9.からくり箱ふたたび
友五郎は仏間に座り、みじろぎもせず菫とともにその板を凝視していた。
菫の言うところのこの屋敷に三枚あるうちの二枚目の板、「てれび」の中では、友五郎の想像を越えた、驚天動地の光景が展開されていた。全裸同然の、わずかな布切れを身に付け、異人のような赤朽葉色の髪をした娘がかまびすしく踊っている。何が起こるのかと思っていると、大きな卵色の煎餅の上に紅や緑の吐瀉物をぶちまけたようなものが、眼前に出現した。
「これは、ぴざの宣伝ですね」と菫が隣で説明する。友五郎は頷くのも忘れ、板面に食い入る。
驚くべきことが起った。先ほどの娘が煎餅から大なる扇形の一片を素手でつまみ取ると、悠々と掲げ上げ、一息にかぶりついた。噛み切った娘の口と、煎餅との間に、ねっとりとした卵色の糸が引く。見るもおぞましい眺め。反吐を連想し、友五郎は吐き気を催す。
光景が大きく切り替わった。様々な大きさの人間や風景がめまぐるしく立ち現れ、切り替わっていく。
「この番組は、どらまというもの――、ええっと、お芝居ですよ」また菫が説明する。友五郎はかろうじて頷き、板を見つめた。
またしても異人のような栗色髪で、筒袖に似た奇態な着物をまとった男女が、猛烈な早口で諍いのようなものを演じていた。なるほど、言われてみれば芝居のような気もしなくはない。などと思っていると、場が急転した。やにわに男女が身を寄せ、ひしと抱き合ったかと思うと、こともあろうにぺったりと互いの唇を重ね合わせたのだ。
なんという破廉恥。さすがにこれには菫も驚いたのだろう。隣を見ると、息を呑んだような表情で固まっている。
「え、ええっと、ちょっと、ちゃんねるを変えましょうね」と菫は言い、手に持った四角い小箱に触れた。再び光景が切り替わった。どうやら小箱と板は、何らかのからくりで連動しているらしい。つくづく面妖なことだ。
さっきとは別の男が立っている。漆喰で塗り固められているのか、背景は真っ白だ。
「今度はこうらですね」菫が言った。甲羅? いったいなぜ亀甲が出てくるのであろうかと思いつつ、友五郎は箱に見入る。そこには男がいた。醤油らしき真っ黒な液の入った、びいどろの瓶を片手に、何やら口上を述べている。行商の者だろうか。
次の瞬間、またしても驚くべき光景が現れた。男が、ひょいとその瓶を口元に運んだかと思うと、ごくごくと嚥下しはじめたのだ。
「おおおおおっ」友五郎は思わず声を上げた。大変な荒行だ。あの男、身体は大丈夫なのであろうか。驚愕の余韻にひたる間もなく、またしても光景が切り替わる。
また別の男だ。大きなびいどろの器を手に持っている。器には、馬の小便かと思われるような黄色の液体が、なみなみとつがれていた。ついさっき汲んできたかのように、表面に白い泡が立っている。友五郎はぽかんと口を開け、男が馬の小便を一気呵成に喉に流し込んでいく様子をただ眺めた。
光景がかき消え、次の光景が立ち現れた。煌々と照らされた室内だった。手前に白磁の西洋文机らしきものが置かれ、その向こうに罪人の如く首に小豆色の紐を巻き付けた男が座っていた。
「こんばんは。七月三日六時のにゅうすです」というと、男は友五郎に向かって頭を下げた。友五郎も男に対し頭を下げた。男はさっきまで箱の中に現れていた者どもよりも、心持ちゆっくりとした速さで語り始めた。
「今朝、新宿中央公園で、ほーむれすと思われる男性の刺殺体が発見されました」
箱の中の眺めが切り替わった。疎らな木々の間に、天色の油単でできた漁師小屋のようなものが点在していて、それらの周りを黄色の細い帯が囲っていた。人足であろうか、帯の中では、揃いの藍色の服を着た者どもが、ある者は立ち、ある者は地にかがみ込むようにして、雑役を行なっているようだった。
「現場は、夜間や早朝、人通りの少なくなる場所で――」
眺めが切り替わり、遠景が映し出される。友五郎はそれを見て、ずっと見開き放しの眼を、さらに大きく見開いた。小さく、豆粒のような先ほどの人足たち。その背後には、天をも突くような巨大な墓石が、数多そびえていた。
紛う事なき異界だった。
頭を抱え、呻き声を漏らした。限界だった。これ以上この板を見続けることは、友五郎にとってもはや苦痛以外の何ものでもなかった。
「苦しいのですか?」菫が心配そうに訊ねてきた。友五郎が頷くと、菫は手に持っていた小箱に触れた。「てれび」の表面から光は失われ、最初のような、黒色をした板へと戻った。友五郎は菫のほうを向くと、深々と頭を下げ、言った。
「菫どの。それがしから申し出たことであるのに、かような見苦しい姿をお見せしてしまい、まことに申し訳ない」
「いえ、そんな、謝らないでください」菫が慌てたように言った。
「今まで全然見たことがなかったものでしょう? 初めて眼にすれば気分が悪くなって当然ですよ」
「そうであろうか」
「そうですよ」菫が微笑ってみせた。
「しかしそれにしても、菫どのはこの『てれび』に映し出される眺めや声が全て、エレキテルによるからくりだと申すのか?」
「はい」
「信じられぬ」友五郎は首を振った。「だが、おそらく本当のことなのであろうな。菫どのはそれがしにとって命の恩人。嘘を申されるはずはない。つまりそれがしは昨夜より、角筈村から、遙か彼方にある別の角筈へと流れついてしまったということか」友五郎はがっくりと肩を落とした。
「あの」菫が切り出した。「よろしかったら、お話をお聞かせ下さいませんか? わたし、何も得意なことなんてありませんけれど、お話を聞くことで、友五郎さんが楽になるようでしたら」
「しかし、それがしこれ以上、菫どのより恩を賜るわけには」
「そんなことおっしゃらないでください」菫が笑顔で言った。「わたしも、友五郎さんのお話を聞きたいんです」
しばしの呻吟の後、友五郎は口を開いた。
「では、菫どのの御厚意に甘え――」