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8.魔窟の隠者

 志徒子が連れてきたのは、学食とは真反対の学校の最北端にある建物、サークル棟だ。


 くすんだ外壁を眺めつつ、そういえばこんなものもあったっけ、と和木は思い出していた。入学早々の各サークルの壮絶なる新入部員獲得合戦に辟易し、すっかり入会の意欲を失ってしまった和木は、それ以降バイトに明け暮れるようになり、いつしかこの棟の存在を忘れていた。建物の前に立つのさえ、かれこれ二年ぶりになるだろうか。


 初めて入った玄関ホールは、和木にとって異界のような場所だった。天井で神経症的に明滅する蛍光灯。べたべたと窓と壁を埋めつくすように貼られた部員勧誘のビラ。さらにその上に重ね塗りされるように描かれた、スプレーによる意味不明の落書き――。


 顔を顰めつつそれら光景を眺めていると、隣に立って同じように辺りを見渡していた志徒子が言った。


「案内図はどこかしらね。これじゃさっぱりわからないわ」


「案内図? そんなもの、あったとしてもビラで覆われちゃってわからなくなってるんじゃないの?」


 そうねえ。それっぽいわねぇ、と志徒子は呟くと、


「まあ、あたしが目的地を探してあげるからさ、和木はついてきてよ」


 そう言って、先に立って歩きはじめた。頼もしくもサークル部屋の扉一つ一つの前に立って、中身を検分していく。何を探しているのかは、和木にはわからないし、訊く気もない。こういうときに話しかけても、「待ってなさいよ。後でわかるから」と言われるのが落ちだと、経験によって知っているからだ。


 歩いていると、志徒子がこの場とは関係のない話を訊いてきた。


「そういえばさ、和木って就活どうしてる」


「別に。今のバイト先では、一定期間バイト続けたら、繰り上がりで社員にしてもらえるシステムになってるから」


「そのまま勤めちゃうの?」


「そういうことになるかな」


「和木、そんなにあそこのバイト好きだった?」


「そういうわけでもないけどさ、せっかく苦労せずに就職できるっていうんだから」


「それって、退屈すぎやしない?」


「退屈とは何だよ」和木は少々むっとしつつ、「志徒子みたいな金持ちにはわからないかもしれないけどな、すんなり仕事が決まるってのは凄く幸運なことなんだぞ?」


「それはあたしにもわかってるわよ。でもそれにしたってもっと何かこう、誰もやったことのないようなことをしてみる気とかないの?」


「何だよその、『誰もやったことのないようなこと』って」


「そうねえ。例えば歩きでインドまで行くとか、エベレストの頂上からバンジージャンプするとか」


「おい志徒子」和木は呆れつつ、「それって全然仕事じゃないだろうが」


「和木に訊かれたから例を出しただけよ。自分の将来なんだから、自分で考えなさい」


「無茶苦茶だ」


 志徒子はそこで立ち止まり、横から和木の顔をじっと見つめると、溜め息を吐いて、


「つまんないの」と呟いた。


 サークル棟に入ってから十分もたったころ、志徒子は一つのドアの前で立ち止まった。


「何だいこれ。一体何のサークルの部屋?」


 和木の質問に、志徒子は無言で天井の方を指差した。天井に近い位置に、「空想科学小説研究会」と下手な字で書かれた小さな木札が貼ってあった。


 躊躇する和木を尻目に、志徒子はノックをし、返事も待たずにドアを開け、中へと入ってしまった。慌てて和木もその後に続き、足を踏み入れる。


 中は、暗い廊下よりも更に暗かった。その理由はすぐにわかった。窓一面にびっしりと映画のポスターが貼られているのだ。


「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「ターミネーター」など、和木も知っているタイトルも中にはあったが、ほとんどは初めて見るタイトルのものだった。部屋の中心には巨大なテーブルが置かれていて、その一番奥の角にカマキリに似た逆三角形の顔をした男が座り、一心不乱にパソコンのキーボードを打っていた。


 壁の本棚には整然と本が並べられてあった。ハードカバー。文庫。白い背表紙のもの。水色の背表紙のもの。やや背の高い銀色の背表紙のもの。


「ああ、触っちゃ駄目だよ!」


 振り返ると男がディスプレイから眼を上げて、こちらを睨んでいた。


「何? 入会希望者? 僕が会長だけど」


 志徒子と二人して首を振る。


「じゃあ何の用? 部屋を間違えたならとっとと出てって」そう言ってカマキリ男はまたディスプレイの方を向いた。とりつくしまもない。ここは出て行ったほうが無難だろう。そう思って志徒子の手を引こうとすると、逆に志徒子が和木の腕を掴み、引き留めた。


「さあ和木、どうぞ」


「え? どうぞって何?」


「訊くのよ。この会長さんに、あなたの疑問を。何。もしかしてあたしが代わりに話してくれると思ったの?」


 図星だった。ぐいぐいと腕を引っ張って、こんな何だかわからない場所に連れてきたからには、志徒子自身が交渉までやってくれるものだと思っていた。だが志徒子には、和木にかわって喋ってくれる気は全くないようだ。


 仕方ない。ここまで来たら自分でこのカマキリ男に訊くしかないか。だが一体、何をどう話せばいい? この部屋の眺めから察するに、相手は紛れもない変人らしいので、それを刺激しないようにと、和木は精一杯の下手口調で訊ねることにした。


「ええと、そのですね、タイムスリップという現象について教えてもらいたいと思いまして」


「タイム――何だって?」


 ぎょろり、と会長が和木を睨み付けた。どういうわけかさっきにも増して棘のある口調になっている。


「今君は、タイムスリップと言ったのかい?」


「え? あの、はあ」


「君はその言葉を、どういうつもりで言っているんだい?」


「どういうつもりって、いや、その、時間を飛び超えたりとか、そういう――」


「その説明だけじゃ、全然タイムスリップの要件を満たしていないッ!」だむ、と男は机を叩いた。思わず和木は背筋を硬直させた。


「なんなのだ! 時を越えれば何でもかんでも『タイムスリップ』と! 状況と目的によって時間旅行の呼称が異なるということが、想像できんのか? 『タイムトラベル』、『タイムトリップ』、『タイムリープ』、『タイムワープ』と、いくらでも言葉があるだろうに、それを一緒くたにして、全て『タイムスリップ』などと! 例えば君が車に乗って、箱根でも何でもいいが、好きな目的地に行ったとしたら、それは目的を持った『トラベル』だ。決して自分は箱根まで『スリップしてきた』などとは言わんだろう? そう思わないか?」


「は、はあ」


「SFの浸透と拡散などと言われて久しいが、何だ今の状況は。『スリップ』と『トラベル』の区別もつかないとは、概念の誤用にもほどがある! そんな輩と話す口も耳も、僕は持たん! 入会希望なんてこっちからお断りだッ!」


 別に入会希望などしていない、と言おうとしたとき、志徒子の声が聞こえてきた。


「あら、これ絶版になった海外SF傑作選じゃない」


 志徒子の指差す先、書架の一段と高い位置に、シリーズ物らしき白色の背表紙の文庫本が並んでいた。会長は途端に眼を見開き、


「何? 君はそれが何か知っているというのか?」


「もちろん。どれも名前通りの傑作揃いですよね。あたしとしては『時と次元の彼方から』が一番のお気に入りですけれど。あ、『クレイジー・ユーモア』も捨てがたいかな」


 にっこりと志徒子は微笑むと、「『タイムスリップ』の濫用、会長のおっしゃる通りですわ。ろくに考えずに言葉を誤用する輩の多いこと、嘆かわしい限りですよね」


 カマキリ男に浮かんだ怒りの表情が、こぼれんばかりの笑みへと変形していく。


「何だ。こんなに話のわかるお嬢さんがいるのじゃないか。ならばこんな馬鹿者ではなくて、あなたが僕と喋ったらいいのに」


「ごめんなさい。確かにこの人、無知なんです。でもどうしても自分で訊きたいって言ってきかないものですから。これから先も、会長さまがお怒りになるようなことを言うかもしれませんが、どうか話を聞いてやっていただけませんか?」


 和木はあっけにとられた。志徒子にSFの趣味があったなんて。そんな話一度も聞いたことがない。そして、馬鹿とか無知とか言われるのは面白くなかったが、男の怒りが一瞬のうちに消え去ってしまったのはたしかなようだった。心の中で志徒子に感謝をし、和木は男に訊き直すことにした。


「あの、そういうわけで僕は今、少しタイム――」


「時間旅行について訊きたいのだね」和木が最後まで言う前に、会長が言った。


「僕はこの研究会の会長である押尾という。面倒だが、お嬢さんのたっての頼みだ。君の疑問に答えていきたいと思う。お嬢さんの言うところによると、君は無知ということなので、話はなるべくわかりやすくゆっくりとすることにするが、それでもわかりにくいところがあるかもしれん。そこら辺は君の無知に免じて、勘弁して欲しい」


 さっきから散々馬鹿にされているのが気にさわるが、どうもここで納得したふりをしなければ話が進みそうにないので、渋々和木は頷く。


「ではまず、時間旅行というものを、様態によって分類していくことにする。まず第一に、タイムマシンを使った能動的時間移動だ。これはタイム・トリップやタイム・トラベルと呼ぶのがふさわしかろう。もちろんのこと、断じてタイム・スリップではない。第二は、ある特定の人物の強い願望や憧れが作用しての時間跳躍。あるいは個人的超能力の発露によるもの、と言ってもいいだろう。『レベル3』『ゲイルズバーグの春を愛す』などフィニィの短編群、筒井康隆先生の『時をかける少女』などが代表だ。『タイムリープ』という言葉が使われたりする。第三は、天変地異や事故、時震、地震ではなくて時が震える時震だ。それらによる、全く偶発的な時間移動だ。これがすなわち、本当の『タイムスリップ』というものなのだよ!」


 そこで再び押尾はテーブルを だむ、と叩いた。


「第四はゲート、つまりある特定の場所に開いた門を通ることによって、別の時間へと移動することができる、というパターンだ。こういった具合で、一口に時間旅行と言っても、呼び名には様々ある。それを何でも十把一絡げに『タイムスリップ』などと言う現在の風潮は――」


「あの」


 おそるおそる和木が割り込んだ。このままでは話がまた元に戻って繰り返しだ。


「『タイムスリップ』誤用についての現状は、とてもよく理解できたんですが」


「何かね。まだわからないことがあるとでも?」


 話を遮られて不快だったのか、押尾は大きく鼻腔を脹らませた。


「いや、その、何というか、僕が訊きたいのは、現実の時間旅行についてなんですが」


「何だ。それなら最初からそう言えばいいのに」


 お前が勝手に喋りまくっていたんだろうが、という言葉を和木はぐっと呑み込む。


「現在、科学者たちが研究の手すさびで書いたタイムマシンの製造法や時間旅行の可否などの本が多数出版されている。だがそれらはあくまでも思考実験、要するに遊びの粋を出ていない。なにしろ人類は未だ亜光速航行さえ実現させていないんだ」


「ええと、つまりそれじゃあ、時間旅行っていうものは、現実世界では――」


「決まってるだろう」何を今さら、という口調で押尾が言った。「現実の時間旅行なんてあるわけがない。絶対に無理なのだよ。君、そんな自明のことを真面目な顔で言っていると狂人扱いされるぞ」

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