2.待ちぼうけ
待ちぼうけ
あたしはけっこうクールで
ヴァレンタイン・デイにデートするのは
好きじゃない
カップルがいっぱい
だからサーヴィスがよくないものね
だのにハチ公前で
孤独な女を演じさせるの?
こんな日に残業させる会社なんて
やめちまえ!
ってメール打ったのに
返事もくれないの?
あーあ、最低だね
涙が出てくるなんて
帰ろうかな
あなたの胸に
顔をうずめて
春日通りを右折したトラックは護国寺の前を通っていた。歩いて来たことがあるのはこの辺りまでだった。
今日のようにやわらかくなった陽を浴びながら、ぶらぶらと散歩したことを思い出す。
次に来た時に入ってみようと思ったレトロな感じの喫茶店が後ろに遠ざかる。
できなかったこと、しなかったことも想い出になるのだろうか。香りだけで花の姿をめったに見たことがない金木犀のように。
史織は窓の方に少し首を傾けながらそんなことを考えた。
おじさんは黙っている。
土曜日の午後の道だからすいすいとはいかないが、渋滞しているというほどではない。AMラジオが控えめな音で掛かっている。
「……それで景気がやっと回復してきたのはいいんですが、残業もまた増えているんですね」
「過労死の問題とかありますから深刻ですね」
かなりの年だろうと思われるパーソナリティに子か、下手をすると孫のようなアシスタントがあまり深刻ではないような声で相槌を打つ。
AMラジオを昼間から聞くなんてすごく久しぶりだなと思った。駅前の中華料理屋か海の家で聞いたのか。
しかし、そうしたところに行った記憶もすぐには見当たらない。
「サービス残業と言うと働く人が自分で望んでやっているような響きがありますが、実際には残業代を払ってもらえないという現状があるわけです」
「政府の取り組みが待たれるわけですね」
その言い方がこれさえ言っておけばちゃんとしたコメントだよと教えられたような浮いた台詞だったので、思わず笑みがこぼれた。
「そうですね。……でも、デートと残業とどっちを取るかって訊かれたらどう答えます?」
「えー?!……どっちでしょう。やっぱりデートかなあ」
政府の取り組みはどこかに行ってしまったような声だった。
「はは。……ところが残業が圧倒的に多いんですよ。これは社会経済生産性本部の意識調査なんですが、今年の新入社員の八割が『デートより残業を優先する』と答えているんですね」
この話題になってから何か思い出せそうで、思い出せないことがあるなと思っていたが、ふいに渋谷の大型ディスプレイが目に浮かんできた。
ハチ公前に三つも並んだ画面をぼんやりと見ている自分。ヴァレンタイン・ディの雑踏の中で一人で孤独な女を演じている自分。
だから別の日にしようよって言ったのにと何十回とため息をついている自分。本当は前の彼氏と二月十四日に大ゲンカしたから、その日のデートは嫌なんだと言えなかった自分。……もうラジオの音は耳に入らなかった。
大ゲンカの相手は嫌味なやつで、そこが魅力と言えば魅力で、自分でもそうしたこと全部を承知しているふうがあった。
最初のデートでワインをテイスティングして取り返させたのはびっくりしたし、どこが悪いのか滔々とソムリエに述べている間、周りのテーブルからの視線が痛かった。
それは1万円以上するワインだから理解できないこともないけれど、クリスマスやヴァレンタイン・ディのように決まったメニューだけにして、できる限りお客を回転させようと店側がしている日に、料理が出てくるペースが早いとか肉が焼けすぎているとか言うのはちょっとどうかと思った。
自分は時々目線がきついと言われるから目で笑うよう努力して、彼の手の甲にやさしく手をかぶせて言った。
「仕方ないわ。今日はこんなに混んでるから」
「いくらたくさんお客が来ても、店として崩しちゃいけない線ってものがある」
「でも、あたしには十分おいしいわ」
一般論でいくら言っても議論は向こうの方が得意だし(その彼は信託銀行のファンド・マネージャーだった)、勝とうとも思っていないので、そういう言い方をしたのだが、それを鼻で笑われてカチンとなった。
もう少し我慢と思って、メダイヨンを切るような素振りでうつむいたのをどう理解したのか、追い討ちを掛けるようにそいつは言った。
「居酒屋の方がよかったか。……君には」
自分の顔が青ざめて、手が震えているなとは思ったが、そんなことはいい。しっかりと言いたいことだけは言おうと思った。
「そのとおりよ。あたしはその場、その場、その時、その時に合わせて楽しむのがいちばんだと思っているから。楽しみ方を一通りしか知らずにそれを押し付けるなんて、迷惑なだけだわ。あなた料理評論家なの? ソムリエなの? 批評するために食事してるの? だったら一人で食べてればいいのよ。さようなら」
さっと立ち上がって、出口に向かった。客もウェイターも拍手でも送りたそうな顔をして道を開け、コートを素早く着せ掛けてくれた。
ベッドの中のことも当てこすったのが恥ずかしくなって、小さな声で「すみません」と言って外に出た。
冷たい風が頬をなでるのを感じてから『その場、その場、その時、その時』という言い方が父の口癖だと気づいて、やだなと思った。
待ちぼうけしてるとつまんないことばかり想い出すと史織は思った。あの時はあたしも無理やりテーブルを詰め込む店の対応にちょっとイライラしてたのかなと思う。二時間以上待って冷えきった頬に手袋を当てる。
「おそーい」なんて彼氏を迎える甲高い声ばかり聞かされたから弱気になっていたのかもしれない。
今度の彼氏の一哉はSEで流行りの仕事のようだが、「工場で働いているのと変わらないよ」と本人が言うとおりで、納期に追われて徹夜続きのこともめずらしくないようだった。
勘のいい友だちが「最近、彼氏ができた?」とカマを掛けてきた。隠せばよけいに詮索されるだけだから、訊かれるままに彼のことを言った。
前の嫌味野郎と会ったこともあり、別れたことも知っているだけに興味津々なんだろう。
「どんな感じの人?」
「ちょっとぼんやりした人かな」
「え?……そうなの?」
「うん。そこがいいかなって」
話が長くなるのを避けたいのもあったが、実際にそう思っていた。変にピリピリして考えていることを追いかけるのに疲れてしまうような人よりも、ちょっとぼんやりしてて何も考えていないような人の方がいい。
頭の回転やセンスの良さは友だちには自慢できても、自分の満足にはならない。居酒屋のような人がよくなったというのは、あたしもちょっと年取ったのかなと苦笑まじりに思った。
ただ、十二月になってから付き合い始めたというのに一月の終わりには遠慮のない関係になっていたのは意外だった。
これまでは「史織はなかなか打ち解けてくれない」という男たちの不満を直接、間接に聞いたし、ベッドをともにしながら気持ちに一線を引いていた相手もあったのに、一哉の場合は正反対だった。
それは彼の方が踏み込んでくるというよりは、自分の方から隣り合って敷いたお布団をゴロゴロと転がっていくような感じだったからだ。
今までだったら使わないような言葉遣いで話したり、歌わないような歌をカラオケで歌ったり、掛けないような時間に長電話をしたり、彼とだとなぜかそうしてしまうのだった。
「ふうん。見てみたいな。史織がそういう人選ぶなんて」
「見るほどのもんじゃないって」
笑ってごまかしたけれど、もしそうなったらと想像すると恥ずかしくて仕方がない。彼ではなく、彼の前の自分が。
でも、その今までにない自分を引き出してくれる人は来ない。
爪先立ちするように交差点の向こうを見やる元気も、スマホをちらちら見たりする元気もなくなってしまった。
かと言って、帰ってしまう勇気もない。こんなのっておかしいとその時の史織は思った。
こんなにたくさんの人がいて、こんなに時間が経っているのに彼だけがいないなんて。
別の星に別のハチ公前があって、そこで一哉はあたしと同じように汚れた点字ブロックを見つめながら待っているような気がする。何かそんなすれ違いが生じたのに違いない。
ふと気づくと目の前に手が広げられていた。
少し丸っこい指とやわらかい手のひらの感触を思い出しながら、顔を挙げる。
「チョコなんかないよ」
涙がにじんできそうなのが悔しくてそう言ったけれど、この人はなんて自然に笑うんだろうと思うともうこらえきれなかった。コートの胸に頭がことんと落ちる。一哉は何も言わずに肩を抱いてくれる。
「なんか言ってよ」
「ごめんね」
「うん」
それだけでとても幸せな気分になった。二つの星が出会ったように。
トラックと並ぶようにして走る都電を見つめながら、史織はそう思った。