7.和木の憂鬱
最近の和木にとって、大学はほとんど昼寝の場と化していた。
理由はバイトの入れすぎだ。春に父が死んでしまって高丘家は、一気に経済的に先行き不安になった。もちろん姉、菫の稼ぎもあるが、それだけに頼れるはずもない。自然と、和木もオーバーワーク気味になる。
ゼミ形式のような無理にでも起きていなければならないものを除き、それ以外の大教室を使っての授業は、毎夜のバイトによって削られた睡眠時間を補うための午睡の場として機能していた。
中でも猫のように背を丸め、感度の悪いマイクに向かってぼそぼそと喋るこの老教授の講義は、和木にとって極上のまどろみを約束するものだった。
しかしこの日は違った。窓辺に差し込む梅雨晴れの光も、絶妙のテンポで続く教授の声も、一向に和木を眠りに誘ってくれはしなかった。もちろん授業に耳を傾けていたのではない。繰り返し浮かび上がる、昨夜からの一連の騒動にまつわる想念に、頭の中をすっかり占拠されてしまっていたのだ。
「何一人で教室に残ってるのよ」
突然の声に和木は我にかえる。教室からは教授の姿も、他の学生の姿も消えていた。ただ一人、いつの間に入り込んできたのか橘志徒子が隣の席に座り、頬杖をついてこちらを見ていた。切りそろえた前髪の下にある勝気そうな瞳が、まっすぐに和木の眼をのぞき込んでいる。
「どうしたの?がらにもなく考え込んじゃって。昨夜も結局、電話返してこなかったし」
いつから隣にいたのだろう。澄んだ色の瞳に、少しばかりどぎまぎしつつ和木は、
「別に。何でもないよ」
志徒子は「そう? あんまりそんな感じには見えないけど」と言いつつ、和木の手元の机をとんとんと指で叩き、
「それにしても相変わらずねぇ。何にも書かなくっても一応ノートくらい机に出しておきなさいよ。大体この講義、テストはどうなってるの?」
「テストじゃない」和木は答えた。「夏休み明けにレポート提出しろってさ」
「枚数は」
「四百字詰めで十枚」
「十枚? 多いわね。和木、寝てばっかりいるくせに、大丈夫なの?」
「大丈夫だろ」ううん、と全身で伸びをしつつ和木は、「この授業の先生ってさ、講義の一番最初に『今回の結論』を喋っちゃう癖があるんだよ。俺、いつもそれを聞いてから眠るようにしてるからさ、つなぎ合せてカサ増やせば、十枚分くらいにはなるでしょ」
「全く要領がいいんだから」志徒子はあきれた声で、「来週から一斉に前期のテスト始まるけれど、そっちのほうの対策は大丈夫なの? 今年もバイト先でテスト休みをとらないつもり?」
「もちろん」和木は即答した。「休みなんてとるかよ。今家にそんな経済的余裕ないよ」
「じゃ、また『ノート借りまくり』ですか」
「そういうことになるな。まあ、そのために全部の講義に知り合いを作ってあるし」
へええ、と志徒子は息を吐くと、「全くもって大したネットワークを持ってらっしゃること」
「何。文句でもあるの?」
「ないわよ」志徒子はあっさりと言った。「凄い人脈力だってほめてるのよ。ただ――」
「ただ?」
「その能力の使い方は、みみっちいこと甚だしいわね」
「何だ。やっぱり皮肉じゃないかよ。言っておくけど、俺のテストに対する考えは――」
「はいはい、知ってるわよ。その一、優なんて狙わない。ぎりぎり単位を落とさなければそれでいい。その二、そのためには、どんな手でも使う。その三、いざテストに臨んだら、ぐずぐずとわからない問題に拘泥せず、わかるものだけ書いて、さっさと答案をあげて出てくる。この三つでしょ? 何回も聞かされたから承知してますって。それよりさ、そろそろ学食にでも行きましょ。おねえさんが和木の悩みとやらを聞いてあげるから」
「何だその『おねえさん』っていうのは」
「シスコンの和木への誘い文句よ」
「誰がシスコンだよ。気持ち悪いこと言うな。俺が姉貴嫌いだってことは、前にも話しただろ?」
「そういうのをシスコンって言うのよ」
文句を言おうと口を尖らした和木に向かって笑むと、「行くよ」と言って志徒子は立ちあがった。
志徒子は和木と同じクラスにして、友達以上の特別な関係、要するに彼女だった。
二人が言葉を交わすようになったのは、一年半前のテストシーズンからだ。とある授業の試験で、和木は例によってパスすれすれの内容で答案を書き終え、教室から出てきた。テスト開始から十五分もたたずに退出という「一番乗り」だった。そして二番目に出てきたのが志徒子だった。
「白紙で出したんじゃないわよね」
それが志徒子の和木に対する第一声だった。ちなみにその授業の成績は、和木が可で、志徒子が優だった。それから半年後、気がつくと和木は志徒子とつきあっていた。
万事において気が強い志徒子の性格によってか、二人の関係は、互いに歯に衣を着せぬ喋りを交わす、気のおけないものになっていた。さばさばとした関係を好む和木にとって、それは喜ばしいものだ。しかしそんな屈託ない仲であっても、和木は志徒子について、未だ知らないことがあった。それは志徒子の家に関することだった。
何でも鎌倉あたりにある、いいところのお嬢様らしい、ということは最低限の情報として同級生に伝わっていた。だがそれ以上のこととなると、和木も知らなかった。もちろん何度も訊ねたのだが、志徒子の操縦によっていつの間にか話題はそらされてしまった。
これは女友達に対しても同様らしく、そのためか「いいところのお嬢様云々」というのは、実は志徒子本人の口から出たでまかせなのだ、という意地の悪い噂まで流れていた。
もちろん和木はそんな噂を信じていない。志徒子には、裕福な家に育ったことを感じさせる振る舞いや雰囲気が、確かに備わっていた。ただ「いいところのお嬢様」の「いいところ」がどれくらいのレベルなのかまでは、和木にも見当がついていなかった。多少裕福な旧家程度なのか、それ以上の、例えば名の通った企業の娘などなのか。
しかしどちらにせよ、はるか天上人のような大金持ちということはあるまいと思っていた。そういう人は、そういう人たちのために創られた学校へ行くはずだ。
学食でカップのペプシを飲みつつ、志徒子に昨夜からの経緯を話した。自分の家のことを一向に語ろうとしない志徒子に、家の内情を打ち明けるのは、何だか不公平な感がなくもなかったが、結局和木は話してしまうことにした。話さずにはいられなかった。
昨夜から妙な侍男が家に来ていること。追い出そうとしたら自分から部屋を出て来て、挙げ句テレビを見て意味不明の台詞を喚きつつ昏倒したこと。それ以来姉はずっと侍男にかかりきりで、とうとう「この人は本物のお侍で、時を越えて現代にやって来たのよ」などと無茶苦茶を言い出すしまつ。
「そんなことを言ってないで現実的に考えろ。こいつはただの妄想狂だ」と和木が言っても、全然聞く耳を持たない。今朝なんてとうとう会社まで休んでしまった。そんなこんなの騒動のおかげで、和木はいつにも増して寝不足ぎみなのだ。
「それで?今そのお侍さんはどうしてるの?」
「そんなの知らないよ。今朝、学校に来る前に部屋のぞいたら、親父たちの仏壇を前にして正座してた。そのうち俺に気づいて、またわけのわからない言葉で詫びだか何だかを頭下げて喋りはじめたから、気味悪くなってすぐに家を出て来ちゃったよ」
「そりゃあ腹が立つわね」志徒子が言った「なにしろ和木、シスコンだから」
「またそれかよ。真面目に話し聞いてくれよ。こっちは大変なんだから」
「わかったわかった。そんなにむきになって反論しないの」いなすように言うと、志徒子は一転、真顔になり腕を組み、
「それにしても確かに困ったわね」
「だろ? 鈍くさい姉貴一人だけでも厄介だってのに、あんな変な輩まで家に転がり込んで来ちまって、俺は――」
「そうじゃないわよ」
「へ?」
「そのお侍が本物だったら、大変に困ったことよね」
和木はぽかんと口を開けた。次の瞬間、周囲の連中が振り向くほどの大声で叫んでいた。
「おおい! 何言ってるんだよ志徒子! 本物の侍? 映画じゃあるまいし、そんなことが本当にあるわけないだろ」
「あら、わからないじゃない。何事も頭から決めてかかっちゃ駄目よ。時間旅行っていうものがこれだけ散々物語の小道具として使われているのには、背景として現象の実在があるのかもしれないでしょう?」
「馬鹿らしい」和木は吐き捨てた。「時間旅行なんて無理に決まってるよ」
「まあ、意固地にならずにさ」そう言いながら鞄を取り、志徒子は立ち上がった。
「おい。どこ行くんだよ。話の途中で」
「訊いてみるのよ。その道の専門家に」志徒子は悪戯っぽく笑った。