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32.なめくじ

 朝の屋内に響きわたったチャイムの音に、節子はぴくりと背筋を震わせた。


 こんな時間にやって来るなんて、またあの連中だろうか。


 湧いてくる緊張をなだめつつ、味噌汁を温めていたコンロの火を止め、壁のインターフォンへと向かう。


 息を整えてから、挑むような心持ちでゆっくりとボタンを押すと液晶ディスプレイが点灯し門の前の様子が映し出された。


 ジャンパー姿の中年男が立っていた。


 はい――という節子の返答を待ちかねていたように、男は挨拶抜きで自分の台詞を喋り始めた。


「すいませーん。お宅、新聞何をとってます?」


 その瞬間、節子は全身の緊張を解き、安堵の息を吐く。「あの連中」ではなかった。ただの新聞勧誘員だ。


「新聞なら、うちは間に合ってますから」


 ぶっきらぼうに言うと、節子はインターフォンを切り、キッチンへと引き返した。


 今頃になって起きてきた夫の英二がパジャマ姿に寝癖のついた頭のまま、部屋の入口に立ち節子に声をかけた。


「何だ。またあの連中か? 日曜だっていうのに、こんな朝っぱらから――」


「違うわよ」節子はつっけんどんに夫の言葉を遮った。「新聞勧誘員よ。それと、自分は応対もしないで寝てたくせに、文句を言うのは止めて」


 英二は少しく同じ場所に立ったまま抗議らしきものを呟いていたが、節子が全く相手をする意志がないのを悟ったらしく、背を向け、肥満気味の身体を揺らしながら洗面所のほうへ行ってしまった。


 節子は再び鍋に火をかけ、心から思う。


 よかった。マスコミの連中でなくて。全く、やつらには腹が立つ。姉が殺された直後などは、それこそ早朝から深夜まで入れ替わり立ち替わりやって来てはチャイムを鳴らし、さもこちらの心情を慮っているような猫なで声で「悲しみに暮れる親族のコメント」を繰り返し要求してきた。


 当初、姉の靖子たち家族があんな惨いやり方で殺されてしまったことには、もちろん節子なりの悲しみや憤りを感じていた。だが、続けざまにやって来る「例の連中」に、何度もなんども同じ「悲しみのコメント」を喋らされているうちに、自分本来の自然な感情が次第に傍らへと押しやられていき、代わりに、自分をこんな面倒な状況へと至らしめた姉家族への疎ましさなどという、予想外の感情が先に浮かんでくるようになってしまった。


 姉とはとりわけ仲がよかったわけではない。が、決して悪かったわけでもなかった。


 いや、多少仲がぎくしゃくしていたとしても、血を分けた姉が死ねば相応の悲しみを持ち続けるのが真っ当な人間のあり方だ、と思っていた節子は、自分の内に起こったこの感情に大いに困惑し、罪悪感さえ感じた。


 そして、自分にそんな感情を起こさせた元凶である「例の連中」に対して、以前よりもいっそう強い嫌悪を感じるようになった。


 外からのストレスと内からの罪悪感とで、心身共に参ってしまった節子だったが、事件から日が経ちマスコミの来訪が減ってくるにつれ、ようやく復調してきた。


 もっともさっきのように、チャイムや電話音には今でも身構えてしまうのだが。


 朝食をテーブルに並べ終えるころ、夫が新聞を片手に、部屋に戻ってきた。


 一向に起きてくる気配のない娘を放っておいて、夫婦二人で朝食を終える。


 本当は、日曜の朝食くらいは一家そろって食べたいものだと思っているのだが、今年高二になった娘は、節子の注意にまるで耳を傾けようとしない。


 食器を洗い終えた後、再び一人になったキッチンテーブルで、夫が新聞から抜き取って残していった折込みチラシを開いた。


 不動産、スーパーマーケット、パチンコ店、近々オープンのラーメン店のチラシ――。役に立つもの、立たないものを次々に選り分けていく。もう十数年も続けている、日々の仕事だ。


 だが、いつも通り迷いなく動いていた節子の手が、あるチラシを目の前にして、ぴたりと止まった。


 A3大だろうか。大きめの真っ白な紙の一面に、時代劇に出てくる巻物に書かれたような、判読不可能な筆文字がびっしりと印刷してあった。念のため引っ繰り返してみたが、裏側には何も印刷されていない。


 節子はしばらくの間ぼんやりと、誰に向けたともわからない、その不可解なチラシを眺めていた。


 が、やがて首を振ると、その奇妙な紙を、テーブルの端にある「要らないチラシ」の山の上にぞんざいな手つきで重ねた。


 * * *


 チラシを読み終えると、男は慣れた手つきでそれを端から短冊状に折り畳んでいき、おそらくは送り主が意図したであろう、一通の書状の形にした。


 男は書状を床に置くと、腕を組み、口元に笑みを浮かべた。


 男にはわかった。終始一貫して迂遠な表現でしたためられてあるが、内容は決闘への誘い、つまり「果たし状」そのものであり、文中で名指しされている相手、「白面にして紅毛の者」が、まぎれもなく自分自身であることが。


 やはりあの光球に包まれ、寛保の世から未来世界へと送られたのは、自分のみではなかったらしい。


 自分をこの異界へと飛ばした張本人であるあの男――寺田某とか言ったか――までもが同じ場所にやって来ていたのは驚嘆すべき事柄ではあるが、考えてみれば、成り行きとして至極当然とも思われた。


 あのいかにも愚直で不器用そうな男が、どのようにしてこの世界で今まで生き延び、そしていかなる方法で、この世界の瓦版である「新聞」に果たし状を紛れ込ませたのか、いささか男にとって興味をひくところではあった。


 できればじかに経緯を聞きたいものだったが、このような、この世界においての暗号めいた方法を使ってまで、改めて闘いを挑んでくるような者だ。そんな気楽な対話などは望むべくもなかろう。となれば――。


「殺すしかなかろうな」


 そう呟いて、男――服部弾正景直は喜悦の笑みを浮かべた。


 弾正は立ち上がると、アパートの奥の、六畳間に続く引き戸を開けた。


 そこには、色白で細面の若い男が、後ろ手に手錠をかけられたうえ、足を縛られ、口には猿轡をかまされて横たえられていた。


 二日前に弾正が街で「調達」してきた男だ。


 男は弾正が入って来たのを見ると、両眼に激しい恐怖の色を浮かべ、葉から地面に落ちた芋虫のように全身をくねらせた。


 弾正はしばらくの間、男の虚しい抵抗を、眼を細め愉しげに見ていたが、やおら傍に座り込むと、顔の上に覆い被さった。


 弾正は男の顎を左手一本でやすやすと抑えつけると、恐怖で引き攣る頬にゆっくりと、蛞蝓なめくじのようにぬらぬらと自らの舌を這わせていった。


 猿轡の下から、声にならない絶叫が発せられた。

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