曹操が『五輪書』に注釈してみた件
武とは国家か、個か。それとも詩か。
【原文:宮本武蔵『五輪書・地之巻』より抜粋】
「兵法といふは、我が身一つにて、萬の敵に勝つことをいふ。
……兵法の道といふは、太刀を持たぬ時にも武士の道なり。」
【注釈:曹孟徳筆】
ふむ……いきなり面白いことを言う男だな、この武蔵というのは。
「我が身一つにて萬の敵に勝つ」、か。
かつて、袁紹を破り、呂布を誅し、漢を乗っ取らんとしたこの私でさえ、
"万の敵"には、つねに"兵"を用いた。
群れを率い、戦を整え、風と地形と天命を計る。
それが覇者の道というものだ。
だが——
個の武において、これほど純粋に「我が身」を問うた男を、
私はほとんど知らぬ。
これぞ“英雄”の逆像。
いや、“詩”の如き存在だ。
彼が語る兵法とは、軍の兵ではなく、生きる姿勢そのものを指す。
それは、かつての荘子がいう「逍遥遊」にも通じる。
武を極める者が、刀を捨ててなお、武人であるというならば、
それはもはや美学の域だろう。
【原文:『水之巻』より】
「兵法の道は、太刀の道に非ず、心の道なり。」
【注釈:曹操コメント】
そうか……
"道"とは、やはり刀の技ではなく、「心」に宿るものなのか。
おそらく武蔵は、最後まで自らを「国家」としては扱わなかった。
彼は天下を望まぬ者である。
だが、その芸は、天下を治める者にすら一刀両断の覚悟を与える。
私がこの世にあった頃、
こんな男が一人でもいたなら、
その存在だけで十万の兵に値しただろう。
芸術としての武。
孤高の剣聖。
——五輪書は、もはや"兵書"ではなく、"詩経"である。
【原文:『火之巻』より】
「敵に勝たんと思はず、敵に負けじとおもふ心、肝要也。」
【注釈:曹操再び】
勝とうとする心は、時に視野を狭くする。
この武蔵、兵を率いた経験はおそらくなかろう。
だが、「負けじと思う」ことの重要性を説いている点は、
まことに大局を見据えた者の言葉である。
勝ちは偶然でも訪れる。
だが、「負けない」ことは、習慣であり、構えであり、芸術である。
敗れぬ者は、やがて勝つ。
——この道理を、あの若造(劉備)にも教えてやればよかったわ。
【原文:『風之巻』より】
「風の巻と申すは、諸流の兵法の道を学び、我が流と他の流との
違いを知り、善悪を考へ、兵法の根本を知る書なり。」
【注釈:曹操筆】
風とは……流れ、すなわち“流派”のことか。
なるほど、この武蔵、戦いの道を“流”と見ておる。
つまりは文化としての“風”だ。
私は、かつて無数の流派を吸収し、改良し、
魏国という一つの大河を成した。
だがこの男は、比較の中で自他を峻別しながら、
決して「統一」を目指しておらぬ。
むしろ——風は吹き渡るものとして、
固定されず、名前を持たぬまま、ただ術として漂っている。
これは驚くべきことだ。
"風流"とは、ここにある。
剣術とは流儀の比較ではない。
風に乗る心をつかまえよ、ということだろう。
風は掴めぬが、感じることはできる。
この“風之巻”に通底するのは、文化批評の鋭さにして、
それに耽溺せぬ禅的距離感である。
さながら、魯粛と諸葛亮を同時に論破したような構え。
武蔵よ、貴様……学者も真っ青の審美眼を持っておるな。
【原文:『空之巻』より】
「空といふは、物のなきところを名付けたる言葉也。
……兵法の道を空なることと知るべき也。」
【注釈:曹操、もはや詩人】
……
空、か。
儂は、空の理を知らなんだ。
天下を掌におさめようとし、
詩を詠んで余韻に酔い、
策を弄しては、人を動かし、
ついに——夢の中で亡くなった。
だがこの男は、空こそが武であるという。
兵法が空であるとは、
“かたちあるもの”として学ぶのではなく、
その非存在性において完成されるというのか。
——これは、すでに老荘をも越えている。
技は空でなければならぬ。
意識すれば鈍る。
構えれば崩れる。
言葉にすれば離れる。
「空」の巻とは、
すべての巻を忘れるための巻なのだ。
——それは、儂がいかにしても得られなかったもの。
「空」とは、武を愛しすぎた者への最終的な解毒である。
【最後の注釈:曹操、静かに筆を擱く】
武蔵よ、お前は戦を知らぬ。
されど、戦の真理を見ておる。
お前は天下を欲さぬ。
されど、天下が震えている。
お前はただの剣士ではない。
お前こそ、武の詩人であった。
五輪とは、地・水・火・風、そして空。
これは、肉体から精神へと至る五層の変容にして、
我らがいずれ帰すべき**道**である。
……武蔵。
儂は貴様を兵として用いることはできぬ。
だが、詩として召し抱えたい。
これより魏の太傅府にて、詩学顧問として名簿に加えん。
それほどまでに——貴様の言葉は、鋭い。
孟徳、筆を擱く。
BGM。
DJ Krush「Duality」。
https://youtu.be/SVOM2q7_OQU?si=cYFI3_wgm0PPPPLK