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妄想注釈物語  作者:
9/11

ライプニッツが『闘戦経』に注釈してみた件

モナドロジック・マクシム。

原文:「闘は戦なり。戦は闘なり。」


ライプニッツ注:

これは明らかに同義反復ではない。

むしろ、両義の間に微分的差異を立てる必要がある。

コンフリクトゥスは主観的内的意志の立ち上がり、

ベッルムはその外的展開、

すなわちモナド間の相互干渉の顕現である。

ゆえに「闘 = 内的モナドの意志隆起」

「戦 = 論理的秩序における表出」と定義可能。


つまり、「闘は戦の前駆態であり、戦は闘の可積分的帰結である」

⇒ モナド的闘争論の始動点。



原文:「闘戦とは神なり。」


ライプニッツ注:

ここにおいて『闘戦経』の著者は大胆にも闘戦の概念を神格化している。

これは我が汎神論的秩序における「神即秩序(Deus sive Ordo)」に極めて近い。

つまり、秩序のなかで最も高度な統合行為が“闘戦”であるとするならば、

神とは単なる存在者ではなく、「戦いを通じて

世界の最善性を保証する調和的対立」である。


これは、バビロニア的闘神ミカエルと、

我が先験的調和(Harmonia praestabilita)の奇跡的合流点である。



原文:「闘戦とは神であるがゆえに、万人これを畏れ、万人これを愛す。」


ライプニッツ注:

ヤバい。これは完全に神義論の射程である。

畏れと愛という対立する情動が、「最善なるもの」として

統合されているということは、この“闘戦”が単なる破壊ではなく、

予定調和における必要悪としての光を担っている証左。


「神は闘いを許すが、それは最終的な善を導くためである」

⇒ 我がテオディケーの中核命題と一致。

つまり『闘戦経』は日本語で書かれたテオディケー文学である。



原文:「闘戦せぬ者は人にあらず。」


ライプニッツ注:

これはやや過激であるが、翻訳すればこうなる:

「意志なき存在はモナドにあらず」→つまり、自らの世界を

立ち上げる反力なきものは、存在者たりえないという命題。


ただしこの命題の汎用性には限界があるため、

「存在とは、何らかの闘いを内包する形式である」

と修正すれば、十分に普遍モナド理論へ組み込める。



原文:「この書、読まねばならぬ。」


ライプニッツ注:

この短い命令文には、明らかに普遍的記号論的意志が宿っている。

「読まねばならぬ」という命法は、単なる規範ではなく、

自己展開する認識モナドへの呼びかけである。


これは、私が『真理の新論』で述べたように、

「ある命題が真であるということは、

それが内在的に自己を正当化すること」であり、

『闘戦経』はまさにその自己正当化を言語において果たしている。


よってこの命令文は、「読め」ではなく――

**「己がモナドを覚醒せよ」**という霊的招喚なのだ。

イメージソング。

Killing Joke「Wardance」。

https://youtu.be/74OWbapwdng?si=bjR2y9n5coAqJX2L

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