婚約なんてするんじゃなかった——そう言われたのならば。
それは、とある舞踏会での出来事だった。
私は無難なシフォンのドレスと銀のアクセサリ、肌をより白く見せて紫のあざを隠すための化粧に気を遣って、ホールの扉の前にやってきた。
それを見て、私の婚約者アンソニーはふんと蔑むように鼻を鳴らす。
「その程度にしか着飾れないのか。まったく、俺が見繕ってやったというのに。素材が悪いとどうにもならないな」
明らかな悪口にも、私はただ「ごめんなさい」とつぶやくしかない。
ここで「こんな時代遅れのドレスとアクセサリじゃどう頑張っても無理です」なんて言おうものなら、頬が赤く腫れ上がるまで叩かれるに決まっている。
私が悪いのだ。そうしておけば、アンソニーも不機嫌になる程度で済む。
私は、アンソニーにぐいと肘を引っ張られて、豪華絢爛なダンスホールへと足を踏み入れた。何度来ても、慣れない。何度来ても、好きになれない。
だって、私の隣には必ずアンソニーがいる。離れようものなら無理やり引きずられてでも連れていかれるし、躾のなっていないペットのように扱われるだけだ。知っている。
私とアンソニーが婚約を結んだのは、七年ほど前だ。
当時十歳にも満たなかった私、ビーレンフェン男爵家令嬢チェリーシャ・アーガイル=ノットは、人見知りがちな少女だった。家では目立たない三姉妹の真ん中で、歴史があっても男爵家の次女なんて誰も見向きもしない。父は事業に忙しく、母は男爵家の切り盛りに東奔西走し、姉は末妹の世話をしていたため、私は割と放任されて育った。
そんなとき、母方の伯父が私へ婚約者を紹介してきた。もちろん父母は興味なさそうに承諾して、あとは私と伯父がいいようにしておいてくれと言い残すだけだった。大した顔でもなく卓越した特技もない私程度じゃ政略結婚にも使えない、と思われていたのだろう。
だが、伯父が見つけてきた婚約者は、それなりに見栄えのする貴族の家の嫡男だった。スネルソン伯爵家という自領の鉱山業で稼いでいるところで、立身出世の栄達よりも現状維持を望んでいた。つまり、スネルソン伯爵家には貴族としての野心はなく、適度に儲けて適度に家を保てばいいと考えていたのだが、自分よりも高位の貴族から娶るとそうはいかなくなる。未来の伯爵夫人を通じてその実家に操られ、政治のあれやこれに巻き込まれる可能性があるからだ。もしくは、夫人に贅沢病があれば大変だ、家が傾くほど散財されてはたまらないと考えたかもしれない。
ある日、私は伯父に連れられ、スネルソン伯爵家の屋敷へと顔合わせに出向いた。一張羅のチェック柄ドレスを着て、はちみつ色の巻き毛をきゅうっとまとめて、未来の旦那様に会いにいくから粗相のないようにと注意されて、行きの馬車の中では一言も喋らないほど緊張しきりだった。
やがて、我が家よりも何倍も広い屋敷の、几帳面な庭師に整えられた庭園に私は案内された。伯父は屋敷の主人に挨拶へ出向き、私は独りでうろうろとしていたのだが——。
なのに、私はいきなり蹴り倒された。
「きゃ!?」
右太ももを蹴られて、思わず地面に手をつき、痛みにうめく。すると、馬乗りになった誰かが私をぽかぽかと殴ってくるのだ。
たまらず、私は顔を両腕で覆い、悲鳴を上げる。
「いやああ! 助けて、誰か助けて!」
悲鳴を聞きつけ、慌てて近くにいた庭師が駆け寄ってきて、助けてくれた。馬乗りになった誰かを担いで私から引き離し、叫ぶ。
「ぼっちゃま! 何をなさっておいでか!」
必死に体を引きずり、少しでもその場から離れようとした私の目に映ったのは、庭師に羽交締めにされてもなお暴れ、私へ敵意をむき出しにしている小さな癖毛の男の子だった。
ぼっちゃまと呼ばれた男の子は、至極当然とばかりに庭師へ答える。
「あいつ、勝手に入ってきたんだ! ああいうあたまのわるい女は殴らなきゃ分からないって父上がおっしゃっていたぞ!」
「あちらは客人ですぞ! ほら無礼をお詫びせねば」
「いやだ!」
男の子は庭師の手を暴れて振りほどき、走って逃げていった。
一体全体何が起きたかのか、レンガ道にへたり込んで呆然としている私のもとへ伯父がやってきたのはしばらくあとのことだ。
そして、あの男の子が私の婚約者アンソニーであり、伯爵と伯父の話し合いで私との婚約は決まったとの知らせを聞いて、私は目の前が真っ暗になった。あんな粗暴で、初対面にいきなり蹴ってくる男の子が婚約者だなんて、どうかしている。
しかし、私の反対など、何の価値もない。伯父は上機嫌に我が家のためにとてもいい話がまとまったと嬉しそうだし、あとからやってきた伯爵は私を見て「可愛らしい子だ、何でも買ってあげよう」と自分の息子の蛮行をなかったことにしようとした。
最悪の顔合わせ、最悪の婚約、それらは私の意思で破談にできるものでは無かった。
それから七年ほど、私はことあるごとにアンソニーに従わされてきた。
あるときは暴言を吐かれ、使用人の誰かが止めに入るまで私は頭を下げて謝ることしかできず、あるときは何の脈絡もなく暴力を振るわれ、突き飛ばされて尻餅をつくくらいならまだしも、何日も残るような怪我を負わされて自室に篭りきりになることも珍しくなかった。
それは屋敷の中だけでなく、買い物に付き合わされた店々でも同じだった。
今私が着ているドレスも、アクセサリも、私に似合いもしないのにアンソニーが選んだものだ。アンソニーが馴染みの店員に勧められたから買い与えられただけで、私に似合うかどうかなどどうでもいいのだろう。そのくせ、懸命に着飾っても、結局似合わなければ私が罵倒されるのだ。
私がアンソニーにあちこち連れ回されるのは、婚約者という勲章だからだ。友人知人に見せびらかし、勲章を持っていることを自慢するのであって、勲章そのものを自慢するわけではない。裕福な伯爵家の子息相手にその無礼さを咎められる人間もそうはおらず、案の定、アンソニーはだんだんと増長していった。
そうして、ついにアンソニーは一線を越えた。
舞踏会の曲が始まる前のダンスホールで、真っ先に私が連れていかれたのは、アンソニーの学校時代の同級生たちのいる集まりだった。これ見よがしに女性を連れているのはアンソニーだけで、他の男性たちはわざわざ婚約者がいても一緒に参加しない——独身主義への憧れと自由さに浸りたくて、常識的にハメを外せる舞踏会にやってきているのだから当然だ。中には結婚指輪を外している男性だっている。
私は、朗らかに再会を祝う彼らの群れの中に入れられた。
その結果は、彼らの会話を聞いていれば分かる。
「やあアンソニー、今日も婚約者と一緒かい?」
「ああ、そうなんだよ。人見知りの婚約者を俗世に慣れさせるためにね」
「ははは、面倒見のいい夫を演じるのはよせよ。ねえ、チェリー嬢。一曲いかがかな?」
そんなふうにここから離れられるよう助け舟を出してくれる人もいたが、それらはアンソニーが一蹴した。
「やめておけ、こいつは踊りが本当に下手なんだ。俺は練習で何度足を踏まれたか分からない! せっかくダンスの講師も雇ってやったのに、まったくの無駄だった!」
アンソニーは私へ同意を求めるように視線を送ってくる。
その同意は強制的で、とにかく私を見下したい気持ちが満たされればいいのだ。反抗しても無駄と分かっている私は、恥をかかされようが見下されようが、俯くしかない。
「はい……申し訳ございません」
「ほら見ろ。だが、俺の妻となるからには、スネルソン伯爵夫人だ。言い訳は通用しないからな、今のうちに何とかするんだぞ」
「……はい」
アンソニーに同調して私を嘲笑う人もいれば、愛想笑いで済ませる人もいる。ただ、私を庇う人はいない。そんなことをしてアンソニーの機嫌を損ねたら面倒だと思っているのか、それとも舞踏会の後に叩かれる私を心配してくれているのかは分からない。
ただただ、私は暗澹とした気持ちで、アンソニーに無理やり腕を絡められ、仲睦まじくそこにいるかのように、あるいは男性のためのお飾りとして必要十分に役目を果たすよう強いられていた。時代遅れのデザインのドレスも、銀の地味なアクセサリも、何ならここにいることさえも私の意思ではないのに、だ。
同級生たちの相槌を受けて、アンソニーの口はどんどんと軽くなり、毒舌の鋭さが増していく。
「デニスのところの婚約者を見たか? テーブルマナーさえわきまえない、どこの田舎の令嬢を騙してきたかと冷や冷やしたよ」
「ああ、あれは婚約者のふりをしてくれと雇ったよその家の家庭教師さ。気の利いた口説き文句も言えないあいつに、婚約者なんてできるわけがないだろう?」
「それもそうか! 甲斐性のない、詩才もない、金もない貴族に嫁ぎたがる女などいやしないな!」
「その点、君はずっといいじゃないか、アンソニー。羨ましいよ、うちの両親ときたら早く身を固めろと縁談の肖像画ばかり寄越してきて」
「何を言っているんだ、マレー。最近のご令嬢は小説を嗜むんだそうな」
「そんな話もあったな、それで?」
「浮ついたロマンスにはしゃぐくらいならいいが、思いもよらない知恵をつけて夫や婚約者を言い負かしたり、もっといい家庭教師をつけてほしいと訴えてくるご令嬢もいるんだとさ。どうかしているよ、あまつさえ男と同じ学問を修めたいと来た!」
「何ともまあ、身の程知らずなやつらだな。道理で僕らの先達は独身主義を尊ぶわけだ」
一同がどっと笑い、アンソニーもまたご満悦だ。
私は内心、ため息を吐いていた。彼ら、青年貴族たちは若さゆえにか、それとも台頭してきた職業婦人や教養ある女性たちにいらだってか、古来より貴族たちが持っていた男尊女卑の精神の醜い部分を煮詰めたような過激な発言が目立つ。
正直、聞いていて気分のいいものではない。それは私だけでなく、周辺の立派な殿方や淑女たちも眉をひそめ、距離を置いていることから、決して私だけがおかしいわけではないことが分かる。私だって可能であれば、今すぐにここから離れたいくらいだ。
けれど、私にその力はない。アンソニーにしっかりと腕を掴まれて、身動きさえ取れないのだから。
その上、アンソニーはこう言い放った。
「やはり、女というのはきちんと夫が躾けないとどうにもならないな。俺を見てみろ、こんなにもチェリーのためを思ってやっているんだから、俺に恥をかかせるような真似はいい加減やめてほしいんだがな」
私は脇腹を小突かれ、少しよろめく。それが気に入らなかったのか、アンソニーが絡んできた。
「おい、聞いているのか、チェリー。ぼうっとするな、今日は舞踏会だぞ。いつも言っているだろう」
アンソニーはいつもよりも、随分高圧的で、尊大だった。同級生の前だとこんな調子だ、本当に私はサンドバッグか何かと間違われているんじゃないかと気が滅入る。
そして、私が謝る前に、さすがに同級生たちがアンソニーをなだめはじめた。
「まあまあ、大目に見てやれよ、アンソニー」
「そうだぞ。君は僕たちの中で数少ない、独身主義者たちの裏切り者なんだから」
「ははっ、言ってくれるなぁ! だが、いつだったかみんなで行った市井の酒場の女給のほうが、よほど女として魅力があったと思うよ」
えっ、と同級生数人の顔が引きつった。
女としての魅力、だなんてはしたない言葉を使いはじめたアンソニーの有頂天ぶりは貴族としてそろそろ看過できないと思ったのか、それ以上の発言を止めに入ろうとした男性もいたが、アンソニーはかまわず、その差別と偏見に満ちた心から生まれる気持ちを、堂々と開陳したのだ。
「こいつを見てみろ。地味で暗くて、貧相な体つきで、夫を立てる言葉の一つも言えやしない。殴っても治らないんだから、いい加減辟易するよ。婚約なんて」
私は、俯いたまま目を見開き、耳を疑った。
アンソニーは、悪びれずにこう言ってしまったのだ。
「——するんじゃなかった、って思うことだってある」
得意げなアンソニー。打って変わって、冷や水を浴びせられたように押し黙る同級生たち。周囲の紳士淑女はすでに離れ、目を合わせることもない。
まるで、その場だけが無音の世界になったかのようで、足音さえも聞こえなかった。
私は——もう、何もかもを諦めていた。
公衆の面前で、貴族の令嬢として、女性として、これほどに婚約者の言葉で恥辱に塗れることがあるだろうか。初対面で馬乗りにされ、殴られ蹴られても、私はアンソニーの婚約者として振る舞ってきたというのに、なぜ——「婚約なんてするんじゃなかった」などと言われなければならないのだろう。
それを言いたいのは、私だ。言いたくても言えなくて、家のために、伯父の顔を潰さないために、役に立たない私が役立てる数少ないことだからと、アンソニーの暴力や暴言に目をつむってきた。
おそらく、これからもそうなのだろう。このまま結婚してしまえば、文字どおり死が二人を分つまで、アンソニーのそばを離れられないのか。
乾いた心は、泣くことさえも思い付かないようだ。私は呆然と、俯いたままその場に突っ立っていた。
「そこの紳士諸君、歓談中失礼する」
楽器の弦が弾かれたように凛とした、その低い声が響くまでは。
☆
女性と見紛うような艶美な長い黒髪に、顔立ちはきわめて中性的でありながら、凡俗の身など容易く射抜かんばかりに鋭い緑の瞳。
突如現れた一人の貴公子へ、私だけでなく周囲の視線が集まる。シルク混じりの燕尾服はスリムな体型によく似合い、懐中時計の金の鎖がよく映える。年齢は二十代から三十代くらいだろうか、それにしては威厳のある振る舞いに違和感がない。
彼はアシンメトリーに切り揃えた前髪をかきあげ、アンソニーの前に堂々とやってきて、真正面に見据えた。少しばかり身長の高い彼に対し、アンソニーはせっかくの余興が中断されて面白くないという子どもじみた顔をあらわにする。
すると、彼はスッと私とアンソニーの組んでいる腕を指差した。
「貴殿は婚約したくもない女性と腕を組むのかね? 彼女にも迷惑だろう、離してやりたまえよ」
その指摘を、アンソニーはよほど不服に思ったのだろう。それか、挑発と受け取ったに違いない。
私の腕をぐいとわざと引き寄せて、小馬鹿にした口調で応じる。
「ご忠告どうもありがとう。しかし、余計なお世話だ。チェリーが俺の婚約者であることは変えようのない事実、決してあなたの迷惑にはならないだろうさ」
「ふむ、すでにかけた迷惑に対して、あまりの不誠実ぶりだな。スネルソン伯爵家のご令息たるもの、いささか不用心ではないかね?」
即座に返ってきたさらなる煽りに、アンソニーの顔が一気に険しくなった。そばで見ている私は、ただただその怒りが私へ向かないことを祈るしかなく、足が震えるほど恐ろしかった。
貴公子はそんなことなどお構いなしに、私へ顔を向けた。アンソニーを半ば無視して、さらりとこんなことを言う。
「チェリーシャ嬢、あなたの婚約者を少々お借りしてもよろしいか?」
私は驚いた。チェリーではなく、チェリーシャと私の正しい名前をなぜこの貴公子が知っているのだろう、と。戸惑う私は、答えを先延ばしする意味でも、質問に質問を返すことが不調法だと知っていながらそれを尋ねる。
「え……あ、その、なぜ私の名前を」
「舞踏会の出席者の名はすべて記憶しているので」
当然とばかりに、あまりにもあっさりとした答えだった。数百人はいる舞踏会の出席者の名前を、それも私の名前なんてどうせアンソニーの付き添い程度に「チェリー」としか書かれていなかっただろうに、把握しているなんて。
驚きにより言葉にならない私を、ついに苛立ったアンソニーが腕を外して後ろに押しやり、貴公子の前に立ち塞がろうとした。
「ふん、俺に用件があるならここで言えばどうだ。なぜチェリーに伺う?」
「それはもちろん、貴殿の意思はどうでもいいからだ」
「何だと」
無益にも思える挑発と応答、今にもアンソニーが掴みかからんとする緊迫した空気。
それを打ち破り、流れを決定的に変えたのは、その場にいた男性たちではなく、一人の老婆の声だった。
「お前があまりにも不愉快だからだよ、坊や」
真っ先に反応したのは貴公子で、老婆のしわがれた、それでいてホールの端まで通る声のしたほうへ視線を向け、会釈する。アンソニーを含む他の人々はそれに倣って老婆の正体を確かめた瞬間、恐れ慄き、その全員が顔色を一変させた。
二分された人混みを突っ切り、ホールのど真ん中を通ってきた、白髪白髭の偉丈夫なる礼服の老公を従えた老齢の女性。黄金と黒檀でできた長煙管を手に、その結えた白髪の上にあるのは宝石が散りばめられた最上の王冠だ。
不遜なる態度、尊大にも取れる言葉、何よりもそれらは老婆を構成する一要素の非難的余波にすぎず、この世の誰をも差し置いて、どのような権力や権威も彼女は従えてしまえるのだと神の名の下に許されている。たとえ、それが誇張だとしても、少なくともこの国の中では彼女が頂点だと誰もが認めていた。
老若男女、その場にいる貴族たち全員——私と貴公子を除き——が、老婆と傍らの老公へ跪く。
「女王陛下!」
「エリン女王!」
「レーン王配殿下!」
貴族たちが口々に二人を称える。ここにいる貴族たちでさえ、そう滅多に目通りが叶う相手ではない。舞踏会という息抜きでもなければ、特にアンソニーら若年の貴族たちは会うことも許されない。
もちろん、私もなのだが——あろうことか、私は足が震えて動かず、跪くことができなかった。それを分かってくれたのか、貴公子がそっと私のそばに来て、私の両肩に手を置いて支えてくれた。そのおかげで、私の無礼は見過ごされた。
エリン女王陛下は、床に跪いて後頭部を見せるアンソニーを長煙管で指し、私の隣にいる貴公子へ厳かに王命を下す。
「アイヴァ、そこの坊やを躾けておやり。婚約破棄の言質は取ったのだから、あとはその娘の意思次第だとしっかり教えてやりなさい」
「はい、陛下。御心のままに」
アイヴァと呼ばれた貴公子はもう一度会釈し、それに満足した女王は老公を引き連れて用意されたホール最奥の主賓席へと歩を進めた。
女王が目の前から去ったのち、立ち上がる貴族たちはささやく。
「アイヴァって、もしかして王配殿下の義弟ピアラスフィールド公爵アイヴァ=サデウス閣下か……!」
「嘘だろ、どう見ても二十代だぞ? 王配殿下は五十を過ぎたばかりで」
「馬鹿、知らないのか? 常春の国から帰ってきたと噂される若さと美貌の彼のお方を」
そのささやき声はもちろん私にも聞こえていた。だからこそ、私は畏れ多くて、アイヴァという貴公子の顔を見ることができなかった。
公爵閣下が、私の肩に触れているという事実を、私の頭は受け入れることができない。それと、跪き、頭を垂れるアンソニーを見下ろすという事態を、私は現実とはまったく思えなかった。
私が今まで生きてきた世界の常識では、そのようなことはありえない。なのに、どうしてこうなったのだろう。私の疑問はぐるぐると胸の中で渦巻き、意識を朦朧とさせていたらしく、アイヴァ公爵閣下の一声でやっと私は現実に戻ってきた。
「さて、少々時間をいただけるかね、ご両名。無論、もう互いに相席はすまいよ、彼女も気遣わずに済むだろうからね」
立ち上がったアンソニーのもとへ、近衛兵が四人もやってきて、前後左右に立ってアンソニーをどこかへ連れていく。その足取りはよろめいていて、私の位置からはちょうど顔が見えず、どんな表情をしていたかは分からないままだ。
もっとも、私も他人のことが言えない。足はまだ震えていて、立っているのがやっとだからだ。
私の両肩にあった手が離れた。そう思った瞬間、私の体は背中と膝に手を添えられ、アイヴァ公爵閣下にひょいと持ち上げられた。
「な、何!?」
「失礼、足元が不安なようだ。お許しを、レディ」
そう言うが早いか、アイヴァ公爵閣下は私をお姫様抱っこして、さっさと舞踏会のホールを後にした。
そんなことをされたのは初めてで、私はとにかく落ちないよう、必死にアイヴァ公爵閣下の首にしがみつき、胸中に湧き起こる見も知らぬ感情に混乱しきりで、目をきつく閉じてどこか目的地への到着を待つしかなかった。
しかし、目を閉じると余計に意識するもので、アイヴァ公爵閣下の髪や首筋に付けられた高級な香水の匂いに妙にうっとりする。それに、私の腕や額に当たる長く艶やかな長髪はとても清潔で、サラサラとしていて、私の巻き毛よりもずっと触っていたい良質さだ。
今まで、他の男性——特にアンソニーの匂いなんか知らないし、知りたくもなかったことなんて、私は本当にどうでもよかった。
夢見心地なお姫様抱っこは、控室の一室にあるソファへ座らさせられるまで堪能できた。すぐに宮廷メイドがやってきて、アイヴァ公爵閣下へ毛布を渡し、それで私は包まれる。
他の宮廷メイドは暖炉の遮断用鉄板を外し、弱まっていた火を掻き棒で燃え上がらせる。部屋中が暖かくなるまでそうはかからず、その間に私の隣にもう一つのソファとサイドテーブル、それに砂糖とミルクたっぷりの甘い紅茶が用意された。
もう一つのソファにはアイヴァ公爵閣下が腰を下ろし、手ずから私へ紅茶のカップを渡してくれた。
温かな飲み物、暖かな部屋、宮廷メイドたちは「ではごゆっくりお過ごしください」と言い残して退室していった。
残された私と、アイヴァ公爵閣下は、しばし黙ったままだった。何を言えばいいかなんて、私には分からなかった。手にした紅茶をお行儀よく飲みつづけて、心が落ち着くまでに半分ほど減らしてしまった。
そうして、やっと落ち着いた心に芽生えたのは、状況を把握したいという欲求だ。つまりは——私はこれからどうなるのか、ということだ。
私は紅茶のカップをサイドテーブルに置き、動悸を抑えながら、腕組みをしたままじっと目を伏せていたアイヴァ公爵閣下へ問いかけた。
「あの……質問してもよろしいでしょうか」
「何なりと」
アイヴァ公爵閣下は黒髪を揺らして顔を上げ、思ったよりも穏やかな口調でそう言った。
であれば、と私は単刀直入に、一番知りたいことを聞く。
「私はやはり、婚約を破棄されるのでしょうか?」
ここに来るまでの間、ずっと脳裏に響いていたアンソニーの言葉がある。「婚約なんてするんじゃなかった」と、きっとアンソニーは軽い気持ちで、場を盛り上げるために言ったのだろう。もちろん本心だった可能性もある、でも彼の浅慮ぶりはよく知っているだけに、その言葉の意味や発したあとの責任までよく考えていなかっただろうと私は思う。
だからと言って、帳消しになるわけではない。その発言は克明に人々の記憶に刻まれ、忘れ去られやしない。私の心の奥底にも、重石となってしっかりと残されている。
別に私はアンソニーのことが好きで婚約を破棄されることを恐れているわけではない。決して、神に誓ってそんなことはない。
ただ、貴族の婚約は家同士の盟約だ。家長である当主の決定であり、私の好悪で決まる程度の話ではない。婚約がなくなってしまうと、我がビーレンフェン男爵家にとって大きな不利益になってしまうのなら、私はそれを望まない。貴族令嬢として生まれた以上、望んではいけないのだ。
もし——そうなってしまえば、両親は悲しむだろう。不出来な娘を恨むだろう。婚約を勧めた伯父は失望を隠さず、何も知らない姉と妹もさすがに私を責めるかもしれない。
生憎と私は、そんな状況に耐えられるほど強くはなかった。平謝りに謝って次の家では失敗しないと誓って、出荷される牛のような扱いを受けるなんて、まず間違いなく心がもたないし、さらにはこの期に及んで自己保身じみたことばかり考える自分に嫌気が差していた。
自分で問いかけておきながら、私はやめておけばよかったと後悔する。そういうところが、自他ともに認める愚かさなのだと噛み締めながら。
毛布の上から暗澹たる思いに包まれた私へ、アイヴァ公爵閣下は現実的に答える。
「さあ、どうでしょう。あなたの婚約者がそう決めたなら、我々は介入できません。契約書に基づいた事柄ですからね、介入できるのはそれこそ女王陛下か裁判所くらいです」
「そうですよね……もうどうしようもないのでしょうね……はあ」
やっぱりだ、尋ねなければよかった。ため息は何度となく漏れ、がっくりと私の首は垂れる。
そんな私を見て、アイヴァ公爵閣下は実に不思議そうな口調でこう言った。
「あなたは、あの男との婚約を続けたいのですか?」
「え? 私、ですか?」
「はい、あなたの意思はどうでしょう?」
「ええと……その」
「ああ、家の手前、ご自身の意思云々を表すことに不都合がおありかもしれませんね。無礼をお許しください、レディ」
「いえ、そんな、私ごときに畏まらないでください。私のことなど、目上の誰かが決めてしまうのでしょうから」
私は正直にそう言ってしまった。だって、そうなのだから、それ以外に言いようがない。私の処遇を決められるのは、家長である父か、未来の夫で婚約者であるアンソニーだけだ。
それはもう諦めた、とっくの昔に私の手足には家名に繋がる見えない鎖があるのだと知っている。
しかし——しかし、だ。
「でも……もう殴られたり、怒られたりしないのなら、婚約がなくなってもいいかも、なんて思ってしまいました。私は愚かものです、そんなことを考えたって両家のためにならないのに」
何を言っているのだろう、私は。そんなことを告白しても、何もならない。
なのに、アイヴァ公爵閣下はすかさずそこに引っかかる。
「あの男に殴られたのですか?」
「えっ!? あっ……その、えっと、いえそれは」
「あの場で話を聞いていれば、あなたが暴力や暴言を振るわれていることは分かります。事実ですね?」
後悔しても遅い、それは私の失言だった。婚約者の悪口を、今ここにいないからと初対面の相手へ口にしてしまうなど、まったくもって淑女失格だ。
焦って、ここから何とか挽回しようと頭を巡らせるが、どうにも上手くいかない。
「だ、だとしても、それは私が我慢すればいいことです。スネルソン伯爵家とビーレンフェン男爵家のためになるなら、それでいいはずです」
「本当にそうお考えですか? ろくでもない人間を告発せず、より大きな利益のために数多の不義を見過ごすことが正しいと?」
「でも、それは……私のような、愚かで弱い人間にはどうしようもないことです。きっと」
「でしょうね。あなたに力はない、おそらくあなたの言葉に耳を傾ける人間もいないことでしょう。残念なことに、それがあなたを取り巻く環境のようだ」
「はい。ですから、もういいのです。私には誰かが関わるだけの価値がないのです、そう言われてきて、それが正しかったということです」
「もし己に何らかの力があれば、と思うことはありませんか?」
「力? ……いいえ。そんなものを、無能な私が正しく扱えるとは思えません。であれば、夫に付き従うことが唯一の道です」
私はもう一度、ため息を吐いた。なんだ、私は私の状況がよく分かっているじゃないか。そう自画自賛して、それから落ち込んだ。
私に力なんてものがあったところで無駄、無駄、無駄だ。私に何ができる? きっとその力ごと誰かに利用されるだけだ。なのに欲しがるなんてさらに愚かしいことを、どうしてできよう。
そこまで割り切って考えてしまえたなら、私は少しはすっきりした。
しょうがないのだ。だったら、もう私はそれ以上無駄な足掻きをする必要はない。それに気付かせてくれたことに、アイヴァ公爵閣下へ感謝する。
「ありがとうございます。私を気遣ってくださっているのでしょう。でも、高貴なあなたさまが、私ごときに心を砕かれる必要はございません。ここで暖炉に当たり、公爵閣下とおしゃべりをしたことは一夜の夢と忘れます。明日からはまた今までと同じ日々が続くでしょう。たとえ、アンソニーに婚約破棄されたとしても、また私は同じような婚約者に嫁ぐことになるだけ、ええ、きっとそう」
そうだったらいいな、という矮小な願望を持って、私は頷いた。家から追い出されなければいいけれど……と乾いた笑いが浮かぶところだった。
アイヴァ公爵閣下は、ふむ、と自身の顎をカップを持っていない左手の指先で撫でて、私を直視した。まじまじと、真正面から私の顔を見つめる。
いまいちその意図が分からず、しかし視線を逸らすことも失礼かと思って、私は内心怯えながらアイヴァ公爵閣下と目を合わせていた。じっと男性に見つめられるなんて気恥ずかしいが、我慢していたのだ。
しかし、アイヴァ公爵は不思議なことを言う。
「となると……ええ、まあ、多少の不名誉を受け入れて、現実を変えることができるとなれば、あなたはどうしますか?」
最初、私はアイヴァ公爵閣下は何を言っているのだろう、とポカンとした。言っている意味が分からない、単語一つひとつさえも、私に縁遠いことばかり。いや、不名誉というのは今の私に降りかかる可能性のもっとも高いものだけれど。
ならば、私はその不名誉の内容をとりあえず、おずおずと尋ねてみた。
「その、不名誉、とは?」
「ええ、これから私が提案することは、淑女としては不名誉に繋がるでしょう。しかし、あなたの頑固にも不変な現状を打破することは間違いありません。それと、その先の道も拓かれます」
なんと。どうやって、いや、その提案とは一体。
分からない、私には思いつきもしない方法で、私の未来に一石を投じてくれるというのだろうか。それならば歓迎したい、とわくわくするが、一方で不安もある。
「私ごときに、そんな都合のいい話があるものでしょうか? ご提案いただいたところで、ご期待に添えるかどうかなんて……」
「もちろん、あるからこその提案です。どうですか? 冷静に、話を聞くおつもりは?」
やけに「冷静」の単語だけが強調されて、アイヴァ公爵閣下は私へずいと力を込めて語る。
——うーん、聞くだけなら、問題ないかしら……うん、きっとそう。
私は勇気を出して、アイヴァ公爵閣下の提案とやらを聞いてみることにした。
「お話を、お聞かせ、願えますか……?」
すると、アイヴァ公爵閣下は微笑んだ。まるで花咲くように、という表現そのままに、その若く美しい顔に春が来たようだ。
私へ熱っぽいまっすぐな瞳を向け、そして潤んだ唇から発せられた言葉は、度肝を抜くような内容だったが。
「チェリーシャ嬢、私の血を引く子を産んでください。そうすれば、一生涯、あなたの面倒を見ると約束しましょう。その中にはもちろん、私があなたを愛することも含まれていますよ」
このとき、私は紅茶を口に含んでいない幸運を、神に感謝した。
それは多分、いえきっと、アイヴァ公爵閣下にとっては私のためにもなる提案と信じていることなのだ。
私の人生で一番頬が熱かったのは、このときに違いない。
アイヴァ公爵閣下の麗しい容姿からは想像だにできない、貴族と思えない、市井の若者だってしないような、とんでもない直接的原始的プロポーズだ。
……でも。
………………でも。
…………………………でも!
……私は! 愚かしかろうが何だろうが、考えて考えて、その場でOKの返事を出すしかなかったのだ!
だって、私なんかでも、ピアラスフィールド公爵閣下の庇護下に入れば、何もかもが今とは変わってしまうだろうことは確実なのだから!
……えっと、もちろん、ほら、アイヴァ公爵閣下がとてもお美しくて、一目惚れしてしまったこともないわけではないけれど。ないけれど。
…………はあ。
とにかく、それが、私とピアラスフィールド公爵アイヴァ=サデウスの出会いであり、さっそく結婚を決めた瞬間だった。
ちなみに、私の年齢は十六歳、アイヴァ公爵閣下はなんと——実年齢四十三歳という歳の差だったが、彼の外見上は私より二、三歳上くらいにしか見えなかった。それはもう、美魔女もかくやという若作りであった。
☆
それから、十五年後。
日差しが傾いてきた午後、暖炉のある談話室で、私は十三歳になる娘のネリーへ、その話を聞かせていた。
三十一になった私は、少しは大人びて、金髪の巻き毛は毎日ヘアケアを担当するメイドに美しく整えてもらっている。首元からつま先まで露出のないデイドレスを着ても怒られないし、ヒールは苦手だから平たい底のパンプスを作ってもらって履いていた。
私と一緒にカウチソファに座って、父譲りの黒髪を緩く三つ編みにした髪型を気に入っているネリーは、綿のワンピースドレスの裾からシルクのペチコートが出ていることにも気付かず、興奮して私にこう訴えた。
「お父様のプロポーズの言葉、直接的すぎない!? もうちょっとこう、雰囲気とかあるでしょう? なかったの!?」
ネリーの気持ちは分かる、私も同じことを当時思ったから、ついうんうんと頷いてしまう。
一方で、彼があの場ですぐにプロポーズをしなければいけなかった理由もあったのだ。
「あのころは、本当に切羽詰まっていたのよ。私があのままスネルソン伯爵家や他家に嫁げば、よほどのことがないかぎりもう助けられない。できるかぎり穏便かつ私の身を守りながら——となると、手段は本当に限られていたと思うわ」
「だからって……ありもしない不貞を理由に婚約破棄をさせて、そのままピアラスフィールド公爵領に連れ去るだなんて!」
「ふふっ」
ネリーは面白いくらい大袈裟に天を仰ぐ。ピアラスフィールド公爵家令嬢として自由奔放に育ったネリーは、父親の血を濃く引き、本当に美しい少女に成長してくれた。
ネリーの言ったとおり、あの日、私はアイヴァ公爵閣下こと今の夫であるピアラスフィールド公爵アイヴァ=サデウスと密通していたことにして、アンソニーの婚約破棄の意思を確認、その場に大至急召喚した弁護士と司教によって婚約破棄が成立したのだ。前例のない早さで私は次の婚約を成立させ、結婚のためと称してそのままピアラスフィールド公爵領に逃げ込んだ。それ以来、私は領地から出ることなく、結婚式を挙げて公爵夫人となった。
まるで以前から企んでいたかのようなスムーズさで私とアイヴァの結婚が成立したものだから、余計に密通の話は真実味を帯びて人々の口の端に上った。あの日が初対面だというのに、だ。
しかし、ネリーは勘が鋭い。
「……お母様、もしかして、だけど」
「何?」
「舞踏会のホールから抜け出して、その暖炉のある控室で……既成事実を作ったなんてことは?」
私はにっこり微笑んで、肯定も否定もしなかった。
「さあ、どうかしらね?」
「作ったんだ」
「ふふふ。そんなこと、どうでもいいじゃない」
ネリーがまたしても天を仰ぐ。彼女もしっかり、そういう機微を理解できる年齢になってきたようだった。
「でも、あなたたちのお父様は、ちゃんと私を愛してくれているわ。私は名義上の公爵夫人でかまわない、と言ったのだけれど、側室や情婦を作ることもないし」
「あー……ないわね、絶対。お父様はお母様にぞっこんだもの」
「馴れ初めはただの同情だったとしても、真面目で誠実な方よねぇ」
私は夫の誠実さに本当に感謝している。
世間知らずの貴族令嬢など、適当に嘘を吐いて騙し、遊ぶだけ遊んで捨てるような男性は身分を問わずごまんといる。しかし、アイヴァはそうではなかったし、むしろそのような人間を唾棄する性分だった。
おかげで、私は公爵領にやってきて以来、現実がまるで変わってしまったかのように、穏やかに、温かい暮らしが営めるようになったのだ。
「そういえば、ピアラスフィールド公爵領へ夜逃げのように馬車でやってくる途中、あの方はずっと抱きしめてくださっていたわ。泣きじゃくる私を誠心誠意慰めてくださったのよ」
当時十六歳の令嬢にとって、家族を見捨てるかのような選択は、やはり重かった。立てなければならない未来の夫から離れていいと言われ、助けてくれたとはいえ見知らぬ男性と駆け落ち同然に逃げることは、心細かったのだ。
とはいえ、当時四十三歳のアイヴァにとっては小娘を慰める程度容易いことだったのだろう。どう見ても二十代半ば程度の青年にしか見えないアイヴァだったが、その権力は王配殿下の義弟であり公爵であることからして——国内屈指の大貴族にふさわしいものがあった。私を守り抜くことも、私と家庭を築くことも、そして私の敵となる人々を駆逐することも、彼にはごく簡単なことだっただろう。
「ところで、スネルソン伯爵家って聞かないけれど、どうなったの?」
「ああ……没落したわ」
「やっぱり」
「どうも悪評が立って誰も嫁ぐどころか出入りしたがらなくて、結局伯爵の爵位は返上して鉱山事業の会社は残っているけれど、多分他家の手に渡っていると思うわ。それ以上のことは分からないけれど」
要するに、そういうことである。私はアンソニーの行方など知らないし、誰もそんな話題を口にしたりしない。ビーレンフェン男爵家との繋がりも、姉と妹が時折遊びに来るくらいだ。二人は私が酷い目に遭っていたことなどほとんど知らず——忙殺されていた父母から忘れられていたのかろくに援助もなかったため、姉がこっそりと必死に働いて妹を学校に行かせていたのだ——互いにどうにも罪悪感ばかりで、謝ってばかりだった。それも少しずつ仲良くなり、二人ともビーレンフェン男爵家のために働くことを拒否して、しっかり独立した。男爵家もまた、私はその行く末を知らない。
そうこうしていると、カウチソファの背もたれの後ろから、我が家の家長が姿を現した。
御年五十八とは思えない、相変わらず艶やかな長い黒髪を垂らし、見事なシルエットを維持した礼服をまとったアイヴァがやってくる。
「何を話している」
「うわ! お父様! 帰っていらしたの」
「あら、お帰りなさいませ。今年も女王陛下はお元気でしたか?」
年始の挨拶にと宮廷へ出仕していた私の夫アイヴァは、少し目元や口元にしわができたくらいで、やはり若々しい。
「無論だ。まったく聞いて呆れる、舞踏会に今年も存分に出るのだと張り切ってらっしゃるのだからね」
「お元気よねぇ。セナンお兄様も王配殿下のお供で狩猟によく連れて行かれているみたいだし」
「ご夫婦揃って健やかでとてもよろしいわね」
ネリーの口にした「セナンお兄様」とは、私とアイヴァの十五歳になる長男で、今は王配殿下の侍従見習いとして宮廷で暮らしている。孫のように可愛がられているらしく、狩猟好きな王配殿下についていくために必死で馬術を鍛えているそうだ。
そういうわけで、私はアイヴァとの約束を果たした。アイヴァの血を引く子どもが、今では四人もいる。これで、一生涯私の面倒を見てくれることだろう。前にそう冗談めかして言ったら、アイヴァは「……ん、まあそうだね」と頬を赤らめていたことを思い出す。
「ネリー、そろそろ家庭教師が探している時間帯だぞ。講義を受けてきなさい」
「もうそんな時間? お母様とおしゃべりしていると時間が経つのを忘れちゃうわ。それじゃあ、夫婦水入らずで過ごしてね」
「……ネリー」
「もう、ネリーったら」
ネリーは身軽にソファから飛び起きて身を翻し、さっさと談話室から出ていってしまった。
扉がバタンと閉まり、静かになってから——アイヴァは私の隣に座って、ゆっくりと私の肩に頭を乗せた。
「ふー……やはり君のそばが落ち着くな」
「あなたは本当に老けないのですね」
「そういう家系だ。若作りと陰口を叩かれているらしいが」
「それらしいことは何もしていませんものね。二十歳以上も年齢の違う私と結婚すると聞いて、皆様まずあなたの年齢に驚いていらっしゃったもの」
それ関連の話は聞き飽きているらしく、アイヴァは「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。魔法も精霊もとうの昔になくなったこの世界で、唯一アイヴァだけが神秘性を保っているようで、どうにも私は誇らしい。
「若いころから私を熱心に口説く女性はいくらでもいたが、どうも誰一人食指が動かなくてな。だが、君を見てピンと来たんだ」
「まあ」
「このご令嬢との間になら子どもが欲しい、とね」
もう、私は笑うしかない。この方は他に言うべき言葉が見つからないらしく、そんな原始的な、あるいは粗野とも捉えられかねない言葉で、今も愛をささやくのだから。
「好きですよ、アイヴァ様。いつもデートにお誘いいただけるのは、とっても嬉しいです。でも、少しは子どもたちを相手にしてあげたらどうでしょうか?」
「チェリーシャ。君は私の貴重なくつろぎの時間を奪おうと?」
「あなたはいつも私を抱きしめて眠るから、私は一日の三分の一以上の時間をあなたに独占されているのですよ?」
「むう、言うようになったな」
「ふふっ、あなたがたくさんのことを学ぶ機会を与えてくださったからです」
この土地に来て、この身分になって、子どもができて、いつもいつも私は学ぶことがたくさんあった。教えてほしいと言えば誰もが親切にすべきことを教えてくれるし、学びたいことがあると言えば教え上手な教師を都合してくれる。
おかげで、私は「愚かなチェリー」ではなくなった。一歩一歩、暗い世界にランプを灯して歩いていくように、私は知恵を蓄え、思考を広げてきた。
誰かが手を引いてくれれば、愚かだ愚かだと言われてきた私でもここまで来られる。それがとても、嬉しかった。
長男のセナンも長女のネリーも、愚かではない。次男と三男である双子のエーディンとフィオンも、その頭脳を買われて王立学校へ入学準備をしているくらいだ。彼らもきっと、誰かの手を引いていくだろう。
すぐそばの、私を甘やかしてばかりの人の耳へ、私はつぶやく。
「ありがとうございます、あなた。お慕い申し上げております、いつまでも」
その返事は、恥ずかしかったのか、頭をより重く肩へもたせかけることで済ませようとしたから、私は無理矢理唇を奪ってさしあげた。
十五年経って、やっと年齢が釣り合うようになってきた気がした。
終わり。
☆★ ☆★ 閑話 ☆★ ☆★
——これはチェリーシャの娘ネリーが、父母の馴れ初めを聞いたそのときに思ったことである。
(お父様、ひょっとして薄幸そうな女性が好みだった……? うわー、未亡人とか好きそうだわ)
——娘に己の性癖を正確に見抜かれていることなど、アイヴァもチェリーシャも想像だにしていないが、さしたる問題ではない。
☆★ ☆★ 閑話休題 ☆★ ☆★
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☆おまけ☆
登場人物のスペル置いときます
Ivor=Thaddeus
Piarasfield
Cheriesha Argyle=Knott
Beerenfern
Snellson