【08】廃病院とゾンビの相性
結論から言うと、投擲物落下防止の網はふたりの体重をすんなりと受け止めた――らしい。
あくまで“らしい”という表現になるのは、クローリカが落下途中で気を失ってしまったからだ。
アリトが気絶したクローリカを抱え、比較的安定した場所まで慎重に網の上を移動した後である。
ふたりはちょっとした幅がある謎の突起にへばりつくように腰を落ち着け、現状の確認とこれからについての話をすることにした。
「正直、ここから上に戻るのは難しいんだ。だが、もう少し降りれば五層へ通じる連絡通路がある」
「……この場で救助を待つのは現実的でないってこと?」
「そうだ。そもそも救助隊が来たとしても、低出力ドローンが運べる程度の重量の子どもでない限り、まずは自力で下へ降りる誘導をされるはずなんだ。ほら、ここはちょっと特殊な場所だろ?」
「そういえば……」
市街地に住まうクローリカが普段意識することはないが、教育の過程で学んだことを頭の隅から引きずり出す。
四層と五層の狭間であるここは、機器を動かすエネルギーである魔力素が極端に薄い。
それというのも、その魔力素というものは動植物によって生み出されているからだ。
生産者となる動植物がほぼ存在しないこの大穴には、上下の層から流れてくる僅かな魔力素が頼りである。
豊富な魔力素さえあれば稼働できる頼もしい大型運搬ドローンでは、この穴の中では飛ぶことすら厳しいのだろう。
「爆発があったなら四層の現場は今頃混乱中だろうし、俺たちが落ちたことすら未だ気づかれていないかもしれない」
「通信は……うわ、魔力素が十分ないと広域ネットワークに繋がらないんだ。……頑張って下に降りるしかないんだね」
「だから、とりあえずは連絡通路に入るぞ。ここは各層の環境管理範囲外だから若干寒いし、安定した場所に足をつけたい」
「はぁい。同意ー……」
とりあえずの方針を決めたものの、下に降りるためにはこの先どうするかのビジョンが、クローリカの頭にはまったく浮かんでこない。
そんなクローリカをよそに、アリトは事も無げに言い放つ。
「じゃあ、まずは網を切って穴を空けるぞ。そして、ここを支点にワイヤーで降下する。これが一番手っ取り早くて安全だ」
「ひえ、安全って言葉の意味がわたしと違う……?」
アリトはどこからともなくツールナイフを取り出し、網のどこに切れ目をいれるべきかの検討を始めてしまう。彼は網から視線を動かさないまま、情けない声をあげるクローリカの頭を、何も言わずに空いている手で撫でた。
なお、クローリカは恐怖で下を見られずまったく気がついていなかったものの、網より二メートルほど真下には幅狭いがしっかりとした柵のついた足場が設置されている。
非常灯程度のぼんやりとした照明もあるので、冷静に下を観察することさえできれば、クローリカももっと落ち着いていられただろう。
もちろん、こんな事態で冷静になれるほどクローリカは経験豊富でもなんでもない。卵が先か、鶏が先か……程度の話でしかないのだが。
網に最小限の穴を空け終わり、いざ降りるかという段階になった頃、ほんのニメートル真下に足場と柵がある事実にクローリカが気がついていないとアリトは思い当たる。
「よし、とりあえず固定を……いや、怖いだろうがほんの少しでいい、下を見てくれクローリカ…………ちゃんと足場があるぞ」
「えっ………………あっ」
「だから、怖いのはちょっとだけだ。落ち着いて降りればすぐに終わる」
「…………早く教えてよーっ!」
若干薄れた恐怖心と今までのギャップに感情が耐えきれず、ひととおりクローリカが喚いたあと、彼女は比較的落ち着いてアリトにしがみついた。
とはいえ、数メートルの降下を無事終えることができて足場にたどり着いたとき、初めての薄闇降下体験に膝が震えてそのまま崩れ落ちたのは仕方がないことだろう。
ぺたりと座り込んで荒い呼吸を続けるクローリカの背を、アリトがやわらかく撫でる。
油断したクローリカを助けるために落ちてしまったという、まごうことない巻き添えの身なのに、アリトはずっと優しいのだ。
仮に、アリト単身で大穴に落ちたのであれば、ワイヤーなど使わず身ひとつでここに降り立てただろうと、クローリカはふと思った。
だというのにアリトは文句も言わず、足手まといのクローリカを辛抱強く支えてくれている。
クローリカがひととおりの自己嫌悪と感謝の思考を交互に重ねた頃には三分ほど経っていて、申し訳無さと羞恥で立ち直った彼女が気を取り直して先に進むべく、すっくと立ち上がる。
「……ごめんありがと、おちついた。んで、五層への連絡通路って……その扉?」
「ん、ああ。おそらく認証は通るはず……コジロウ、俺のIDで解錠申請を――――――よし」
アリトが扉側のシステムと近距離接続で接触すると、すぐに返ってきた平凡な電子音によって扉が横に退き、薄暗くまっすぐな通路が露わになる。
等間隔に設置された赤い非常灯だけがぽつぽつと足元を照らしたその光景は、いつだかに観たホラー映画のワンシーンのようであった。
大穴と同じくらいひんやりとした空気が、通路中に充ちている。
「ねえねえ、わたしこの通路のこと廃病院が舞台のゾンビパニック映画で観たよ……ぜったいに同じだよ……」
「気の所為だ幻覚だラビットホールにリビングデッドは存在しない。さっさと行くぞ」
「ま、まってぇ……!」
未知の廊下に向けて躊躇なく足を進めようとするアリトの腕に、クローリカは必死に縋り付くことしかできなかった。
何故なら、とても怖いので。
キリが良いのでここまでで一区切りです。起承転結でいえば起の部分。
また話数を溜めたら投稿します。