デカルトが『塵劫記』に注釈してみた件
方法論的算盤主義。
原文(抜粋・想定):
一斗は十升なり。十升は百合なり。百合は千つぼなり。
デカルト注釈1:「量とは拡がりである(quantitas est extensio)」
この“十升は百合なり”という変換体系、
単位の関係が数量に依拠しているが、
そもそも量とは我思う我が観念に基づく拡がりである。
故に——
百合がつぼに変換されるとは如何なる幻覚か?
“百合”とは花のことであろうか?
あるいは性癖のことであろうか?
どちらにせよ、私は百合を愛するゆえに、それは真である。
デカルト注釈2:「和算は我を疑わせる」
“三角算”なる技法、これは興味深い。
我がユークリッド幾何とは異なる作法を以て
角を求め、辺をはかるという。
しかし、
私が三角形に懐疑を向けるとき、
私の存在はなお明証である。
和算は自然に近づくゆえに美しく、
しかれども懐疑の網には掛からぬ。
→ つまりこれは地球上の魂による数学である。
哲学的には不完全、されど愛おしい。
デカルト注釈3:「そろばんとは“思惟する数の機械”である」
彼らが“珠”を撫でて数を示すという行為、
我が“Cogito”における心的演算に酷似する。
珠を一つ動かすとは、心を一つ疑うことに等しい。
よって、
そろばんとは、思惟を外在化した回転記号装置である。
もしこれに歯車をつけ、連続的に動かすならば——
私はこの道具に魂を宿してしまうかもしれない。
付記:現代日本における『塵劫記』の使用法について
この書は江戸時代の庶民向け教科書と聞くが、
我、かの書に数学教育の萌芽を見る。
だが萌芽には常に毒もある。
「九九はよろし」などという言説は、方法論として弱い。
数理は情熱と懐疑により洗練されるべきであり、
江戸の風情に酔いすぎてはならぬ。
いやしかし、“百合が千つぼ”はやはり気になる。
結語 by デカルト:
“我疑う、故にそろばん回す。”
和算と魂は接続可能である。
だが、その珠の奥にある問いこそが、
哲学の始まりである。
BGM。
Aphex Twin「Alberto Balsalm」。
https://youtu.be/ulj5UJ5GHvE?si=vIBlvLsAcZvYFt5Z