親鸞が『パンセ』に注釈してみた件
信なきものよ、われに問いを持つべし。
「人間は考える葦である。
だが、その偉大さは考えることにあるのではない。
ただ、考えることを自覚しているという、その一点にある。」
――それ、阿弥陀さまの光に照らされてる証拠です。
おそらくパスカル殿は、「南無阿弥陀仏」という
言葉を知らずして「われ考う、ゆえにわれ病めり」と申しておる。
だがそれもまた、他力の種子ぞ。
思いあがって「オレ最強」って顔してるやつより、
考えすぎて「オレ、だめぽ」ってなってるやつの方が、浄土には近い。
それを知らぬままに「自力」で立とうとして倒れる――それが
西洋の悲しみ。だからこの人はパンセ(考え)を書いてるのではない。
ナンマイダ(念仏)を書きたかったんだ。
「キリストは夜に来る。
神の国は、最も望まれていない時間に到来する。」
――それ、阿弥陀如来の十八願とまったく同じこと言ってますやん。
衆生が罪にまみれて、自分で自分をどうにもできなくなったとき、
阿弥陀の本願は**「なんもせんでもええから、とにかく名を呼べ」**と来る。
それが「他力」の救いぞ。
この夜こそが救いの時間。
だから西洋の神も、東洋の仏も、**“闇に手を差し伸べる者”**として来る。
その夜の深さこそ、「わたしは煩悩具足の凡夫です」と親鸞が叫んだ場所です。
「わたしはキリストの御顔を求める」
――パスカル
――うむ。それ、仏の本願に応じる信心と同じじゃ。
「我にまかせよ、必ず救う」の御心を疑わず、
顔すら見えぬ如来に向かって念ずる、信心の一念。
だが、キリストを求めているうちはまだ半端者じゃ。
本当の救いとは、**「求めたと思ったが、実は呼ばれていた」**と知ることぞ。
念仏も同じ。
称えることによって救われるのではない。
すでに救われている者だから、称えてしまっているのじゃ。
「人間は堕落しており、贖いを必要としている。
これが真のキリスト教である。」
――この「堕落」という言葉、よろしい。
だが西洋の知識人たちは、堕落を反省と努力の対象と思っている節がある。
だが、それはちがう。
親鸞は申す。
**「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」**と。
つまり、堕落していることを自覚し、それを
自力ではどうにもできぬと知った者こそが、真の信を得る。
パスカルはその寸前で止まっている。
彼の天才のあまり、「信じたい」と思いながら、
理性でがんじがらめになっておる。
南無阿弥陀仏。
どうかこのお方が、**「信じることを理解する」のではなく、
「理解する前に信じてしまっていた」**と、気づかれることを。
BGM。
DJ Shadow「Stem / Long Stem」。
https://youtu.be/Ihr0y7ayGV0?si=XqiSgInQYRDsQr-h