第二部・第11話:私はまだ知らない――彼が“死神”と呼ばれていたことを
「ねえ、聞いた? 新任の侍女長が言ってたのよ……あの人のこと……」
「誰のこと?」
「“お嬢様の影”よ。あの騎士。黒髪で、無表情で、まるで人形みたいな……」
「……ああ、カイン様?」
「そう、その人。──“死神”って呼ばれてたって……」
中庭に面した回廊を歩いていた私は、ふと耳に入ったささやき声に足を止めた。
(死神……?)
「昔、王都で大きな反乱があった時、その影で動いていたらしいの。たった一晩で、反乱貴族の屋敷が三つ、無人になったって……」
「え、こわ……! それって、まさか全部――」
「誰も確証はないけど、名前も素性も残さず、任務だけを遂行する影。殺すべき相手だけが“例外なく死ぬ”。だから、“王宮の死神”って――」
「……っ!」
私は思わず、背中に冷たいものが走るのを感じた。
“死神”――
そんな異名、カインから聞いたことはない。
彼は過去に、影としての生い立ちを少し語ってくれた。
けれど、それ以上のことは言わなかった。
任務の内容も、王都での動きも。
……まさか、あの人が、そんな存在だったなんて。
(でも、あの優しさが全部……偽りだったとは思えない)
私を守ってくれているカイン。
毎日、髪を乾かしてくれて、服を用意してくれて、スープを「あーん」してくるような人が――
“死神”と呼ばれる冷酷な暗殺者だったなんて、どうしても結びつかない。
「…………カイン」
「はい、お嬢様」
いつの間にか、すぐ後ろにいた彼が、静かに頭を下げる。
「さっき……“死神”って呼ばれてるって、聞いたんだけど」
「…………」
カインの瞳が、わずかに揺れた。
だが、すぐにいつもの無表情に戻る。
「……事実です」
「っ……」
私は、その言葉に、言葉を失った。
「影の世界では、感情は不要です。名前も、過去も、未来も。ただ“任務”があるだけ。……かつての私は、それを機械のようにこなしていました」
「……でも、あなたは」
「今は違う、と?」
「…………」
私は、言葉に詰まった。
“今は違う”――
そう言いたい。でも、それは私が“信じたい”だけなのかもしれない。
(この人は、本当に……“誰”なの?)
甘くて優しくて、誠実で、まっすぐで。
でもその内側に、刃を隠しているのかもしれない。
「……あなたが私に見せてる顔は、本当のあなたなの?」
「はい。今の私は、“お嬢様のために生きる”と決めた者です」
「……じゃあ、そのためならまた“死神”になるの?」
「……お嬢様が望むなら、“死神”に戻りましょう」
「…………!」
私は、息を呑んだ。
この人は本気だ。
私のためなら、笑って人を殺せる。
私のためなら、世界を敵に回せる。
(そんなの、怖いに決まってるのに――)
「……私は、あなたに“人を殺してほしい”なんて、望まないわ」
「……そう願っております」
「でも……」
言葉が喉につかえる。
だって、それが“本当に望んでいないこと”なのか、自信が持てなかったから。
私がまた、何かに巻き込まれて、誰かに傷つけられそうになったら。
この人が刃を抜いて、私のために何かを奪ってしまったとして――
その時、私は。
「……お嬢様?」
「……なんでもない。部屋に戻るわ」
私は、カインの手を取らず、先に歩き出した。
(私はまだ、彼のすべてを知らない)
だけど、それを知った時――
きっと私は、もう戻れなくなる。




