黄色の爪
大学から少し離れた海沿いのロッジ風の喫茶店で、僕らは足を休めていた。大きなファンが天井で冷たい空気をかき混ぜている。店内には低く音楽がかかっていた。けれど、その曲と曲の合間に訪れる静寂が僕には億劫だった。彼女はアイスコーヒーのグラスについた水滴を指で拭い落としている。
「やっぱりそうみたい」
僕には彼女の退屈を紛らすこともできない。ただ気まずい時間を打破するだけの話題を考えつこうと窓の外を眺めていた。そのためぼんやりしていた僕はもう一度彼女に聞き返した。
「何が」
彼女は少し口を尖らせてから、アイスコーヒーに一口だけ口をつけて答えた。
「空気が合わないの」
僕はわけがわからず目を丸くし、クンクンと周りの空気を嗅いでみる。その様子に彼女は少し呆れたように笑い、向かいに座る僕に顔を寄せてきた。ゆるいウエーブのかかった長髪の一束が、彼女の頬にかかる。
「日本の空気が、ね」
彼女はゆっくりとその言葉をつむいだ。僕は映画のワンシーンを思い出す。美人にしてやられた時の、脇役の間抜け面。誰があんたなんかと、ってスラングで言い放たれる。言い放たれる瞬間まで気付かずに。そうして脇役は、美人の隣から引き落とされるのだ。僕はでもまだ彼女を信じてすがりながら言う。
「何が。 どういうことだよ」
彼女は驚いている僕に飽きたのか、はたまた理解できない僕に呆れたのか、目を伏せて自分の長い髪の毛先をいじり始める。伏せた長いまつげが余裕あり気で、僕には少しうらめしく見える。
「私が退屈なのは、日本にいるせい。それがこの前の旅行でわかったの」
彼女は夏休みに一人でブラジルに旅行に行っていた。僕は集中講義を取っていたし、ブラジルになんて興味がない。だから、彼女に行ってきたら、と軽くかわしたあの旅行だ。もとより、彼女はどこにでも一人で行ってしまう。なんの物怖じもしない自由でかっこいい女だ。僕はだから軽くかわした。そしたら今日はこんなことを言う。僕はいつも理解に苦しむ。
「だからってどうしようもないじゃん」
僕はすねて、物を知ったつもりでいる子供のような返答をした。でも、その判断はできるくらいは大人で、未成熟な自分を感じた僕は自分が恥ずかしくなった。
「なんか君の口ぶりだと、もうすでに日本を出て行きたいように聞こえるよ」
僕が取り繕うように言うと、彼女はふふっと楽しそうに声をもらして笑った。
「うん、もう出て行く」
また僕は驚いた。それはそうだ。さっきまで海辺を、来期の講義は何をとろうかなんて浮かない顔して歩いていて、最後には僕と同じ講義にするって約束していたんだから。しかし、彼女は嘘は言わないし、なにより気分屋であったから僕は信じないわけにはいかない。
「いつ決めたんだよ」
僕は声を荒げてしまい、店員と他の客の視線を伺って咳払いした。彼女は特に気にした様子もなく、窓のほうに自分の手をかざしマニキュアの輝きを楽しんでいた。さすがに僕も頭にきて、恨みがましい視線を彼女に送る。
「いまさっき」
僕の視線なんていとも簡単に擦り抜けて、彼女は微笑んで言った。どうしてそんなに笑えるんだ。
「大切なことを一人でさっさと決めるなよ。」
僕は憮然とした表情だったのだろう。彼女はストローの入っていた袋のごみを爪先ではじいて、少し眉をひそめた。
「でも私の事だから」
彼女が表情を曇らせて、ぽつりと言い放った。沈黙の中、ボサ・ノヴァの音に混じって、コップに入った氷が涼しい音を立てて崩れる。
そう言われたら僕に出る幕はなくなってしまう。一緒に笑いあった思い出さえも色味をうしなっていくようだ。でも、僕と君がともにいて、これからの君の楽しい人生を保障できるほど僕には力もないし、今はまだこれからそうなる自信もない。
「ねぇ、和宏。夏休みの最初さ、動物園行ったの覚えてる? 」
喫茶店を出た頃には、だいぶ日が傾いて風が冷たくなっていた。風が、ほてった頬の温度を下げていく。僕らはもう一度浜辺に出た。交わす言葉は少ない。海水浴場を通りかかる。時期はずれの海水浴場では、元気のないやしの木が短い葉っぱを風に揺らしていた。海水浴場を活性化しようと無理やり暖かいところから連れてこられた木。場違いだ。
「…うん」
僕は何も言わずにぐんぐん浜辺に近づいていった。彼女もついてきたようだ。横目で見た彼女は、夕暮れの光に照らされて曇った顔をしていた。風にあおられる長い髪を耳にかけなおしている。
僕は足元にあった小石を拾って海に投げた。着水した音は波の音にかき消されたらしい。振りかぶった腕にかすかな感触が残るだけだった。
「あそこにいたさ、なんて言ったっけ? オーストラリアに住んでて、穴掘って地下に住んでるやつ。もさっとしてるの」
彼女は砂浜に丸くなって座り、へんてこな動物を描いている。波打ち際のぬれた砂は、彼女の指が描く線を残して行く。僕はしばし頭をひねり、結局彼女の言葉だけを頼りに名前を探し当てた。
「…プレーリードッグ」
彼女はこくこくとうれしそうに何度もうなずいた。
「あれがさ、とぼけた顔してて可愛かったよね」
立ち上がって手についた砂を払うと、また歩き出した。彼女の表情が見えない。
「あの日は暑くてさ、日本より暑いところに住んでるくせに動物がぐったりしてて…」
僕たちは動物園の話をしながら、テトラポットをよじ登り、港の見える防波堤に上がった。いつになく饒舌な彼女に、僕は次に来る別れを理解する。あまり彼女は思い出話をしない。柄にもない。
彼女は防波堤を港のほうに歩き、僕はそのちょっと後ろをついていった。いつもの距離だ。僕は彼女の後ろを歩くのが好きだった。
彼女の、後ろで組んだ指先の爪がきれいな黄色だったことにやっと気付く。今日一日彼女といたのにも関わらずだ。あぁ、そうだ。それで僕は理解した。一緒にいた時間はきっと誰よりも多かったのに、僕は見落としていたのだ。たとえ小さいことであったとしても、なにかしら彼女に影響を与えているはずだ。けれど、いままで気付かなかった。もしかしたら見ていたのかもしれない。だけど、彼女のことをほかの誰よりも知りたいという願望が、ちいさな変化を追いきれず、逆に僕が知る事を恐れてしまい、諦めてしまった。僕には彼女を理解できないのかもしれない、と。
「楽しかった。…絶対忘れないから」
彼女は一瞬だけ振り返った。それを追った僕は目の端で、彼女の目が光ったのを捉えた。
「…忘れちゃえば」
僕は精一杯強がる。別れを惜しむ気持ちと彼女への感謝や謝罪が、すっと胸に広がっていく。彼女は黙ったまま海を見ている。僕は深呼吸した。
「行こう」
この海のずっと向こうに彼女の目指すブラジルがあって、彼女はそこへ渡って行ってしまう。ブラジルは彼女の希望の地だ。そしてさっきまでの僕の絶望の地だった。しかしながら、彼女自身も不安や悲しみを持っている。それが僕にとっての救いだった。
寂れた港の駐車場近くの、物産館と名づけられた小さな店に入る。中はちょっとだけ評判のジェラードショップがあって、その脇では地元の海産物とさしてかわいくもない僕らの地元のPRキャラクターグッズが売られていた。彼女はそのキャラクターを手にとって、ぶさいくと言って笑い、頭をつぶしてみせた。
「その爪の色、きれいだね」
僕はキャラクターの白と彼女の爪の黄色のコントラストをほめた。
「ありがとう」
彼女は目を伏せて少し照れたそぶりを見せる。
そのあと、僕らは手を振って別れた。
あくる日、講義を終えて自分の部屋に帰ってくると、ポストの中に妙に膨らんだ小包が押し込まれていた。手に取るとエアパッキンの感触。しかもエアメールだ。そして、見慣れた筆跡。僕は急いで鍵を開け、靴を脱ぐのももどかしいくらい急いではさみに手をかけた。中から出てきたのはCDと一枚の紙切れだった。
和弘、元気してる? こっちで注目のボサ・ノヴァの新人を見つけたからCD送るね。日本ではかなりレアだよ。
たったそれだけ。
「自分の近況はなしかよ」
僕は部屋の壁にもたれながら小さい紙切れに言ってやった。
「ばーか」
口元が自然と緩む。誰も見ていやしないのに、僕は右手で頭をかいた。僕はその後今来た道をひたすら戻る事になる。遠く異国の地にいる、かっこいいあの人に手紙を書く必要があるのだから。
はじめまして、もとじろうです。読んでくださってありがとうございます。何かご感想等ありましたら、一言でも良いので書き込んでくださるとうれしいです。これから執筆していく上での糧になるので、よろしくお願いします。