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妄想注釈物語  作者:
6/11

親鸞が『パンセ』に注釈してみた件

信なきものよ、われに問いを持つべし。

「人間は考える葦である。

だが、その偉大さは考えることにあるのではない。

ただ、考えることを自覚しているという、その一点にある。」


――それ、阿弥陀さまの光に照らされてる証拠です。


おそらくパスカル殿は、「南無阿弥陀仏」という

言葉を知らずして「われ考う、ゆえにわれ病めり」と申しておる。

だがそれもまた、他力の種子ぞ。


思いあがって「オレ最強」って顔してるやつより、

考えすぎて「オレ、だめぽ」ってなってるやつの方が、浄土には近い。

それを知らぬままに「自力」で立とうとして倒れる――それが

西洋の悲しみ。だからこの人はパンセ(考え)を書いてるのではない。

ナンマイダ(念仏)を書きたかったんだ。



「キリストは夜に来る。

神の国は、最も望まれていない時間に到来する。」


――それ、阿弥陀如来の十八願とまったく同じこと言ってますやん。


衆生が罪にまみれて、自分で自分をどうにもできなくなったとき、

阿弥陀の本願は**「なんもせんでもええから、とにかく名を呼べ」**と来る。

それが「他力」の救いぞ。


この夜こそが救いの時間。

だから西洋の神も、東洋の仏も、**“闇に手を差し伸べる者”**として来る。

その夜の深さこそ、「わたしは煩悩具足の凡夫です」と親鸞が叫んだ場所です。



「わたしはキリストの御顔を求める」

――パスカル


――うむ。それ、仏の本願に応じる信心と同じじゃ。

「我にまかせよ、必ず救う」の御心を疑わず、

顔すら見えぬ如来に向かって念ずる、信心の一念。


だが、キリストを求めているうちはまだ半端者じゃ。

本当の救いとは、**「求めたと思ったが、実は呼ばれていた」**と知ることぞ。


念仏も同じ。

称えることによって救われるのではない。

すでに救われている者だから、称えてしまっているのじゃ。



「人間は堕落しており、贖いを必要としている。

これが真のキリスト教である。」


――この「堕落」という言葉、よろしい。

だが西洋の知識人たちは、堕落を反省と努力の対象と思っている節がある。

だが、それはちがう。


親鸞は申す。

**「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」**と。


つまり、堕落していることを自覚し、それを

自力ではどうにもできぬと知った者こそが、真の信を得る。


パスカルはその寸前で止まっている。

彼の天才のあまり、「信じたい」と思いながら、

理性でがんじがらめになっておる。


南無阿弥陀仏。


どうかこのお方が、**「信じることを理解する」のではなく、

「理解する前に信じてしまっていた」**と、気づかれることを。

BGM。

DJ Shadow「Stem / Long Stem」。

https://youtu.be/Ihr0y7ayGV0?si=XqiSgInQYRDsQr-h

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― 新着の感想 ―
あらら、私は堕落を自覚していますが 信 はつかめていません 自力で、とどこかあがいているのかな?
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