白猫
ファニーが飾らなくなった。とても自然で肩の力が抜けたように思う。
今考えれば、前回からファニーは王子の婚約者として必死で仮面を被っていたのだろう。
慎ましやかに笑う泣き顔しか覚えがない。
こんなに自然に笑うファニーを俺は知らなかった。
俺が素を見せた事により、ファニーも本当の自分に戻れたのだろう。
目の前で蝶を追いかけるファニーがとてつもなく可愛くて、俺は顔が緩むのを止められなかった。
そういえば、ファニーが断罪された後、ロレン侯爵家はどうしていたのだろう?
トチ狂った王子は別として、王家は? 俺達と同様、狂っていたのだろうか?
俺はあの時正気ではなく、ましてや生死の境をさまよっていたから、そのあたりの事を覚えていない。
けれど王家が正気だったのならば、ファニーは拷問の上、処刑何て事にはならなかったはずだ。
拷問……あの時、断罪した奴ら・拷問した奴ら・罵声をあびせた奴ら・処刑人、全員殺してやりたい衝動にかられる時がある。
フツフツ、フツフツと、どうしようもなくなる時間を過ごす。けれど、それでは七歳のこの時代にやり直している意味がない。俺は絶対に未来を変えなければいけないんだ。
ファニーが笑顔を見せてくれる。
それだけでも少しは何かが変わったんじゃないかと思うものの、それだけではいけない気がする。
他に何をすればいい? どんな行動をとれば未来は変えられる?
(オチツイテ)
「!」
頭の中で声が響いた。
あれは……あの声には聞き覚えがある。
そう、そうだ。七歳のこの体に戻る前に…………。
(アセッテモ、シカタガナイ)
俺は辺りを見回す。この声の持ち主は……と、ファニーの姿が見当たらない。
ここはロレン侯爵家の庭だ。そんな簡単に見失うわけがない。けれど上級貴族の庭というものは広い。七歳の子供の姿などあっさりと隠してしまう。二人で遊びたいと侍女を連れずに来たのが裏目に出たか。
慌ててファニーを探そうと走りかけたその時、にゃああ~ん、という弱弱しい動物の鳴き声が聞こえた。
その声のする方に足を向けると、茂みの中に背を向けて蹲るファニーの姿があった。
「何をしているの?」
声をかけると、ファニーが振り返って俺を見上げる。何故か涙目である。可愛い。っと、そうじゃなくて「どうしたの?」ともう一度声をかけると、グイッと俺まで茂みの中に引っ張り込まれる。七歳児じゃなかったら、ちょっとドキドキする状況だ。
「この仔……」
引っ張られた俺が目にしたのは、茂みに蹲る体中傷を負った白い仔猫だった。
「どうしたんだ。鳥にでもやられたか?」
俺が手を出そうとすると、白猫は怯えたように体をひっこめた。すると隣でファニーが一緒に手を突き出す。
「大丈夫よ。怪我の具合を見るだけだから。少しだけ触らせて下さいな」
そう言って微笑むと、白猫はおっかなびっくりファニーに擦り寄った。
流石、俺の天使のファニー。動物にもその優しさは伝わったようだ。
「そのまま抱きかかえるとドレスが汚れる。俺はファニーの夫になる男だ。悪いようにはしないから俺の方に来てくれ。傷の手当てをするから」
俺は白猫を抱えるため、ファニーの手にくっついている白猫に手を伸ばす。
白猫は観念したのか、ゆっくりと俺の方に移動する。隙を逃さずサッと抱えると、思いのほか白猫はおとなしく俺の腕の中に納まった。
「とりあえす屋敷に戻ろうか。ファニー? どうしたの?」
隣を見るとファニーが両手を頬に添えて俯いている。どうしたのだろうと思いだずねる。
「だって、アシュが……夫、になる男、なんて言うから……」
たどたどしく答えた顔は真っ赤で、余りの可愛さに俺まで赤くなってしまった。
二人で赤くなり下をむいていると猫がじれたのか、にゃあんと抗議の声を上げた。ついでにテシッと手を叩かれた。
「はいはい、悪かったよ。早く手当てしような。行こう、ファニー」
「うん、ごめんね。シロちゃん」
「シロちゃん?」
「白猫だからシロちゃん」
なんて安易な。単純すぎて可愛いよ、ファニー。
部屋に戻り、俺はまず布を湯で濡らし猫の体を拭いた。どこに傷があるか清めながらたしかめるために、ひょいと猫の体を持ち上げる。
「あ、メスだ」
「みにゃあぁぁ!」
おもいっきり引っかかれた。
「アシュ」
ファニーに引っかかれた傷の心配をされながらも、白い目で見られる。はい、すみません。
フシュフシュ言う猫を宥めながら、傷の手当てをする。
「慣れているのね、アシュ」
「まあね、鍛錬していると、生傷は当たり前だから」
「自分でするの?」
「いちいち人に頼んでなんかいられないよ。舐めときゃ治る傷もあるしね」
「私がいたら私が手当てするよ」
「触ってもらうだけで治りそう♡」
へらっと笑いながら手当てしていると猫に集中しろとばかりにぺしっと叩かれる。
俺、嫌われているのだろうか?
「あ、ねえミナ。何か仔猫が食べられそうなもの持って来てあげて。お腹がすいているかもしれないし」
ファニーが自分付きの侍女に話しかける。流石俺のファニー。気が利く。
俺はファニーの意見に補足するように、仔猫が食べられそうなものを言ってみる。
「それならまずはミルクでしょう。様子を見てパン粥なんてどう?」
「そっかぁ、それじゃあそれでお願い」
「かしこまりました。ファニー様、アシュレイ様」
ミナが引くのと同時に、違う侍女が別の布を持ってくる。
治療が終わってフワフワの布にくるんでやると、猫はホッとしたのか気持ちよさそうにみゃあんと鳴いた。良かった。傷だらけではあるけれど、深いものはなさそうだ。
「「ねえさま、ねえさま。ねこがいるって、うわあ、かわいい」」
ファニーの双子の弟キルマとキリアがやって来て、そのまま抱きつこうとする。俺は猫の目の前で二人の体を捕まえた。
「ダアァメ。こいつは傷だらけだったんだ。元気になるまでお触り禁止」
「アシュ、言い方……でも本当に今は駄目だよ。怯えちゃうから。それにお腹がすいているだろうから、ちゃんと食べさせてあげないと」
「「ねえさま、かうの? かうの?」」
「それはお父様とお母様に聞いてみないと……」
「私ならかまいませんよ」
侯爵夫人が部屋に入ると、すぐに了承の言葉を伝える。侍女達から話を聞いてくれたようだ。
「じゃあ、後はお父様だけね」
「貴方達の頼みなら断らないでしょう。帰宅されたらお願いしてみなさい」
ニコリと笑う夫人に、子供達は喜んだ。
「ありがとう、お母様」
「「わあい、ねこちゃん、ねこちゃん。ねえさま、おなまえは? おなまえはきめたの?」」
「シロちゃん」
「「「………………」」」
元気の良かった弟達は途端に黙ってしまった。夫人を見ると微妙な顔をされている。
「知らなかった。よくできた娘だと思っていたのに、センスは無かったのね」
ブツブツとそんな声が耳をかすめたが、俺は何も聞いていませんよ~。
周りの反応に不穏なものを感じたのか、ファニーは口を突き出して「他にいい名前ありますか?」と聞いた。おお、ファニーが拗ねている。何て希少な表情。ご馳走様です。俺はデレデレになりながら、拗ねたファニーの顔を堪能していた。
「ジャックがいいよ。それかトニー」
「人名じゃないか。しかもこの猫はメス。女の子だぞ」
「じゃあバニー。レベッカとか」
「それ、ここの侍女さんの名前だよな。しかもまた人名」
弟達が思い思いに口にする中、突っ込みをいれる俺。ちょっと疲れる。
「うちの子のネーミングセンスって……」
とうとう夫人が頭を抱えだした。お気の毒です、お義母様。ファニーとの子供の名前は、俺がつけますので心配しないで下さい。
「……たしか他国の言葉で雪をルミと言うらしい。白いから雪なんて発想、安直だけれどどうかな?」
俺はふと思いついた言葉を口にした。
すると皆が一斉に俺に注目する。
「アシュ、素敵よ、それ」
「ルミ、ルミ、かわいいね」「わあい、ルミだぁ。ルミだぁ」
「良かったわ。ありがとう、アシュレイ様」
皆が喜ぶ中、夫人がホッと一息ついた。意に染まぬ名前が付かなかった事に、安心したようだ。お役に立ててなによりです。
ふと仔猫を見ると猫も満足したのか、ふにゃあと鳴いた。
ちょうどタイミングよくミルクとパン粥を持ったミナが入って来た。その後ろには皆のお茶を用意したワゴンを押して、二人の侍女もやってくる。
この猫の名前はルミだと言うと、侍女達も微笑んで迎えてくれた。
そうしてこの白猫は、ロレン侯爵家に迎えられたのである。