ライプニッツが『闘戦経』に注釈してみた件
モナドロジック・マクシム。
原文:「闘は戦なり。戦は闘なり。」
ライプニッツ注:
これは明らかに同義反復ではない。
むしろ、両義の間に微分的差異を立てる必要がある。
闘は主観的内的意志の立ち上がり、
戦はその外的展開、
すなわちモナド間の相互干渉の顕現である。
ゆえに「闘 = 内的モナドの意志隆起」
「戦 = 論理的秩序における表出」と定義可能。
つまり、「闘は戦の前駆態であり、戦は闘の可積分的帰結である」
⇒ モナド的闘争論の始動点。
原文:「闘戦とは神なり。」
ライプニッツ注:
ここにおいて『闘戦経』の著者は大胆にも闘戦の概念を神格化している。
これは我が汎神論的秩序における「神即秩序(Deus sive Ordo)」に極めて近い。
つまり、秩序のなかで最も高度な統合行為が“闘戦”であるとするならば、
神とは単なる存在者ではなく、「戦いを通じて
世界の最善性を保証する調和的対立」である。
これは、バビロニア的闘神ミカエルと、
我が先験的調和(Harmonia praestabilita)の奇跡的合流点である。
原文:「闘戦とは神であるがゆえに、万人これを畏れ、万人これを愛す。」
ライプニッツ注:
ヤバい。これは完全に神義論の射程である。
畏れと愛という対立する情動が、「最善なるもの」として
統合されているということは、この“闘戦”が単なる破壊ではなく、
予定調和における必要悪としての光を担っている証左。
「神は闘いを許すが、それは最終的な善を導くためである」
⇒ 我がテオディケーの中核命題と一致。
つまり『闘戦経』は日本語で書かれたテオディケー文学である。
原文:「闘戦せぬ者は人にあらず。」
ライプニッツ注:
これはやや過激であるが、翻訳すればこうなる:
「意志なき存在はモナドにあらず」→つまり、自らの世界を
立ち上げる反力なきものは、存在者たりえないという命題。
ただしこの命題の汎用性には限界があるため、
「存在とは、何らかの闘いを内包する形式である」
と修正すれば、十分に普遍モナド理論へ組み込める。
原文:「この書、読まねばならぬ。」
ライプニッツ注:
この短い命令文には、明らかに普遍的記号論的意志が宿っている。
「読まねばならぬ」という命法は、単なる規範ではなく、
自己展開する認識モナドへの呼びかけである。
これは、私が『真理の新論』で述べたように、
「ある命題が真であるということは、
それが内在的に自己を正当化すること」であり、
『闘戦経』はまさにその自己正当化を言語において果たしている。
よってこの命令文は、「読め」ではなく――
**「己がモナドを覚醒せよ」**という霊的招喚なのだ。
イメージソング。
Killing Joke「Wardance」。
https://youtu.be/74OWbapwdng?si=bjR2y9n5coAqJX2L