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史織物語  作者: 夢のもつれ
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3.パジャマ

 新宿が近づくにつれて道が混んできた。


 史織はふだん車やバスには乗らないからわからないけれど、信号が変わってもさばききれない車が残ると渋滞だと聞いたことがある。大きな交差点を横切るたびに停まっている時間の方が進んでいる時間より長い。


 おじさんは慣れているのか、穏やかな性格なのかイライラするわけでもなく、ハンドルを握っている。いつの間にかタバコを取り出して窓を開けて吸っている。


 別に史織に吸っていいかと訊いた訳でもないが、やめてくれなんて言わないから訊く必要もないと思う。


 最近の若い男は、なんて史織が思うのも変だが、なぜ最近の若い男は吸うに決まっているのに訊くのだろう。自分は言ったことがないが、友だちで「においがつくから嫌だ」と言ったのがいた。


 半分冗談だったのに相手の男が気分を害したのがはっきりとわかり、気まずい雰囲気になった。やっぱりそういうものかなと思った。


 新宿は大きすぎる街だ。なつかしい想い出がいっぱいあるけれど、全部飲み込んでしまって知らんぷりをしている。高層ビルは巨大でよそよそしい顔で自分たちを見下ろしている。


 一哉は学生時代以来、あの街でよく飲んでいたから史織とのデートでも「じゃあ、新宿で」と言うことが多かった。それは嫌ではなかったが、何回かするうちに飲みながらしゃべるだけで彼が満足しているんじゃないかって思った。


 それがそうでもなかったことは、あの日ようやくわかったのだけれど。



    パジャマ


  くんくん、これちゃんと洗ってる?

  あは、怒らない、怒らない

  貸してもらわないと困るし

  べつに嫌がってるわけじゃないから


  こんなことになるって思わなかったの

  盛り上がりすぎちゃったね

  終電に間に合わないなんて

  全然気づかなかったの

  あなたもそうだったかは訊かないけど


  じゃあ、おやすみなさい

  こっちに来ちゃダメだからね

  これを着てるだけで

  あなたに抱かれてるような気分なんだから



 部屋の灯りを彼が消そうとして、声を上げそうになった。


 寝るんだからそうするのは当然だし、彼の部屋だから彼がスイッチを持つのは当然なんだけど、変に意識してしまっているのかなと思う。


 まだ酔っているのか、もう酔いが醒めてしまったのか、脳みそがまだらになっているような気がする。まずいなあ、やばいなあと思っているのがそのままつぶやきになりかけて、あわてて口を押さえる。でも、それ自体がちょっと変だ。


 きっとこいつのせいだ。この変なやつがすぐそばで寝てるせいだ。早く寝てよ。おとなしく。何事もなく朝を迎えようよ。


 それが……なんて言うか、うん、健全だよ。酔って悪態をついていた史織は、くるっと壁の方を向いて何回かうなずいた。


 でも、眠れない。背中がなんだか寒いような気がして、毛布を肩まで引き寄せる。外を通る車の音の下に寝息のような音がかすかに混じるような気がする。


 眠っちゃったのかな? ゆっくりとしたリズムに自分の呼吸を合わせたり、はずしたりする。こんないい女がいるのに寝るなよ。体を丸める。


 さっきまで、もしこっちに来たらどうやって撃退しようかと勇んで考えていたくせにしょうがないなと自分に言う。


「喉渇かない?」


 いきなり訊かれてびくっとなってしまった。オレンジ色のなつめ球が点いているから寝たふりをすることもできない。


「う、うん。ちょっとね」


 彼はそのまま身を起こして、冷蔵庫を開ける。横顔が浮かび上がる。コップを2つ出してペットボトルから液体を注ぐ。そっちに持っていこうか?というような表情で振り向く。


 灯りを点けないでそれだけのことができるのに少し驚く。ベッドから降りて、聞こえないくらいの声で「ありがと」と言ってコップを取る。


 水じゃない、それはこの暗がりでもわかる。ウーロン茶ともちょっと違う。苦味を感じる。暗闇で感覚が敏感になっている。


「麦茶だよ。自分で作って冷やしておくんだ」


「マメなのね」


「冬でも麦茶なんだ」


 暗いと声が低めになる。まだ少し早すぎると思うのに近づいてきた顔を避けなかった。


 顎にひげが伸びかかっているなとか、この部屋の天井って田舎のあたしの部屋のと似てるなとか、よけいなことばかりキスされながら考えていたけれど、じろじろ見回しているのはおかしいと気づいて、目を閉じる。


 お酒くさいかもと思い、そっと胸を手で押しやって顔を伏せると背中から抱きしめられた。びくんと体が震える。いよいよまずいかもしれない。


「本当に肩が小さいね。いつも思ってたけど」


 でも、彼が指で探っていたのはもっと前の方だった。さっきパジャマに着替えたとき、ボタンがゆるいなと思ったのに意外と健闘してるじゃないのって思う。


 この人のことだから焦らしてるんじゃない、もたついているだけ。それも悪くないけど。そう考えるあたしはとても意外だけど。


「電気消して」


 もう十分見られてしまってから言う。前の彼がそう言うといつも含み笑いをしながら耳を噛んで、エロイことをささやくのが影響して、言いにくかったのだ。


 そのときの言葉が次から次へと蘇ってくる。首を振っていやいやをしても、そんなふうに見えないだろうと思う。首筋に唇の感触を感じる。ベッドに逃げるように、誘うように上がる。……


「いいにおいだ」


 くすっと笑いながら、シャワーを浴びたときにコロンを要所要所につけておいてよかったと思う。


 カラオケボックスは髪の毛ににおいがつくから嫌いだ。かと言って、初めて行った彼の部屋でシャンプーするわけにもいかない。トリートメントもないし、ドライヤーで乾かすなんて間の抜けた話だ。絶対にそういう気がないならくつろぐのもいいのかもしれないけれど。


 腕を背中に回して抱きついていく。自分の気持ちに素直になろうと思いながら。そんなことは今までなかったし、それがどういうことになるのかわからなかったが。


 彼が入って来たとき、ベッドがきしむ音が自分の体の奥から出てくるように感じた。


 強引なわけでも、痛みがあったわけでもなく、重い扉が開いていくのを見ているような気がした。狭い運河に向かって開かれた扉からゴンドラが現れる。静かに揺れながら海からの風を切って水面を進んで行く。夜のまたその奥の方へ。……


 彼が意図的に動かしたり、触れたりするだけじゃなく、偶然に息がかかったり、足の指が滑っていったりするだけで史織は切なそうな声を上げた。


 そのことに彼が驚き、喜んでいることは動きが一瞬止まり、一層熱を帯びるから史織にもわかった。自分の体に起きていることは恥ずかしくてたまらないが、そのことで彼とじかに会話しているのを楽しんでいるような気がする。


「えっちはコミュニケーションよ」


 男をとっかえひっかえする同僚が飲み会でそんなことを言っていた。


「してみなきゃいい男かどうかわかんないわ」


 他のみんなは目配せしながら聞かないフリをしていた。


「今のうちよ。おばさんになってからじゃ遅いわ」


 彼女は会社を辞めてしまったけれど、もし会ったらあたしはなんて言うのだろう。彼女は今のあたしを見たらなんて言うだろう。


「これからね。うぶな史織ちゃん」


 そうかもしれない。


 ……きっとそうだったのだろう。相変わらず渋滞は続いている。



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