6.世界の秘密
猫はせっかく洗ってあげたのに窓に爪を立てて外に出たがっていたけれど、それにも飽きたのか、ミルクを飲んで安心したのか、いつのまにか部屋の隅で眠っていた。
結局、ランチは一哉がミルクを買うついでにコンビニでいろいろ買ってきたもので済ませた。史織はまだ一歩も外に出ていない。自堕落な休日も彼といっしょなら悪くない。
彼が訊く。目つきがなんとなくあやしい。
「もう食べないの?」
「もうお腹いっぱい。だって、明太子おにぎりでしょ、おでんでしょ、それにサラダまで食べたよ」
「まだいろいろあるよ」
「いろいろあるって……夜か明日の朝に食べるんじゃないの?」
「このカップラーメン食べようかなって」
ポッキーの箱を開けながらそう言う。
「あたしはいいから」
「そう? カレーパンとあんドーナッツは朝食用だよ。朝から重いものはちょっとね」
「はあ」
聞いてるこっちが胃もたれしそうになる。いちいちチェックしているわけではないが、おにぎり2個とフライドチキン、カットピザ、カップにいっぱい入ったおでんのほとんどがするすると消えていった。
手巻き寿司も見かけた気がする。……それだけ食べても一向に太らないんだからうらやましい限りで、職場の女性にもそう言われるらしい。お湯が沸くのを待っている間、キャットフードの缶を熱心に読んでいる。
「それっておいしいらしいよ」
「うん。最近のはホントよくできてるよね」
二の句がつげなかった。こいつ食べてやがる。
「ウソだよ。史織が呆れてるのがおもしろいから」
やわらかく押し倒しながら、猫のように顔をなめてくる。甘いチョコレートのにおいがする。首をすくめる。
「猫に顔をなめられるのはいいけど、キャットフード食べた男になめられるのはやだな」
くすくす笑いながら言うとキスされる。やっぱり甘い味だ。舌も。
本当はやかんが気になるし、手も洗ってほしいけれど、それじゃあ誘っているようだ。彼の手を握る。暖かい。
思わず体をすり寄せていく。なぜ舌って絡み合うとねばねばするんだろう。
ピイッとやかんが鳴る。体がびくっとなる。
「止めないと」
彼の胸を押してキッチンに急ぐ。彼が横に来て流しで手を洗う。動きがぎこちなくなる。
「なぜおまえだけいいにおいがするんだろう。ずっと一緒にいるのに」
手を拭きながら首筋にキスをしてくる。おまえって呼ぶのはベッドの中くらいしかないが、そう呼ばれると反応するところがある。
そうするつもりはないと思うのだけれど、腰の辺りに当たるものがある。
「ぽわんが見てるよ」
さっき二人で相談してその名前にした子猫があどけない目をこちらに向けている。史織の身体の中に動き出すものがある。
「起こしちゃったね」
そう言いながらスイッチを消すと暗闇が広がり、緑色の目が浮かぶ。
秋の終わりの雨の日は暮れるのが早い。人間が抱き合うのは興味がないらしく、自分の体をなめて毛づくろいをしているのがシルエットで見える。
「ラーメンはいいの?」
「こっちの方があったまりそうだ」
一体どうしたのだろう。いつもよりずっと感じやすくなっている。昨日の夜も、それから何日か前もしたのに。
頭の中で指折り数えるようなことをしてみるが、震えるように反応するのを止めることができない。
彼の指の動きで彼もいつもの史織と違うことが気づいている。
「何も言わないで」思わずそう祈る。
ベッドまで膝が折れそうになるのを我慢しながら連れて行かれる。
足をぎゅっと閉じているからよけいに歩きにくいが、そうしないとますます恥ずかしいことになりそうな気がする。下着がとても頼りなく感じる。
押し倒される。強い力で服を剥ぎ取られていく。
これまでだったら「痛いじゃない」と言うところだけど、そう望んでいたような気さえする。この感じは何かに似ている。……
ああ、そうだ。ジェットコースターだ。肩から大きなアームが降りてくる。ベルが鳴る。また震える。ガタガタと大げさな音がして動き出す。
首から胸、反対側、ゆっくりとした舌の動きが史織に初めて声を挙げさせた。行為の最中にため息や吐息を漏らすことはあっても声を挙げたりしたことはなかった。
十代の頃の痛みも歯をくいしばっていれば耐えることができた。しかし、この快感は歯をくいしばることも許さない。
腹、背中……気づかないうちに体のあちこちに彼の舌が現れる。肩甲骨と背骨に軽く歯が当たる。
こんなことをされたことはなかった。カタンカタン、青空を目指して上っていく。
彼が指を少し曲げると光がはじけ、痙攣したように体が跳ねる。あの音は流しから聞こえるんじゃない。
「だめ……」
口元に指を持って行こうとするのをかすれ声で制止する。微笑まないで、耳をすまさないで、こんなあたしを見ないで、すべて忘れて。
きっともっと思い出したくないようになるから。史織はもっとすり寄っていく以外のことは思いつかなかったが、全く違う自分が立ち現れてくるのを意識せざるをえなかった。
膝をぐいとつかまれる。左右に広げられたと思ったらやさしく、恥ずかしいくらいすんなり入ってきた。
ぽわんが見ている。目をぎゅっとつぶっていても猫の目に映る自分が見える。上って下りる、それと同じような単純なことだけれど、とても複雑な感覚を引きずり出す。
駆け下りていくジェットコースターは壁に当たっても、いやそれがそのまま新鮮な刺激になって別の世界を見せる。ただただ声を挙げる。
深いところも浅いところも、ほんのわずかな接触面の変化が全く違った意味を持って体の奥に響いてくる。緑色の目が生き物のように動いていく砂丘を照らす。自分の中で砂が崩れていくのをなぜか痛快に感じる。
なんてことだ。むずかしい理屈や繊細な言葉は次々とベッドの外にこぼれ、床にしたたり落ちる。……
しかし、ポケットの中の小銭を探すように結節点の少し上を彼が探った瞬間に自分を見ていた自分は砕け散ってしまい、雨上がりの空が濃い青に染まる頃になってようやくそのかけらを探すことができた。
世界の秘密
指がふれる
耳に息がかかる
言葉の意味が剥がれ落ちて
喉いっぱいに叫ぶ
あなたのすべてが流れ込んでくる
二十歳を過ぎれば
この世に新しいことなんか何もない
未来は過去の繰り返しで
退屈な感覚と感情だけがいる
病院の待合室のようなあたしの心
でも、これは違う
今は今じゃない別の生き物
あたしはあたしと違う名前を持つ
何も見えずにすべてがわかる
この世界はきっとそうなってるんだ