34.幻影
急いで会社から駆けつけたせいか、あるいは友五郎との別れをいよいよ明日に控え、心に込み上げるものがあるからだろうか、現れた菫の頬は上気したように赤く、瞳もうるんでいた。
どうぞどうぞと言いつつ、大が卓袱台の前から部屋の隅へと退くと、にこやかに礼を言って、菫がそこに腰をおろした。続いて部屋の入口近くに着流し姿の友五郎が座るのを見てから、和木はおもむろに口を開いた。
「じゃあ、明日の本番に向けて、これから最後の作戦会議を開くから」
先ほどまでと一変して張りつめた雰囲気の中で、「会議」は進んでいった。
作戦の骨子は、和木が中心に、志徒子、友五郎と相談して詰めてあった。以前にも何度か全員で集まり、そのたびに内容報告をしてあったので、今回はそれらを改めて述べ、細部の確認をするのに話は終始した。
「というわけで、各人の役割は確認した通りだ。大ざっぱに言えば、大が囮役。姉貴はトラップの設置と実行。志徒子と俺は追い打ちと捕縛。そして主役の友五郎はタイムトラベルの時刻まで待機。もしも弾正の抵抗が激しければ、峰打ちで追い打ちをかける、という段取りだ」
そこで和木は一度言葉を句切ると、友五郎の眼を見つめた。
「いいな? 友五郎。俺は侍じゃないから、こうやってどんどん卑怯な手を使っていくぞ?」
「異存ない。和木どの、そして他の皆にも、ただただ感謝をするばかりだ。それに、これくらいの策を使うのは、過去の幾多の仇討にもあったことだ」
そのときだった。部屋の隅から大の気弱げな声が聞こえてきた。
「あ、あのよう、俺、本当にそんなことすんの?」
「何言ってるんだ。お前がこの作戦の要だって、前から散々話してきたじゃないかよ」
「そんな、俺、冗談だと思ってたよ、こんな妙な役割」
「いいか、大」和木は辛抱強く、なだめるように言った。「お前は冗談だと思っていたかもしれないが、俺はずっと本気だった。この役ができるのは、お前しかいない。適任なんだ。頼む。言うとおりに振舞ってくれれば、絶対に怪我一つさせない」
救いを求めるように、大は部屋を見渡す。いつの間にか友五郎は大に向かって平伏をしていた。菫は心配そうな表情で、座を見守っている。
「わかったよ」溜め息を吐きつつ、大が言った。「観念したよ。自信ないけど、お前の計画通りにやってみるよ。そのかわり、和木」
「何だ?」
「うまくいったら、またライブに、友達沢山連れてきてくれよな」
大の承諾を潮に、会議は一応解散となった。
友五郎は皆それぞれに礼を言った後、再び庭に出て、木剣を手にした。窓からは和木と志徒子の話し声が漏れ聞こえている。熱心な二人のことだ。明日の段取りをさらに詰めているのだろう。
友五郎は二人に感謝の念を抱きつつ、木剣を構えると、いつものように眼を閉じ、精神を統一した。
程なくして、周囲の音が消え失せた。
和木たちの声も、外を走る車の音も、もう聞こえない。
自らのつくりだした、一切の光と音が遮断された空間に、今、友五郎は立っていた。
やがて闇の中、青白い光が渦巻きはじめた。
ぼうっとしていたその光は、やがて人の形となり、鯉口を切り、仕込み杖を居合いに構えた一人の男の姿となった。
弾正だ。
友五郎は青白く光る弾正の幻影と、剣を構え、向かい合っていた。
友五郎の胸中に、今までに積み上げられた数多の感情が巻き起こった。
それら全てを受け流し、友五郎はただひたすら、弾正の動きを待つ。
時が流れる。だが弾正はぴくりとも動かない。
友五郎の心を、次第に焦れが浸蝕していく。
瞬間、友五郎は、渾身の力を込め、剣先を弾正の喉元めがけて突き出していた。
だが、剣先は弾正に届かなかった。
友五郎が身を動かした寸刻前に、弾正の姿は煙のように正面からかき消えた。
気づいたときには、真横から自らの喉元に、深々と弾正の剣が突き刺さっていた。
また負けた。幾たびこうやって、奴の幻影に止めを刺されたことだろう。
友五郎は強く奥歯を噛み締める。どのようにすれば、弾正を討てるのだ。
和木は確かに、弾正の無力化を約束してくれた。自分ももちろん、その約束に感謝をしているし、信じている。だが、相手はあの服部弾正景直だ。いかなる悪知恵を使って、和木の仕掛けた罠の、そのまた裏をかいてくるかわからない。
そして何より、寛保に戻ってからは、自分たった一人で、仇討ちを果たさねばならない。あの瓦版に書かれた運命に逆らって。
失敗は許されない。亡き父ためにも、弾正の刃にかけられた、名も知らぬ多くの者たちのためにも、菫のためにも。
そう自らに言い聞かせ、この数日間、ひたすら鍛錬を続けてきた。
眼を閉じ、今まさにそこに弾正がいるよう脳裏に思い描く。
しかし口惜しいことに、弾正に勝てたことは、未だ一度もなかった。果たし合いは、もう明日だというのに。
またぞろ足元から這い上がってこようとする焦りを抑え込み、友五郎は剣を構え、眼を閉じた。
ほどなくしてまた、弾正が目の前に現れた。
先ほどと同様、奴は居合の構えで立ち、自らはぴくりとも動こうとしない。
どうして奴はあれほどまでに強いのだろう。生まれながらの才か、鍛錬の成果か、それとも今まで手にかけた者の多さゆえか。
ふと心に入り込んだ疑問に、友五郎は奴の立ち姿から、顔――表情へとその目を向ける。
たちまち弾正の身体が動き、またしても友五郎は奴の刃の餌食となっていた。
だが心に、先ほどのような落胆はなかった。胸中で確かな、まだ何ものとも言えないが、勝機のようなものの感触を覚えていた。
友五郎は再び木剣を握り直し、両の眼を閉じた。




