関孝和が『方法序説』に注釈してみた件
算法の道において、余は西洋の哲を迎え撃つ。
【はじめに】
関孝和、拝して申す。
このたび、異国より伝わりし「デカルト」なる
学者の著書、『方法序説』を読了せり。
その説くところ、実に誠実、かつ厳密。
しかし、我が和算の道よりすれば、なお気の流転を捉えきれてはおらぬ。
余は本注釈において、ただ批判するにあらず。
算法の道に立脚し、彼の道を包みつつ超えることを目指す所存なり。
【一】「すべてを疑え」とは何か
デカルト曰く:「すべてを疑うことから始めよ。真なるもののみを残せ。」
余が言うならば──
「疑うはよし。されど、気を断ずるなかれ。」
我ら算法家においても、無闇なる信念は誤りを生む。
よって、「疑う」行い自体は尊ぶべき態度にて候。
然れども、西洋においては疑いを以って一切を切り捨て、
**“思考の我”**なるものを中心に据え申す。
我が道においては、
「我」は“算の中にあり”、天地の理と共に在るものなり。
疑いとは気を澱ませる毒にもなりうる。
よって、「術に還る」ための疑いのみを活かすべし。
【二】「我思う、ゆえに我あり」──されば余は?
デカルト曰く:「Cogito ergo sum」
余が曰く──
「我、算法を尽くすがゆえに、我はこの世に在り。」
彼は“思考”を万物の基礎と据える。
まこと鋭し。されど、浮きしぞ。
算法家たる余は、暦を正し、民を導く役目を担い、実務の中で我を知る。
すなわち、余にとって「我が在る」とは、
天の運行に算法を通じて参与することなり。
そのようにして生まれ出ずる我は、思考のみに由らず、
算法の業により確かめられるものなり。
【三】方法的懐疑と算法的構成
デカルト曰く:「複雑な問題は分解して、単純なものから順に考えよ。」
これもまた見事なり。
されど余の眼より見れば、分解のみでは道は尽くせぬ。
算法とは“交差と折返し”の術なり。
拙著『大成算経』においては、単純化よりもむしろ、
**「重ね合わせ」「逆算法」**といった手法に重きを置いた。
自然の理は直線ならず。
折り紙の如く、重なり、回り、また開かれて現れるものなり。
よって、「順序」より「構造」、**「簡単」より「全体」**を観よ。
それが算法家たる者の眼である。
【四】神の保証と算法の背後
デカルト曰く:「神は完全であり、その存在が真理を保証する。」
余においては、
神とは「保証するもの」にあらず、「貫くもの」なり。
デカルト公の論法は、神を論証により立てる。
然れども、余が立つは算法による宇宙の観測なり。
暦法を極めるほどに、天の理は既に息づいておる。
神を証明するまでもなく、算法の内に神は宿る。
されば証明は要らぬ、信仰ではなく、気の調律こそが肝要なり。
【五】普遍的な知を求めて
デカルト曰く:「あらゆる学問は、ひとつの方法から組み立てるべし。」
ここにおいて、
余と彼の道、最も交わるなり。
算法は万学の母。
暦を知れば農を正し、
面積を測れば土木を導き、
図形を操れば絵画を深め、
方程式を組めば天の声を写す。
余は“普遍算法”の確立を目指したが、
それはただの「統一」ではなく、“連続と変化”の技術体系なり。
よってここに申す:
算法とは、理法を通じて万物を統べる“気の音律”なり。
【あとがき】
デカルト公よ、
その精神、余は深く敬す。
されど、貴殿の道はなお、術の身体性を欠いておる。
我が和算は、ただ紙上の抽象にあらず。
**暦・構造・営み・天意を包む「術の宇宙」**なり。
余が願いはただ一つ。
算法の道が東西を貫き、気と理を結ぶ橋とならんこと。
──天元術の奥にて、拙者、そっと筆を置く──
BGM。
Squarepusher「Beep Street」。
https://youtu.be/LKJ-0ZO4pxo?si=_zVQbtxX5QCrfEDo