた、ヒーローだったのだと思う。
――傷だらけだからこそ、痛みを知っているからこそ、ひとはヒーローになれるんじゃないか。
なんだかまたくさいこと考えちゃってるかも……と不安になる僕の鞄の中では、絆創膏の箱がカタカタと音を立てて揺れていた。
どうでもいい裏話を晒すと、これはまあセンチメンタルに次ぐ、私が二つ目に作った短編でして、そのまあ、ムチャクチャでした。笹野と月島が雑貨店にいるところの初めまでしか書けていなかったものを、文芸誌の締切日当日に部室で顔面蒼白で完成させた素敵な思い出があります。普段温厚で頭のいい友人に初めてやんわりと怒られたのもその日でした。自己嫌悪で死にそうでした。人生、余裕を持って行動すべきです。
話の筋どころか登場人物の名前まで一致していなかったりとか、とりあえずひどい所を修正するのに三時間かかりました。もう動けん。でも多分まだ綻びがいくつかあるかと思われます。すみません。
テーマがテーマなので重いし難しいのですが、なにかしらエールみたいなものが送れたらなあと思って書いたのを覚えています。