064 緊張
りんごがポトリと落ちた。
言ってしまえばたったそれだけのことに、ある先人は興味を抱いたらしい。俺だったら気にもとめないだろう。とてつもなくお腹が空いていたら、食べてしまうかもしれない。それはさておき、もし落下の瞬間を見逃していたら、あるいはそのりんごが前日に収穫されてしまっていたら、壮大な物理法則の発見は遅れたのだろうか。
答えは、まあ、わからない。
FPSというゲームを始めていなかったら、俺はどうなっていたのだろうか。反応チートに気づくこともなく、プロゲーマーにもなっていないのだろうか。そんな世界線だったとしても、悠美さんとは出会っていてほしいのだが。
「はい。どうぞー。」
差し出された黄色いマグカップを受け取る。
「ありがとう…ございます。」
俺は今、とても緊張している。なぜか。ここが悠美さんの部屋だから。
■
時は十数分ほどさかのぼる。
今日は楽しい楽しいデートの日だった。付き合い始めてかれこれ半年。最近、やっと手をつなげるようになった。手をつなぎながら、歩く帰り道。
少しでも一緒にいたいので、いつも通りの遠回りをした。それが仇になったというか、なんというか。思いっきり雨に降られてしまった。しかも土砂降り。
「わーっ!雨っ。」
あいにく傘の持ち合わせがない。幸いにしてタオルはあったので、ちょっと失礼して悠美さんに被せる。
「あ、ありがとうございます。」
そんなこんなでバタバタ。駅に戻ろうかとも思ったのだが、距離的に悠美さんのお家の方が近かった。
―――まあ…傘借りて帰ろうかな。
そんな皮算用をした結果、俺は今、悠美さんのお家でタオルにくるまれている。ぐるぐる巻き。狙ったわけではない。断じて。
悠美さんはというと、かわいらしい部屋着姿。…何をとは言わないが、見てはいない。断じて。
「降り止んだら、帰りますので…。」
マグカップをカイロがわりにしつつ、そう呟いた。自分でも信じられないほど小さな声で。
「じゃあ…ずっと、止んでほしくないです…。」
悠美さんが隣に。こぶし1個分の距離。
「…悠美さ…っくしゅん!」
なぜ、今。
「んふふっ。ぎゅっ。」
「わっ…。」
こうやって抱きしめてもらえたのは、何年ぶりだろうか。俺の両親は、仕事で世界中を飛び回っている。それは昔も同じ。シチュエーションも何も覚えていないけど、母さんに抱きしめられたとき、とってもあたたかくて、とっても安心したことだけは覚えている。
言葉にはしないけど、さみしかった。
「…悠美さん、俺…。」
感情を言葉にしかけたとき、強烈な睡魔に襲われた。閉じたくないはずの《まぶた》が視界を遮る。抗うことはできなかった。
コーヒーの苦みだけが、ほのかに残った。
お読みいただき、ありがとうございました。
【続編について】
世界線が本作と大きく異なるため、別作として公開する予定です。なお、投稿時期は未定です。申し訳ございませんが、お待ちいただけますと幸いです。




