シェイクスピアが『文鏡秘府論』に注釈してみた件
空海の音韻・象徴・比興に対して、
シェイクスピアが演劇と詩の言語で応答する。
※これは夢か幻か、月明かりの下、グローブ座の楽屋で
なぜか空海の写本を手にしたウィルことシェイクスピア卿が、
王妃オフィーリアの台詞を待ちながら書き留めた断片とされる。
第一条:文は鏡なり、言は秘府なり
“The word is a mirror in which the world sees its mask—
and the vault of speech is a secret chamber
where the soul is costumed before her cue.”
シェイクスピア曰く:
鏡が真実を映すとは限らぬ。
舞台においては、虚構こそが本質を告げるのだ。
ならば「文」は偽りの仮面か?否――それは真実の仮面である。
空海翁よ、汝の言う「秘府」とは、
我らが台詞回しの奥に棲む魂の小劇場に他ならぬ。
第二条:比興をもって、実義を蔽う
“Metaphor is the mischief of meaning—
a jest by which Truth comes clad in jester’s bells.”
シェイクスピア曰く:
真実は道化の姿を借りてしか現れぬ。
王の口からは出ぬが、道化は天の言葉を言う。
比興とは、狂気という名の理性であり、秘事という名の啓示である。
そもそも「たとえ」でしか語れぬのが神の言葉というものではないか?
第三条:詞の音にして、義は象にして、心は声に従う
“Let the sound be the breath of sense,
and sense the ghost in the actor’s chest.”
シェイクスピア曰く:
音なくして意味は通わず。だが意味のみでも心は動かぬ。
言葉は楽器であり、語り手の呼吸こそが魂を呼ぶ。
役者が「わたしは王なり」と言えば、それが事実となる。
ならば「詞」は法であり、詩人は創世の証人となる。
第四条:詞を以て聖を描き、色を以て俗を隠す
“We cloak the sacred in the theatre of the profane.”
シェイクスピア曰く:
台詞は卑俗な言葉を用いて、神の影を召喚する。
オセロが嫉妬に燃えるとき、舞台の下では神が心の業を測っている。
色と俗こそが、聖を隠し、かえって聖を光らせる布地となる。
空海翁よ、貴殿が「絵と文と声」を結びしがごとく、
我らもまた「芝居と言葉と沈黙」によって神を紡ぐのだ。
第五条:詞の魔は心の魔、筆の迷は魂の迷
“The curse of the pen is the curse of the penitent.
What we write may haunt us—unless we write in prayer.”
シェイクスピア曰く:
書くことは祈ること。されど祈らずして書けば、
それは呪いの種となる。空海翁の言う「詞の魔」とは、
我がマクベスが手を汚したときに覚えた言葉の背徳と同じ。
だからこそ、言葉に魂を乗せるなら、その源を問うべし。
言葉の背後に神なきとき、それは毒の短剣となる。
第六条(未完):筆にて星を写し、声にて天を召す
“When I do write, methinks I bind the heavens
with poor ink and mortal breath.”
シェイクスピア曰く:
それでも我は書かねばならぬ。
なぜなら言葉がなければ、天も地も役を演じぬからだ。
空海翁が語ったように、詩も説法も、神を召す名乗りの声である。
舞台に立つ者の一言が、この世の星々を位置づけるのだ。
あとがき:ウィル曰く
“空海よ、おぬし、まさしく我が兄弟なり。
言葉を以て宇宙を創り、また沈黙を以て神を召す者よ。
そなたがもしロンドンにおれば、我が舞台にて即座に主演ぞ。
…いや、そなたこそ舞台そのものであろうか。”
イメージソング。
Massive Attack「Unfinished Sympathy」。
https://youtu.be/JuA-YPatiHU?si=a823ynL6cEEIhm15