38.終幕
寅田元吾郎が上段にかぶった剣を振りおろすと、八鳥幻丈鹿毛長はもんどりうってその場に倒れ伏した。
ツケの音とともに元吾郎役の役者が見得を切ると、客席から拍手と歓声があがった。
続いて場面は、今際の際にあたっての、弾正――ではなく幻丈の、悪から善への改心の台詞へと移っていく。
「なんかこれって、あり得なさそうな展開だなあ」和木の隣で、大が呟いた。
「そうそう」和木は頷いた。「弾正が心を入れ換えるなんて、とても想像できねえよ。あの極悪人は、最後の最後まで、悪事はたらいて生き延びる方法を考えていそうだ。こりゃ、間違いなく作家の脚色だな」
「うるさいわねえ」後ろの席から志徒子の注意が飛んできた。
「他のお客さんに迷惑でしょう?」
和木は大とともに、首をすくめて黙る。菫はそんな和木たちの様子を見て、志徒子の隣で声を出さず笑っている。
ほどなくして舞台では幻丈の台詞が終わり、今度は友五郎――ではなくて、元吾郎と黄泉の国からやって来た助太刀、鷹桜加頭王丸との別れのシーンがはじまっていた。
感謝の言葉とともに、元吾郎は深々と頭を下げる。
ふいに、和木の眼の奥が熱くなった。下を向き、指で涙をぬぐおうとすると、すいと後ろからハンカチがさしだされた。
振り返ると、菫が笑っていた。よく見ると和木と同じように、眼に涙を浮かべている。
和木は黙ってハンカチを受けとった。
自然と笑みがこぼれた。
発見したのは、志徒子だった。
友五郎が去って数日経った日の夜。和木がバイトから戻り、そろそろ寝ようとベッドに横になったとき、枕元で携帯が鳴り響いた。
出るといきなり、志徒子のひどく興奮した声が耳に飛び込んできた。
「歌舞伎なのよ! 見たことのない演目なのよ。和木なのよ!」うわずった声で志徒子は繰り返していた。
なだめるようにして話を聞くうち、志徒子の言わんとすることが見えてきた。
要はこういうことらしい。
志徒子は毎月一度、母親と一緒に歌舞伎を観に行く。
今月十月の観劇に先立って、演目をインターネットで確認していた志徒子は、劇場の公式サイトに、見慣れない芝居の名があるのを発見した。
<黄泉之鷹桜江戸道行>
首を傾げつつ、インターネット上の百科事典、ウィキペディアで調べてみると、こんな解説があらわれた。
黄泉之鷹桜江戸道行『よみのたかおえどのみちゆき』
出典――フリー百科事典『wikipedia』
歌舞伎の演目の一つ。作者不詳。寛保四年に初演。全五段からなる人気狂言。
あらすじ――悪逆無道にして稀代の美男、八鳥幻丈鹿毛長に父を殺害された寅田元吾郎は、幻丈を追って仇討の旅に出る。
長年の追跡の末、角筈村で幻丈を待ち伏せた元吾郎は、死闘のあげく返り討ちに遭いそうになる。が、あわやというとき、護符の力によって命をつなぎとめ、常世へ飛ばされる。
その後、元吾郎は黄泉の国の超人、鷹桜加頭王丸とともに現世に戻り、加頭王丸の助太刀のもと、幻丈を倒し、本懐を遂げる。
「これって絶対に、友五郎さんの仇討を元にしたお芝居よ」志徒子はそう力説した。
なんでも志徒子によれば、こうやって実際にあった事件を元にして、登場人物の名前をもじって芝居にするのが、歌舞伎の世界ではポピュラーなことなのだそうだ。
確かに幻丈=弾正、元吾郎=友五郎という響きは似ていないこともない。ただ、高丘和木が鷹桜加頭王丸というのは、ちょっともじりすぎだと思うが。
それから、友五郎が帰ったのが寛保三年。この芝居の初演が寛保四年ということで、時期的にも符号するのだという。
ともかく観てみなきゃ、という志徒子の力説に負け、和木は菫、大とともに志徒子に連れられ、生まれて初めての歌舞伎鑑賞にやってきたのだった。
別れの儀式を終えた鷹桜加頭王丸が花道を大股で歩きながら舞台から離れていくと、満場から大きな拍手と掛け声が役者に向けて起こった。
和木たちも、花道の途中で見得を切っている鷹桜役の役者と、舞台に残りそれを見送っている元吾郎役の役者に、拍手を送った。
芝居を見終え、歌舞伎座から外に出た和木は、ううん、とうなりつつ大きく背を伸ばした。見ると隣で大も同様に背を伸ばしていた。
「いやー、初めて観たけどやっぱり難しいねえ。歌舞伎っていうのは」
「全くだ」大の台詞に和木も賛成する。すると顔をにやつかせながら志徒子が近づいてきて、「そんなこと言って。二人とも、実はこっそり泣いてたくせに」
「な、何言ってるんだよ」和木は思わずどもった。「別に俺たちは泣いてなんかいなかったよ。なあ、大?」
だが大は頷かなかった。そのかわり照れくさそうに、心持ち赤くなった眼で、へへ、と笑ってみせた。
「ほらみなさい。大くんは正直に白状してるよ」
「うるさい」和木は苦笑し、話の矛先を変えた。「お前らさ、今日はこれからもう用事ないんだろ。だったら俺ん家に来て、飯でも食わないか」
JR新宿駅南口を出て、甲州街道を行く道すがら、志徒子が思い出したように言った。
「あ、そうだ。この間、駅で弾正の似顔絵が貼ってあるのを見たわよ」
「あ、それ俺も見た」大が声をあげた。「交番の掲示板に貼ってあった」
「全国一斉指名手配か。今からやっても意味ないのにな」
「まあ、しかたないわよ」志徒子が言った。「まさか、犯人は過去に戻って、仇として討たれちゃいました、なんて教えてあげるわけにもいかないしね」
「そうだな」和木は頷き、「ていうかさ、俺、もう当分警官とか刑事とかと関わり合いになりたくないんだけど」
「そうね、あたしもそうよ」志徒子も大きく頷きながら言った。
友五郎が去った後の皆の最初の仕事は、行方不明の大の居場所探しだった。
それはわりとすぐに解決した。大は、猿田彦神社の前の道を奥に行ったところに、手足を縛られ、猿轡をかまされて、ぶざまに転がされていた。
大を解放してやった後、関心は弾正が落としていった銃のほうへと移った。
大は震え声で、そんな物騒なもの、そのままここに置いて逃げよう、と強く主張した。こんなものに関わると、ろくなことにならない、と。
その通り、ろくなことにならなかった。
遅かれ早かれ、拳銃は誰かに発見される。警察は当然、付近にいた者を捜すだろう。
ならばいっそのこと、自分たちが発見者であるかのように申し出てしまったほうが、疑いを持たれずにすむのではないか――、
という志徒子の提案に従ったのが、面倒のはじまりだった。
電話をしてから、パトカーがやってくるまでは、瞬く間のことだった。和木たちはあれよあれよという間に品川署に連れていかれ、なぜあの場所にあのような時間にいたのか、そこで何をしていたのか、と何度もなんども繰り返し、一人一人別々に問いただされた。
和木たちは、グループでデートをしていて、ただふと立ち寄っただけだ、と言い張った。
後で知ったことだが、尋問がしつこかったのには、道着姿に弓矢という志徒子のいでたちが、原因として大きかったらしい。まあ、考えてみれば当然のことだ。あんな恰好でデートをする人間なんて、普通いない。
長い聴取から解放され、やっとのことで家に帰りついた翌朝、和木がテレビをつけると、画面ではアナウンサーが、品川神社で発見された拳銃から、杉並一家三人殺害事件のものと同じ指紋が発見された、と報じていた。
また、練馬区のアパートの一室で、一晩中壁を蹴るような音がするのを不審に思った隣人が通報し、結果、全身を縛られ、後ろ手に手錠をかけられた若い男性が発見された、というニュースも同時に伝えていた。
その後の調べの結果、手錠は拳銃同様、失踪警官のもので、床下から件の警官と、その部屋の本来の住人である男性の遺体が発見された。
そして犯人――弾正の顔を唯一その目で見た被害者男性の証言によって、似顔絵が作られ、全国に公開され今に至った、というわけだ。
「でもさあ、警察も大変だよな」大が言った。「尋問されたときは、なんて嫌な奴らだろうって思ったけどさ、あいつら、いくら頑張っても捕まえられない犯人のことを、これから先もずっと追いつづけなきゃならないわけだろう。そう考えると俺、少し同情しちゃうよ」
「たしかにな」和木は同意した。そう考えれば、警察の連中のことを思い出しても、あまり嫌な気分にならずにすみそうだ。
「そういえば――さ」と志徒子が訊いてきた。「和木、あのこと考えてくれた?」
「何だ、あのことって」
「はぐらかさないでよ」志徒子が横から小突いた。
「ああ、俺へのプロポーズのことか」和木はわざとにやけつつ言ってみせた。
「考えてみたよ」
「あ、そう。で、答は出たわけ?」照れているのか、志徒子はぞんざいな口調だった。
「今、俺は橘の家に入ろうとは思っていない」
「あ、ああ、そう。そうだよね」一気に脱力したような声で言って、志徒子は下を向いた。
「でも今のバイト先に、そのまま就職しようとも思わない」
「えっ?」志徒子が顔を上げた。和木は志徒子の眼を見つめながら、ゆっくりと言った。
「残りの学生生活使って、探してみたいんだ。自分の力で、俺のことを必要としている場所を。志徒子には、俺が『俺のつとめ』を探し終えるまで、待っていて欲しい。それで」
「だめよ」志徒子が遮った。
「そんな面白そうなこと、和木ひとりでなんてさせない。あたしにも一緒にやらせなさい」
スーパーで食材を調達した後、高丘家へと向かった。
歩きながら和木は、ふと不安に襲われた。芝居を観ている間は忘れていたが、それはあの日の翌日からずっと、今に至るまで和木の胸にとりつき、離れないでいる不安だった。
あの夜。品川署にて。荷物検査と称し警察官にバッグの中身を目の前で洗いざらい改められた志徒子は、その中に確かに保管してあったはずの瓦版が、跡形もなく無くなってしまっているのに気がついた。
賢明なことに志徒子はそのとき、驚きを警察官の前で一切現わさなかった。そんなことをすれば、さらなる疑惑の目を向けられてしまうであろうことが、瞬時に想像できたからだ。
そうやって、その場は上手く切り抜けられた。だが、友五郎の行く末を知る頼みの綱である資料の消失という現実は、後にそれを聞かされた和木の上に、少なからぬ不安を投げかけた。
仇討が成就すれば、瓦版の表記も変化するだろう。友五郎の存命を証明するような内容へと自然に書き換えられるだろう――と、彼はすっかり思い込んでいたのだ。
だが、その予想は裏切られた。瓦版は書き換えられるのではなく、存在自体が消滅してしまった。
――歌舞伎の内容が仇討の成就を証明しているじゃない――
思い悩む和木に、志徒子は言った。
だが彼はどうしても、不安を完全にぬぐい去ることができないでいた。
「黄泉之鷹桜江戸道行」という芝居は、過去の改変によって新しく出現したものなどではなく、志徒子が今までたまたま知らなかっただけの、本当は以前からある演目なのではないだろうか。今回の一件と似たような筋書きや役名も、単なる偶然の一致にすぎず、それをもって友五郎の仇討成功の決定的証拠であると言い切るのは、無理があるのではなかろうか。
志津子自身もそうだ。あたかも友五郎健在を示す重大発見を得たかのようにはやしたてることによって、実は自らも完全には取り去ることのできないでいる不安を、無理にごまかそうとしているだけではないのだろうか。
考えるうち、和木はしだいに言葉少なになっていった。和木の内心に気づき、自らも不安になってしまったのだろうか。歌舞伎を観終えてからずっと、はしゃぎ気味だった志徒子もまた、寡黙になっていった。
二人して無言のまま、家の門の前までやってきたときだった。
先頭を歩いていた菫が、いきなり立ち止まった。
何かと思い、菫の背後から門の内側をのぞき込む。
デニムのショートパンツに、アッシュグレイのジップアップパーカ姿の、中学生くらいの少女が、玄関先に座り込み、下を向いて携帯をいじっていた。
誰だろうと囁きあいながら見ていると、視線に気づいたのか、少女が携帯から顔をあげ、こちらを見た。
和木たちは、いっせいに息を呑む。
忘れもしない、特徴的なくりくりとした団栗眼が、そこにあった。
少女は、ええっと、と言いつつ立ち上がり、ぺこりと頭を下げると、
「はじめまして。栃木から来ました、寺田です」
そう言って、はにかんで笑った。
「寺田、向日葵っていいます」
(了)
完結しました。
十何年か前に書き上げた作品の分割掲載です。
一番はじめのタイトルは「ほんとうのさよなら」、次は「向日葵の咲く庭で」でした。
今回は「なろう」に掲載ということで、一目見て内容が理解できるようなタイトルをつけてみました。
この作品には、小説すばる新人賞(それとも小説現代だったかな?)の二次で落選してしまったという過去があります。
自信があった作品なので、当時はかなりがっかりしましたね。ううう。
さて、内容はいかがだったでしょうか? 感想をいただければ、励みになりますので、ぜひぜひ。
また数日したら、別の長編作品の連載をはじめるつもりです。
参考文献
仇討を考証する 旺文社文庫 稲垣史生/著 旺文社
江戸の宿場町新宿 同成社江戸時代史叢書 安宅峯子/著 同成社
新宿区の歴史 東京ふる里文庫 新宿の歴史を語る会/著
東京にふる里をつくる会/編 名著出版 品川区の歴史 東京ふる里文庫 品川区文化財研究会/文
東京にふる里をつくる会/編 名著出版 江戸東京・街の履歴書 巻次3 班目文雄/著 原書房
大江戸ぶらり切絵図散歩 時代小説を歩く 縄田一男/著 PHP研究所
江戸の大変 天の巻 平凡社
歌舞伎 ことばの玉手箱 赤坂 治績/著 有楽出版社
パラノイアに憑かれた人々 上 ロナルド・シーゲル/著 小林 等/訳 草思社
詳説日本史 改訂版 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦/著 山川出版社




