【01】砂色の髪の少女
無機質な電子音が、薄暗い寝室を跳ね回る。
そんな騒がしく狭い室内には、カーテンから漏れた一筋の光が伸び、それはベッドの上に鎮座するこんもりとした物体を横断していた。
「……んー、うるさ…………」
物体は、のそのそとナイトテーブルに向かって、起きろと喚く存在を黙らせるべく手を伸ばす。
手探りで掴んだチョーカー型の端末を細い首に装着し、ほんの少しだけ待ってから掠れた声を空中に放った。
「……おはようイナバ、アラームを止めて」
「マスター、おはようございます。アラームの停止命令を受諾しました。なお、十分後に睡眠反応が検出された場合は、音量を上げて再実行いたします。また、本日は霧の日です。交通の乱れが予想されますので――――」
「ん、わかった。寝ちゃってたらよろしく……」
ひとりの姿しかない室内で、掠れた声の主は二度寝を促す頭を覚醒させるべく、ベッドの上で軽いストレッチをはじめた。
十分後に再びアラームが鳴り響くことはなく、キッチンの籠から取り出したドライフルーツのシリアルバーの包装を剥く。
壁に映したニュースを流し見しながら、咀嚼中のものと同じシリーズのシリアルバーにキノコバナナ味なる面妖なものが追加されたことを思い出す。なお、評判は至って普通に芳しくなく、あちこちで安売りになっている。企画中に予想がつかなかったのだろうかと不思議に思う。
そんなことをぼんやりと考えつつ最後のひとくちを飲み込んで、「定番が一番」だとひとり頷きながら空になった包装を小さく畳む。口内に残ったドライフルーツの甘みと酸味を呷った野菜ジュースで流し込み、壁に映った映像――先週壊滅したテロリストグループの続報――から目を離した。
朝食を終えたあとは手早く身支度と片付けを済ませ、戸締まりを確認してから出勤すべく階下へ足を向ける。住まうアパートメントの一階に、職場があるのだ。
癖のない長い砂色の髪は後頭部でひとつにまとめられ、階段を駆け下りるたび軽快に揺れている。
「あ、しまった……そういえば今日は霧の日だった。イナバ、霧の終わりは何時予定?」
「はい、本日の霧は、十五時までの予定です」
「じゃあ、客足はいつもとあまり変わらないかな……」
階段室の窓から見えるのは、白い霧の世界だけである。
何もない空中に向かって「イナバ」へと声を掛けた砂色の髪の持ち主は、若いというよりもまだどこか幼さが残った少女である。
彼女が勤めるジャンクショップは、小規模ながらも質が良いと評判な店舗だ。マニアックとも言える中古の電子部品を多く取り扱う店の客層は、夕方以降に偏っている。
実店舗による販売だけでなく、大半の商品は通信販売もしている。明るいうちは、店番ついでにそれらの出荷作業をしているのだが――霧の時は見通しが悪くなるので、集荷の運送業者は通常より遅くなるのが常識だ。
ところで、便宜上“霧”と呼んでいるが、これは自然現象ではない。乾燥を防ぐため、定期的に水蒸気を散布しているだけである。
何故ならここは、汚染の進んだ地上から退避するため地下に作られた、巨大なシェルター都市だからだ。
つまり、霧の日以外に階段室から窓の外を見上げても、建物の隙間から空が覗くことは決してない。
いくつもの大きな地下シェルターが横穴で連結され、そうしてひとつの都市を形作っている。正式名称は他にあれど、皆が呼ぶその通称は「ラビットホール」。このうさぎの穴は、世界にいくつかあるシェルター都市のうち、最大かつ最古のものである。
ひとつひとつの穴の中には何層も街が重なり、上の層ほど裕福な者たちが暮らしている。もしかしたら最上層の住民は、安全に空を眺める手段があるのかもしれない。
砂色の髪の少女は、広大な空への渇望を振り切るように、残りの階段を勢いよく駆け下りる。
最下段で眠るオレンジタビーの猫を避けるために最後の二段を飛び降り、そのままの勢いで階段室を出ようとしたが――隅にある見慣れない塊が気になった。
浮浪者が入り込むことはよくあるので、管理会社に連絡をとるべきか……とまで考えたところで、どこか違和感を覚えた。浮浪者にしては妙に身なりが整っているのだ。
その塊はどうやら、眠る顔つきに多少のあどけなさが残るものの大人の体格をした男が横たわった姿だった。
強い臭いはなく、衣服に目立つ汚れやほつれはあれど、全体的に薄汚れているわけでもない。男としては長いほうと言える髪は黒色で、多少ボサついているがまだ艶がある。
しかし、意識が深く落ちているのか、近づいても何の反応も返してこない。まさか死体かと焦ったが、胸元は規則的に上下しているし、鼻先に手をかざせば、ちゃんと呼吸をしていている。
何らかの事件に巻き込まれたのか、なりたてほやほやの浮浪者か――。
「……仕方ない。イナバ、意識不明者の緊急保護よ。必要情報の開示申請をして」
「かしこまりました。意識不明者緊急保護法に基づき個人情報の開示を申請……成功。二〇秒経過後、対象者による拒絶がなければ受諾されます」
意識不明者緊急保護法とは、氏名や年齢をはじめ血液型や既往歴、加入している保険などの情報によって、迅速で的確な救助を目指すものである。
もちろん、いつでも好き勝手に見られるものではなく、対象者の意識さえあれば開示の拒絶が可能であるし、申請の履歴はちゃんと相手側に残る。当然、対象者の端末が壊れていれば不可能な手段なのだが……眠る男のタートルネックをめくって首元を見れば、装着された端末に外見上の異常は無い。
「――――意識不明者緊急保護法に基いた個人情報開示の申請が受諾されました、表示します」
「ん。えぇと、名前は、アリト・エンドウ………………遠藤?」
砂色の髪の少女の視界の隅に、執事服を着た白ウサギと共にウィンドウが現れ、素早く中央に移動させて確認する。そこには、馴染みと異質さを併せ持つ名が表示されていた。
それは、ラビットホールでは通常耳にしない響きである。
まさかと胸騒ぎを覚え、他に何かがないかと男のジャケットを探れば、内ポケットに大事そうに仕舞われた小さな紙の手帳が見つかった。なんでもかんでも首の端末で管理をするこの都市では、紙の手帳などという嗜好品はそうそう見つからないものだ。
ゆっくりと取りだした手帳の表紙に、金の箔押しで印字されていたのは、この世界に存在しないはずの文字だった。
――生徒手帳。
漢字で表された題字の他には、校章と平成という年号、そして学校名。
随分と読み込まれたのか柔らかい手帳をぱらぱらとめくれば、大量の日本語が押し寄せてくる。砂色の髪の少女は、荒くなる呼吸に構うことなく、細かな文字をただひたすら目で追った。裏表紙のホルダーに差し込まれた学生証には、目の前で眠る男よりも随分と幼い印象ではあるものの、面影を強く残した写真が印刷されている。それは、黒い短髪に、黒に近い焦げ茶色の瞳を持った、普通の少年だった。
そして、そんな学生証に印字されている名は……遠藤有人。
「(ああ、この人は――――――――……日本人だ)」
砂色の髪の少女クローリカ。本名は宇咲亜李歌。
彼女は、跳ねる自らの心臓を意識の隅で宥めながら、ラビットホールで初めて目にした同郷と思しき人間の姿を、呆然と見つめていた。




