4.まどろみ
友五郎は庭一面に咲いた紫陽花の前に立っていた。
梅雨の晴れ間の朝陽をあびて、無数の薄紫の花びらが露とともに輝いていた。我が家ながら見事な眺めだった。それともこれが見納めになるかもしれないと思う気持ちが、見慣れた眺めをいっそう美しく見せているのだろうか。そう、今日の梅の姿と同じように――。
「友五郎様」呼ぶ声に、彼は振り返る。そこには梅が立っていた。いつもの無邪気な笑顔ではなく、武家の娘らしい、凜とした表情を浮かべながら。
「お支度はお済みでございましょうか」
「うん。たった今済んだところだ」
「ならばお上がりください。兄上様はじめ、皆様お別れのためにお待ちでございます」
そんなかしこまった物言いをすることはないではないか。いつものように――と言おうとし、友五郎は口をつぐんだ。梅の眼が、潤みをおびていた。
もしや別れの辛さを隠すために、無理に儀式張ったふるまいをしているのだろうか。
「友五郎様」再び梅が呼んだ。
「何か」友五郎はまっすぐに梅の瞳を見つめる。
梅も真一文字に口を引き結び、まっすぐ友五郎の眼を見つめていた。決して泣くものか、という強い意志を感じさせながら。
「私は、友五郎様がお父上の仇を立派に討たれ、必ずご帰参されることを信じております。信じて、ずっとお待ちしております」
友五郎の眼の奥が熱くなった。今すぐここで抱きしめてしまいたい、という衝動が突き上がってきた。
「梅――」ついにたまらず、梅に手をのばした。だが、強くかき抱くはずの腕は虚しく空を切り、友五郎自身の身体に戻ってきた。梅の姿はどこにもなかった。それだけではない、紫陽花も、庭も屋敷もすべてが消え失せ、朝陽をあびていたはずの周囲はいつの間にか、闇色に染め上げられていた。
狼狽え、辺りを見渡した。異様な光景が取り巻いていた。
夜闇を突き破るように、百目蝋燭を一千倍にもしたような白い光が、中空で煌々と輝いていた。
周囲にはわずかばかりの樹木が生え、傍には狛犬ならぬ、得体のしれぬ獣を摸したような異形の石像が二つ、あたかも友五郎を呑み込まんとするかのように、大口を開けて座っていた。
樹木の向こう、遠くに視線をやった友五郎はさらに驚愕した。
ごうごうという風音を立て、数多の人魂が泳いでいた。赤青黄と、面妖な色をしたものもあり、空にぽっかりと浮かんでいる。さらにその上には、上野のお堂など比較するべくもないほどに途方もなく巨大な格子縞の行灯様のものがいくつも屹立し、頂上では地獄火のような禍々しい赤色をした灯りがちかちかと瞬いていた。
うう、と友五郎は呻く。「ここは、ここは一体、どこなのだ。梅は――弾正は――」
「――心配ありませんよ」
どこからか声がした。妙な節回しの喋りに違和感を覚え、友五郎の意識はわずかにまどろみの中から浮上する。
「――大丈夫、夢にうなされただけですよ」
また声がした。女の声だ。まどろんだまま、友五郎は薄目を開けた。薄明かりの中、天井の木目が見えた。その下で一人の、女らしき者の影が自分を覗き込んでいた。
ああ、梅か。友五郎は納得する。梅が看病をしてくれているのだ。するとここは常世か。己は既に三途の川を渡り、梅のもとへと辿り着いたのか。
友五郎は訊ねた。「ここは既に黄泉の国なのか?それがしは弾正に敗れ、ここへ――」
「大丈夫、少し気を失っただけですよ。ここは私の家。心配しないで横になっていてください」
気を失った? とすると自分は死んでいないというのか。なら弾正はどうした?
がば、と友五郎は身を起こそうとした。だが全身に力が入らず、また布団へと身を横たえてしまった。友五郎は唸った。
「無理しちゃいけません」また妙な節回しの喋り方で、女が言った。
「し、しかし」と言いかけたときだった。ぐう、と盛大な音を立てて友五郎の腹が鳴った。
しまった。仇討ちに挑んでの心身統一のため、朝から何も食物を口にしていなかった。
女はくすりと笑うと、「待っていてください。今何かお食事を持ってきますから」と言って立ち上がり、部屋から出て行った。女が出て行くと、急速にまた睡魔が襲ってきた。疑問を抱いたまま、友五郎は抗うことも出来ず、再びの眠りの中へと落ちていった。
襖の向こうから響いてくる声に、友五郎は再び目をさました。
「違うのよ和木。奥の間にいるのは、そんなのじゃなくって!」
「違う? 何がどう違うんだ。どっちにしろ姉貴の考えは同じだろ。男にふられたから、妙な生き物拾ってきて、寂しさを紛らわそうとしてるんだろ? そういうのに巻き込まれるのはごめんだって言ってるんだよ、俺は。同居人として!」
どうやら男女が諍いを演じているらしい。二人とも例の妙な節回しで、しかも早口で喋っているため意味が甚だ判じにくいが、友五郎をこの家に招じ入れたことに対して、邸の当主が腹を立てているらしいことは、推量がついた。
そのうち、引き留める女を男が振り切ったらしい。乱暴な足音が近づいてきた。友五郎が満身の力を振り絞って布団の上に起きあがり、居住まいを正したのと同時に、襖が勢いよく開かれ、その向こうに一人の影が姿を現した。
男は背後からの灯を背に、少しのあいだ無言でそこに立ちつくしていたが、やがてひときわ大きな声で叫んだ。
「――に、人間かよ!」