ヒルデガルトが『理趣経』に注釈してみた件
えっちなのはいけないと思います!いや…いけなくもない…かな?
この経典を開いたとき、
私は思わずページを閉じそうになりました。
正直に申しますと――内容があまりにあけすけで。
「一切の如来は、愛欲を離れずして涅槃に住す」
えっちなのは、いけないと思います!
(手を合わせながら即座に唱える)
でも、心のどこかで、もうひとりの私がこう囁くのです。
「……ほんとうに“いけない”のかしら?」
私は中世の修道女。
祈りと歌と植物と、ひたむきな静けさのなかで、
天からの言葉にならない声を受け取り、書き記してまいりました。
でも、思い出すのです。
幻視を受けたある朝、ひとすじの光が胸元に差し込んだあのとき。
まるで、世界全体がひとつの身体になったような感覚がありました。
それは歓喜でした。
けれども私は、まだ**「愛欲」という言葉に対して、戸惑い**があるのです。
『理趣経』に記される一節一節は、
私がこれまで語ることをためらっていた、
**“身体”と“霊魂”の接続点”**に踏み込んでいます。
「一切の女人色身は、菩薩の清浄法身なり」
この言葉を読むとき、私は…正直、
「おっぱいが…えっちなのに、仏……!?!」
と一瞬思ってしまい、すぐに頬を赤らめました。
でも考えてみれば、
私たちが日々接する“肉体”とは、
聖霊が宿る器でもあるのです。
それは私の神学とも通じるところがあります。
“色”が穢れているのではなく、
“色”を穢れたものとしてしまう心が、
本当は浄められるべきものなのかもしれません。
『理趣経』は、あえて最もセンシティブな領域を
聖なるものとして読むことで、
人間の分離癖を癒そうとしている――そんな気がします。
この経典を通して、私は自分自身にも問いかけました。
“あなたが信じていた神は、果たして
あなたの羞恥心の外側にいたのではないですか?”
ああ、いけない。
私、また深読みしすぎてしまいました。
やっぱり…えっちなのは、
ちょっと…ちょっと…どうなんでしょうか……
でも、たぶん神はこう微笑むのかもしれません。
「愛が真実であるならば、形式は問いませんよ」と。
もう少し、私はこの書と向き合ってみます。
静かな部屋で、ハープの音とともに、
そっと、でも真剣に。
この経典には、ラテン語では書けないような光が満ちています。
私はまだすべてを理解したとは言えませんが、
この光の行方を見届ける準備は、できているつもりです。
イメージソング。
My Bloody Valentine「We Have All The Time In The World」。
https://youtu.be/1fajvqa50Jc?si=DkDLWMNzilfcVp-U