36.罠
「だ、だぁ、駄目だこりゃ」
手を膝にあて、かがみ込みながら大は言った。
たった数ブロック全力疾走しただけで、これほど息があがるとは。ステージ上を所狭しと駆けめぐらねばならないヴォーカリストとしては、ゆゆしき事態といえた。
体力増強のためにと思って、最近店番を多くこなすようにしていたが、あれは効果薄だったようだ。上半身と腰は鍛えられても、脚力はあがらない。いつのまにか運動不足になってしまっていた。
ようやく息がおさまった大は、身体を起こして前を見た。
大きな鳥居が立ち、そこから品川神社本殿へと向かう階段が続いていた。
やっぱり、逃げたと思われただろうか。大は胸の中で独り言つ。
でもいいや。そんなことは。
実のところ、大が品川神社に来たのは、これが初めてではない。計画が具体化したときに、すでにじっくりと下見をすませてあった。和木に言った、「初めて来るから云々」というのは、あの場を立ち去るためのただの方便にすぎなかった。
大が菫と友五郎の「いい場面」に立ち合わなかったのには、彼らへの嫉妬もないわけではなかった。
だがそれは全体としてはわずかなもので、両人に自分の存在を気兼ねさせずに、別れのときを過ごしてほしい、という心遣いの方がより多く、いや、心のほとんどを占めていた。
今、大には悔しさはなかった。そのかわりに、とびきり出来のいいライブを終えたときのような、不思議な高揚感が心に満ちていた。
「さて、行きますか」そう言うと、大は階段をのぼり始めた。
和木の立てた作戦のあらましはこうだった。
まず、一番の美形であると皆が言う大が、夜目にも目立つように顔を白くして、階段の頂上に立ち、弾正の到着を待ち受ける。
男色で色白好みの弾正がそれに釣られ、警戒をゆるめて階段をのぼってきたそのとき、大の前に潜んでいた菫が、階段頂上に鎮座する狛犬の片方に結わえてあった登山ロープを、全力で引っ張る。
足下に突如としてあらわれたロープに不意を突かれ、弾正は身体ごと前のめりになって倒れ込む。
それを合図として、周囲の灯籠の影に隠れていた和木が駆け寄り、大とともに、弾正の急所に、幾度もスタンガンによる攻撃を加える。
弾正の身体が想像を越えて屈強で、スタンガンの効果が低いときは、奥の鳥居脇に隠れていた志徒子が、中学時代からの腕を持つ弓でもって、遠距離攻撃を行なう。
場合によっては、奥の本殿で待機している友五郎に出動させ、峰打ちによる応援を頼むかもしれない。
これら攻撃によって弾正が動きを止めたらば、全員でもって奴に縄をかけ、完全に身体を封じる。
あとは時間移動のときを待てばいい。
初めてこの作戦と、自分の役割を和木に聞かされたとき、大は自分がからかわれているのかと思った。
よりによって、自分が連続殺人鬼に対する囮になるなんて。しかも化粧までさせられて。
だが、本番を間近に迎えた今、大は自分の役目を光栄に思っていた。
確かに昨夜、和木が言ったとおりだ。自分はこの作戦の要だ。自分が釣り餌となることで、友五郎の運命を変えることができるのなら、多少の危険や、嫌いなビジュアル系みたいな化粧なんて、安いものではないか。
進んでこの役目を受けよう。友五郎には、寛保での生を無事全うしてもらおう。きっとそれが、菫にとっての喜びにもつながるはずだ。
「よっしゃ。やってやるか。来るなら来い、弾正め」
階段の中ほど、朱色の灯籠が立つ踊り場で立ち止まり、気合いの言葉をつぶやいたそのときだった。
左手で、誰かが土を踏む音がした。
驚き、大は横を見た。
階段踊り場に、もう一つの小さな祠、猿田彦神社の鳥居があることは、以前の下見で見つけて、知っていた。そのときは、階段の上と下、二つの大きな鳥居にはさまれて、こんな小さな別の鳥居が設けてあることに、何だか不思議な感覚を覚えたものだったが。
その鳥居の下に、一人の男が立っていた。
百八十センチ近い長身。真っ白な顔に赤い長髪。白木の長い杖。
――だ、弾正!
瞬間、大の全身を電流がかけぬけた。
その場所に立っていたのは、友五郎から幾度も聞かされた、服部弾正景直その者の姿をした人物だった。
男は、ジーンズの尻ポケットから黒光りする鉄塊――拳銃を取り出すと、ゆっくりとそれを大に向かってつきつけ、低い声で言った。
「これが何だかわかるな?寺田の手の者よ」




