4.猫・雨・洋館
秋の終わりの冷たい雨が降っていた。さらさらと細かい雨が二人の傘を濡らしていた。
風はほとんどなかったけれど、まだお昼過ぎなのに深い森にいるように暗かった。でも、史織はいつになくはしゃいだ気分で、彼もそれに合わせてくれていたようだった。
「どこへ行くの?」
「さあ、なんとなく」
「公園通りとか、表参道の方がいいんじゃない?」
「ブランド・ショップとか見てると手を引っ張るくせに」
一哉が返事の代わりにくすくす笑うのがどこかを暖めてくれるような気がする。ハーフコートの下は薄いニットのワンピースだけだったのに寒く感じたりしなかった。
あたしの傘は小さな傘、あなたの傘は大きな傘。あたしの傘は花柄ピンク、あなたの傘はなんにもないグレイ。
そんな歌にもならないようなことを頭の中でつぶやきながら、ちょっとうつむきがちに歩いて行く。歩道の所々に水がたまっていて、雨粒が小さな波紋を広げる。
雨のスカート。子どもの頃にそんなふうに呼んで、飽きずに眺めていたのを思い出す。シンデレラの物語に出てきた舞踏会を想像していたのだろうか。あちこちでドレスの輪が広がり消える。幻のお城。
バルコニーに流れるシャンデリアの輝き。幻の舞踏会。真夜中を過ぎても終わらない音楽。……
彼が少し離れて歩いているのに気づく。いつの間にか傘をくるくると回していたのをしずくを避けようとしたようだ。
「あ、ごめんね」
「……プロヴァンスの野原から戻って来た?」
「うん」
そう言って照れ隠しのように腕にからみつく。この間、史織がフランスに行きたいと騒いでいたのを彼が覚えていて、そう言ったのだろう。
でも、一哉はちょっと記憶違いをしている。史織は春だったらプロヴァンスの野原に寝転びたいって言ったのだ。フランスの蝶はどんなふうに飛ぶのかなって。
秋の終わりならモンマルトルを歩いてみたい。ユトリロの絵の中の人物のように枯葉を踏みながら。……後で画集を見ても自分が想ったような絵はなかったのだけれど。
「やっぱりフランスに行ってみたいな」
「行けばいいじゃない」
「観光旅行じゃなくてさ。何年も」
「ふうん。フランス語できるの?」
「ううん。全然」
ますますぎゅっとしがみつく。傘が揺れる。
「歩きにくいんだけど」
「そういうことじゃなくて。……行くなよとか言わないの?」
「だって、現実味ないし」
「現実味あったら止める?」
「そう言われると止めないと悪いね」
「でも、あたしって本当に決心すると意志が強いんだよ」
「なるほど」
「なるほどじゃないでしょ」
史織は『ずっといっしょにいてほしい』と言ってもらいたい。それは彼もわかっていて、とぼけたようなことを言っている。
そのことも史織はわかっていて、しかもそんなふうに言われたらうれしい以上に戸惑ってしまう自分を自覚している。だのにわざと自分からそういう方に話を持っていこうとしている。
会話のゲーム。軽やかに近づいて瞳の奥の言葉を探す。感情のゲーム。ほがらかな笑みの底に眠れない夜が沈んでいる。
ゆるやかな坂の途中におしゃれなパン屋があった。チェーン店ではなく、手作りで焼いているようだった。ワイン瓶の底のようなガラスのはまったドアを開けると甘く香ばしい香りが漂っていた。
パンの焼けるにおいは人を家庭的にする。人間関係だとか将来への不安だとかそういったものをふんわりとくるんでしまって、ずっとこのまままどろんでいたいと思わせる。
トングをカチカチさせるのは子どもっぽいと思うけれど、とてもていねいに作られたパンを見ているうちに鳴らしてしまう。
「そんなに買ってどうするの?」
「だって、これは焼き立てだから後で食べようよ。こっちは明日の朝ごはん。……これは持って帰って」
彼の目をうかがうようにしながら言う。にんじん入りのだけだと嫌がりそうだから、レーズンとアップルが入ったのも選んである。それがあれば文句は言えないなという顔をしている。財布を出そうとするのを手で押さえる。
「ま、いいから、いいから」
「でも、ぼくの分まで悪いよ」
「いいから、いいから」
あまり気の利いたことを言おうとすると何だか所帯じみた言葉になりそうな気がして、同じ言葉を繰り返す。
外に出る。冷たさと湿気が心地よく感じる。厚い雲と傾いた陽のせいだろうか、いつの間にか辺りが琥珀色の光に包まれている。
代官山の近くには洋館ふうの建物が並んでいる。風雨にさらされて時代がかった壁に目立たないような細工がしてあるのがとてもいい感じだと思う。絵葉書で見た朝靄に沈むプチ・トリアノンよりももっと小さなお城。
彼の皮のブルゾンに頬を埋める。本当の石畳でもなく、電柱が目障りだけれど、まだ行ったことのないヨーロッパの街並みを(こういう言葉がふさわしいのなら)思い出す。
雨はもうやむのだろうか。ふと足元を見ると子猫が座って史織を見上げていた。しずくが光って貴婦人が身につける黒い毛皮のようだ。
「あれ?……こんなところに」
彼が先に遠くから響くような声を挙げた。
「おなかすいたの?」
史織がしゃがむと紙袋を見るようにして小さく鳴く。思わず笑みが浮かぶ。クロワッサンをちぎって手のひらに載せる。史織の目を茶色の目でちらっとのぞき込んでから、甘えるような仕草でくわえる。
ほんの一瞬だけ、しかしいつまでも目に残るようなピンクの舌が見えた。今度はもう少し大きくちぎるのを首を傾げながら待っている。傍にしゃがんだ彼が袋に手を入れるのを横目で見る。
「この子よりお行儀が悪いわ」
「だってくれないからさ」
その温かみのある言い方がいつか聞いたような気がする、いつのことだったのかと考えているうちに目が覚めていった。……
史織はのろのろと進む車の中でいつの間にか眠ってしまっていたのだった。もう新宿は通り過ぎたようだ。
明るさに目を細める。雨の中を彼と渋谷から歩いたり、猫にパンをあげたりしたことはなかった。
でも、身体の中には雨が降っていて、不思議な光の中で濡れた子猫がまだしょんぼりしているように思える。
……短い夢のように人生が始まり、終わるのも悪くないなとトラックの窓に頬杖を突きながら思った。
猫・雨・洋館
渋谷から代官山まで
傘をさして歩くなんて
物好きな二人だね
でも、ほらあの家の辺りって
モンマルトルみたいだよ
ユトリロの絵でしか知らないけど
さっき買ったクロワッサン
この子にあげようよ
miauってフランス語で鳴いてくれたしね
まだあったかいからさ