33.前夜
「あのさ、これ本当に届いてるの?」
手に持った「果たし状」をひらひらと振りつつ、大が訊いた。
「届いているわよ。絶対に」卓袱台いっぱいに広げた、品川の地図に書き込みを入れつつ、志徒子が答えた。
「届いていなければ、果し合いは起こらない。果し合いが起こらなければ、瓦版に書かれた内容と矛盾が生じちゃうでしょ?」
志徒子は地図を睨んだまま、大の前へと瓦版を押しやった。ふうむ、と言いつつ、大はそれを手に取り眺める。
和木は言った。「因果律にしたがうなら、その矛盾を解消するため、瓦版になんらかの変化が生まれるはずだ。でも今のところ、何も起こってない」
「そういうことね。でも、明日の深夜ごろには、瓦版は見事に書き換わっているはずよ。友五郎さんが弾正を討ったっていう内容にね」そう言うと、志徒子はようやく地図から顔を上げ、にっこりと笑んだ。
「ああ、それからね。弾正に送ったメッセージは、新聞折込みだけじゃないの。小さいサイズのビラを作って、練馬の全世帯に投函させたし、駅前ではミニスカートのパチンコ店員に混ざって、文書入りのティッシュをアルバイトに配らせたわ」
「そんな手まで使ったのかよ」和木は驚く。徹底してやるから任せて、とは言っていたが、そこまでとは思わなかった。だが考えてみれば、いかにも志徒子らしい。
などと思っていると、隣で大が、ほーっという声とともに、「すげえ、やっぱり親が金持ちだと、やることが違うよなぁ」などと失礼な台詞を、無邪気に言ってのけた。
「ところがそうでもないらしいぞ」和木は言った。「バイトして貯めてた金で全部をまかなったって俺は聞いたぞ」
「ええ?そうなの?」
「そうよ」あっけらかんと志徒子が言った。「あたしのバイト歴は長いわよ。何しろ小学生からだもの」
「すげえ。それじゃ俺の店番歴より長いじゃん。一体何をやってたの?」
「お掃除よ」
「へ?」
和木が答えた。「こいつの家の檀寺の掃除をやってきたんだってさ。小学生のときからずっと、小僧みたいにさ。ともかく境内がだだっ広くて、大変だったらしい」
「本当よ。素手で雑巾がけなんてさせるから、冬なんかもう、手があかぎれだらけになって困ったわよ」そう言って志徒子は卓袱台の上で両の手指を広げた。まだ寒い季節でないせいか、ネイルをしていない小さい指は白く綺麗で、荒れた様子は全く見あたらない。
「ふうん。バイトを雇うなんて、面白い寺もあったもんだな」
「最初は無償ボランティアだったのよ。でもどうしてか、ご住職があたしのこと気に入っちゃって、バイト代をくれるようになったの」
「へええ」大が心底驚いたような声をあげた。「でもさ、思い切ったことするよなぁ。志徒子ちゃんも。今までそうやって貯めた金をぱっと使っちまうなんて、俺にはとてもとても無理だよ」
「元々いざというときに使おうと思って貯めてたお金よ。今がそのときだと思ったから、使っただけ」
事もなげに言って、志徒子は肩をすくめた。
練馬のアパートに潜伏する弾正が、「果たし状」を目にしたのと同日の夜、和木たち一同は奥の間に集まり、最後の「作戦会議」を開いていた。
もっとも今現在、奥の間に集まってきているのは和木に志徒子、そして大だけだ。菫は未だ会社で、友五郎はその帰りを待つ間、庭で木刀の素振りを延々と続けている。
「あの、俺、思ったんだけどさあ」言いにくそうに口ごもりながら、大が言った。
「さっき言ってた因果律とやらにしたがえばさ、その、死ぬはずだった人が生き残っちゃったりして、後の歴史が変わってしまったりたりしないのかな」
「それは、私にもわからないわ」志徒子が口を開いた。
「過去改変の影響がどこまで広がるかを考え出したら、きりがないわよ。やってみなければわからない。そうね、生き残っても、後の歴史にさほどの改変は起こらない――友五郎さんがそういう人物であることを祈るだけよ」
「それってつまり、友五郎さんが歴史に影響を与えるほどの偉人じゃありませんように、っていうこと?」
「まあ、そういうことになるわね。勝手な希望だけれど」
「それにしてもさぁ」畳の上に横たえていた身を起こすと、再び卓袱台の上の「果たし状」を手に取り、大が言った。
「これってさぁ、一体どんなことが書かれてんの? 俺には全然わからないよ」
相手が和木なら、ここですかさず「あなた、そんなのでどうして日本史なんか専攻したのよ」という言葉を投げつけたのだろうが、相手が大ということで志徒子は寛大に笑うと、「果たし状」の要旨について、語って聞かせた。
「我とともに白光に包まれ、寛保の世からこの異界へと飛ばされし者よ。この地においてのそなたの蛮行、今までに犯せし幾多の所行に勝るとも劣らぬ悪行なり。我は天命に従い、そなたを誅することを改めて決心す。白面にして紅毛の者よ。未だ廉恥の欠片あらば、我の申出を受け、我の前に姿を現わせ。場所は品川稲荷。時は明日、八月二十二日戌の刻なり」
「え? 何で八月二十二日なの? だって作戦日って明日でしょ? 明日は十月九日じゃない」
「寛保三年の暦、太陰太陽暦で数えていくと、明日は十月じゃなくて、八月二十二日になるんだ」和木は言った。「友五郎が言うには、弾正は相当にまめな奴らしい。現代に来ても、まず間違いなく、昔の暦も勘定していることだろう。だから、あえて寛保の暦の日付を使って書くことで、弾正は明らかにこれが自分に宛てた書状だと理解するし、逆にそんなことなんて何も知らない一般の人たちは、この文面を悪戯、もしくは妄想狂の手による戯言だと思うだろう」
「あるいは、変な宗教団体のチラシかも、とかね」志徒子の言葉に和木も頷き、
「そういうことだ。つまり、弾正だけに理解されることを狙った、一種の暗号文だな。これは」
「まあ、友五郎さんの書いたこの文字を読める人自体、とっても少ないだろうから、その意味でも充分に暗号になっていると思うわよ。和木が考えたにしちゃ、よくできた作戦よね」
なあるほどねぇ、中々やるじゃんか、と感心したように大が頷いた。
「で?この『戌の刻』っていうのは何だっけ?ええと、確か作戦開始の夜十時のこと?」
「違うだろ」和木は露骨に顔をしかめた。「俺たちの作戦は六時半からって、昨日も説明しただろう。お前、聞いてなかったのかよ?」
「あ、ああ、悪い。そういやそうだったっけな」和木の勢いにたじろいだのか、大は銀色の頭に手をやった。
「十時は『亥の刻』。瓦版に書いてあった、友五郎と弾正の時間移動の予定時刻だ。しかも昔の時刻表現、不定時法だから、全然正確じゃない。せいぜいが、『今の時計で十時あたり』くらいまでしか見当をつけられない。そんな状態なのに、時間ギリギリに作戦始めて、途中で友五郎も弾正も一緒くたになって過去に飛ばされたら、せっかくの計画が全部パーになっちまうだろうが。だから弾正を呼び出す時刻は『戌の刻』、夜八時。もちろん俺たちはそれよりも早く現地に行って、奴を待ちかまえなきゃならないから、作戦開始時刻は六時半だ。おい、理解したか?」
「わ、わかったよ」大はへどもどしつつ、「いや、ちょっと度忘れしちまっただけだよ。だからそんな、まくし立てるなよ」と言い、ふう、と息を吐いた。
「全くよう、お前この作戦組み始めてから、人が変わったみたいにびしばし仕切るようになったよなぁ。正直、ときどき恐いぜ。俺は」
「当たり前だろうが」未だ怒気を含んだ口調で和木は言った。「何しろ相手は今までに何人斬っているか見当もつかない、正真正銘のサイコパスだぞ? 適当にやってて気がついたら巻き込まれて、結果、『仲間死んじゃいました』じゃ全然洒落にならねぇよ」
「いや、お前そんな物騒な表現しなくても」と、大が喋りかけたとき、廊下から友五郎の太い声が響いた。
「和木どの。姉上が帰ってこられた」




