閑話
共同研究を始めて一週間ほど経ったある夜。
研究室で疲れ果てて椅子に沈み込む俺を見て、ゼノスが珍しく穏やかな声で言った。
「カズヤ。今日はもう十分だ。少し休め。
……それより、貴様は時折、奇妙なことを言うな。
『前世ではこんなこともできた』『あんなこともできた』と。
その『前世』とやらは、どのような世界だったのだ?」
俺は少し迷った後、ゆっくりと話し始めた。
「……とにかく、便利な世界でした。
人類の文明史上、最も生活にストレスの少ない社会だったと思います」
ゼノスは静かに耳を傾けている。最近、彼は俺の話を聞くとき、以前より肩の力を抜くようになっていた。
俺は天井を眺めながら続けた。
「例えば……雨が降っても、靴がほとんど濡れません。
整備された道は水を効率的に流し、排水も完璧。
それでも少し濡れたら、すぐに家に帰って熱い風で乾かせば終わりです。
ここでは雨が降ったら地面はすぐに泥だらけ。靴は一瞬でびしょ濡れ。
だから俺、足元だけを凍らせる生活魔法を編み出したんです。
……正直、情けないですよね。国家の危機でもないのに、靴が濡れるのが嫌だなんて理由で魔法を使うなんて」
ゼノスは低く笑った。
「情けないとは思わん。
貴様は常に『不便をどう減らすか』を考えている。
それは我々にはない発想だ」
俺は苦笑しながらさらに続けた。
「他にもありますよ。
冷たい床が嫌で寝る前に布団の下だけを少し温める魔法。
飲み物が冷めないように保温する小技。
服の汚れを浮かせて落とす簡易洗浄魔法……。
前世では洗濯機が全部やってくれましたからね。
あとは、放っておくと太るから、食べた分のカロリーを微弱な熱変換で強制消費させる『微小代謝魔法』とか。
まあ、これに関しては脂肪の絶縁性が強すぎて、全然効果が出てないんですけど」
ゼノスは静かに頷き、自分の分厚い胸に手を当てた。
「余も若い頃は、似たような葛藤を抱えていた。
当時、我々はまだ『静止の極致』を極めきれていなかった。
魔力の固定が甘く、放った後の隙が大きすぎた。
……そこで余は、金剛不動の原型となる技を編み出した。
放った後の余剰魔力を、肉体の表面に極限まで固定し続ける技だ。
何年も研究を重ね、自身の肉体を限界まで鍛え上げ……ようやく完成した。
だが、当時はただの『隙を埋めるための必死の足掻き』だったよ」
彼は少し遠い目をして続けた。
「我々は三百年来、ただ『如何に強く戦うか』だけを追求してきた。
魔獣の群れが容赦なく押し寄せる中、弱い者はただ踏み潰されるだけだったからな。
……貴様の『不便さを嫌う気持ち』は、我々にはない視点だ。
生存のための合理性ではなく、生活のための合理性……
そのギャップこそが、静止と流動の融合を生む鍵になるのかもしれん」
俺は自分の手を眺めながら呟いた。
「皆が『強く爆発させる』方向に進化した世界で、僕は『便利に、快適に、効率的に』という発想で魔法を使ってしまう。
やっぱり、異質ですよね」
ゼノスは静かに微笑んだ。
「それが貴様の強みだ。
……これからも遠慮なく、その視点で我々の常識を突き崩してくれ。
余はそれを楽しみにしている」
研究室に短い沈黙が落ちた。
やがてゼノスが立ち上がり、俺の肩を軽く叩いた。
「カズヤ。
貴様が前世から持ってきた『不便さを嫌う気持ち』は、
我々の硬化した魔導に注がれる新鮮な風だ。
……明日も続けよう。静止と流動の融合を、さらに深めていくために」
「……わかりました。
ただ、たまには前世のふかふかのベッドを思い出して、ため息をつきたくなりますけどね」
ゼノスは低く笑った。
「その時は余の筋肉を枕にするが良い」
「それだけは勘弁してください。硬くて寝違えます」
俺たちの軽い笑い声が、夜更けの研究室に溶けていった。




