7.疑心暗鬼
疑心暗鬼
見ちゃいけなかった
見なければよかった
あなたのケータイのメール
ただのあいさつじゃない
小さな池に
墨汁を一滴
見る見る真っ黒になる
あたしの心
訊くに訊けない
消すに消せない
あなたの笑顔も
やさしいキスも
あたしだけなの?
記憶を蘇らせるだけで体が反応してしまうのは成熟したということなのだろうか。自分の中で戸惑うほどせり上がってきたものをこんな真昼間から一つ、一つ指でなぞるように思い出すのを止めることができなかった。
道路の両側がいつのまにか開けて来て、白っぽい東京の空が広がっている。
「もうすぐ着くよ」
一時間以上、しゃべらなかったおじさんがわりとはっきりした太い声で言った時、体がびくりと動いた。
おかしく思われはしないかとひやりとしたけれど、史織の変化に気づいてはいないようだ。
環八を横切る信号待ちでまたタバコをくわえて窓を開けた。落ち着こうと用心しいしい深く呼吸する。首が硬直したようになって運転席を見ることができない。もうすぐと言われるとまだ着かないのかという気持ちになる。……
歩いて部屋を探しに来た時とはトラックだと目線の高さが違うせいなのか、速度があるせいなのか、印象が異なって見えてしまうけれど、隣の家の柿の木に見覚えがある。
トラックを降りて階段を駆け上がる。そうは思っていなかったのだが、今見ると何もない部屋は彼の部屋とどこか似ている。そういう部屋だから無意識に選んだのか。でも、もう思い出したくない。
相変わらずおじさんはテキパキと荷物を運び込む。またもや腕や胸に視線が吸い寄せられる。手伝わないといけないという口実を自分につくりながら、階段ですれ違う。
胸がこすれる。わざとじゃないと思うのだけれど、踊り場でかえって邪魔になるような体勢で待ってしまう。視線が合いそうになる。
ついとはずして、階段を少し急ぎながら上がる。自分のお尻がどう見えるか意識してしまう。ジーンズはそうした気持ちを隠すのに十分な厚みを持っているだろうか。荷物を部屋に置いてすぐに降りる。
「ベッドはこの向き?」
「あ、はい。……また自分で直しますから」
周りを確かめるようなフリをして視線を避ける。ごわごわとした指をのぞくようにして見る。
「一人じゃ大変だから、いくらでも動かすよ」
「いえ、だいじょうぶです」
家具が次々と置かれていく。部屋らしくなっていく。段ボールがその隙間を埋める。
たくさんの荷物を運んで階段の上り下りをしているうちにおかしくなってしまったのかと考える自分がいる。
トラックの中でこの人のそばでおかしなことを考えていたせいだと、冷静さを失わせるような考えに導く自分がいる。
なんだか怒ったような顔になって、いつの間にか唇を噛んですっかり狭くなった部屋で肩をすくめていた。
「さてと。これでいいかな?」
「はい……あの、お茶でも」
「いいよ、いいよ。大変だから」
「いえ、ペットボトル買ってきますから」
振り切るようにして外に出て、自動販売機を探す。角まで走って行く。
あった。息が弾んでいる。千円札が約束事のように一回吐き出され、二回めは受け入れられる。もどかしく思いながら緑茶を二本買う。
もったいをつけるようにつり銭が落ちてくる。早くして。あたしは何を……。
おじさんがトラックの荷台を整理しているのが見えて、歩みが遅くなる。
「ああ、悪いね。じゃあ、もらっていくよ」
「いえ」
若い女の部屋に長居するわけにはいかないといったことなんだろう。それが良識というものだ。
何回も頭を下げて、トラックを見送る。段ボールを抱えていたときより重い足を運びながら階段を上がる。部屋に入る。ため息が出る前にジーンズの後ろのポケットのスマホが振動する。
『新居はどう? 手伝えなくてごめんね』
会社の友人からのメールだった。返信は後にしようと思って、スリープにしようとした時に、ふと不在着信と留守録があるのに気づいた。見覚えのない番号だったが、再生してみるとあのおじさんの声だった。
『えー、ちょっと早く着きそうなんで。あ、信号変わるから』
交差点待ちをしている間に電話したのだろう。いつもマナーモードにしているから、体から離していると気づかないことが多い。その番号をしばらく見つめる。……
もしここで自分が電話して、とんでもないことを申し出たらどうなるだろうか。戻って来てくれるだろうか。おじさんは電話したなんて一言も言わなかった。だから黙って応じてくれるかもしれない。
そんなのは論理の飛躍で、勝手な妄想にすぎないけれど、鼓動が早くなるのを抑えきれない。何回も声を聞く。
「満たされていないのかな?」
「うん……」
「それだけじゃないだろ? 引っ越し荷物を片付ける前に欲しがるなんて」
「とても嫌なことを思い出したの」
「どんな?」
「知らなくていいことを知ってしまったの」
「それだけじゃわからない。ずっといいにおいはしてたけど」
妄想の中のおじさんはあたしを都合よく責め立ててくれる。
「見てしまったの」
「よくわからないな」
「信用できなかったあたしが悪いの」
「裏切られたと思った?」
「そう」
「だから裏切られない関係がいい?」
「……」
胸に頭をあずけてやさしく髪をなでられているのに、意地悪な質問をされる。逃げようとしても先回りされる。
隠しておきたいことを容赦なくあばかれる。史織の痛いところ、弱いところをあの作業用の指で小気味よく触れてくれる。……
段ボールの山の間に横たわって、ジーンズを膝まで下ろす。細くてやわらかい指で触れていく。
だいじょうぶ。広い空と電線しか見えないもの。
だいじょうぶ。ここはあたしの部屋だから。
自分の中を確かめるように横を向く。段ボールで視野が遮られ、目をつぶる。
だいじょうぶ。鍵を掛ければ嫌な想い出は入って来ないから。
「はしたないって思う?」
「はしたないか、どうかは知らないが、こういうことはあんたが最初じゃない」
「本当に?!」
「あんたみたいに男と住まいをいっぺんに替えようとする女は、けっこういるんじゃないか」
おじさんはとても淫猥な笑みを浮かべて、会話より頼まれた仕事に没頭する。……もどかしくて指の位置を変える。ぶどうの種のようだといつも思う。
体をくの字に曲げ、脊柱が震えるまで親指の腹で探る。自分がなんだかけだものになったような気がする。
そう、まるで新しい棲みかに移った動物がごろごろ転がって自分の匂いをつけているみたい。
つるべ落としの夕暮れの中で史織は怯えたような吐息を時折挙げて、快感と惨めさを味わっていた。