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妄想注釈物語  作者:
10/11

デカルトが『塵劫記』に注釈してみた件

方法論的算盤主義。

原文(抜粋・想定):

一斗は十升なり。十升は百合なり。百合は千つぼなり。


デカルト注釈1:「量とは拡がりである(quantitas est extensio)」

この“十升は百合なり”という変換体系、

単位の関係が数量に依拠しているが、

そもそも量とは我思う我が観念に基づく拡がりである。


故に——

百合がつぼに変換されるとは如何なる幻覚か?

“百合”とは花のことであろうか?

あるいは性癖のことであろうか?

どちらにせよ、私は百合を愛するゆえに、それは真である。



デカルト注釈2:「和算は我を疑わせる」

“三角算”なる技法、これは興味深い。

我がユークリッド幾何とは異なる作法を以て

角を求め、辺をはかるという。

しかし、

私が三角形に懐疑を向けるとき、

私の存在はなお明証である。


和算は自然に近づくゆえに美しく、

しかれども懐疑の網には掛からぬ。


→ つまりこれは地球上の魂による数学である。

哲学的には不完全、されど愛おしい。



デカルト注釈3:「そろばんとは“思惟する数の機械”である」

彼らが“珠”を撫でて数を示すという行為、

我が“Cogito”における心的演算に酷似する。


珠を一つ動かすとは、心を一つ疑うことに等しい。

よって、

そろばんとは、思惟を外在化した回転記号装置である。


もしこれに歯車をつけ、連続的に動かすならば——

私はこの道具に魂を宿してしまうかもしれない。



付記:現代日本における『塵劫記』の使用法について

この書は江戸時代の庶民向け教科書と聞くが、

我、かの書に数学教育の萌芽を見る。

だが萌芽には常に毒もある。

「九九はよろし」などという言説は、方法論として弱い。


数理は情熱と懐疑により洗練されるべきであり、

江戸の風情に酔いすぎてはならぬ。


いやしかし、“百合が千つぼ”はやはり気になる。



結語 by デカルト:

“我疑う、故にそろばん回す。”


和算と魂は接続可能である。

だが、その珠の奥にある問いこそが、

哲学の始まりである。

BGM。

Aphex Twin「Alberto Balsalm」。

https://youtu.be/ulj5UJ5GHvE?si=vIBlvLsAcZvYFt5Z

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