30.再会
早朝の石神井公園には、薄い靄が立ちこめていた。
その靄に沈むように林の中にまばらに立つビニールテントの一つから、のそのそと一人のホームレスが這い出てきた。
彼はその場で天に向かって両腕を突き上げ、うん、と大きく伸びをすると、林を出、近くに立つコンクリート造りの公衆便所に向かって歩きはじめた。便所にたどり着くと、入口の水道の蛇口をひねり、威勢よく水音をたてて顔を洗い始めた。
洗顔を終え、水道を止めた彼は、誰かの気配にはっと顔を上げた。
いつの間にか、自分の隣に見覚えのある男の姿があった。思わず彼は呟いた。
「和木どの――」
和木が言った。
「元気にしてたか?友五郎」
* * *
「相変わらず気づくのが遅いな。あんなんじゃ、あっさりと弾正に斬られちまうぜ」
二人は公園のベンチに座り、話していた。
「和木どの。あれは特別だ。水音に紛れ、足音が聞こえておらなんだのだ」
顔を赤くして、友五郎が弁解した。わかったわかったと和木は言い、「でもそれは、弾正みたいな悪党には通用しない言い訳なんだろう?」
「いかにも」渋い顔で、友五郎は頷いた。「あの場にいたのが和木どのでなく、弾正であったなら、すでにそれがしの首は、胴と繋がっておらなんだであろう」
「何だ。やっぱりそうじゃねぇか」和木は上を向き、靄が切れて現れた薄蒼い空に向かって笑い声をあげた。
「全くその通りだな」友五郎も上を向き、苦笑いを浮かべた。
しばしの沈黙の後、友五郎が言った。「なぜ、それがしがここにいるとわかったのだ」
「わかるだろ普通。身分証なし、カネもろくに持っていないお前が寝起きできるような場所なんて、東京じゃ公園くらいしかないよ。でもって、目当ての弾正が練馬に潜んでいるって踏んでるのなら、行き先は大体見当がつくさ」
「なるほど。そうであったか。やはりこの地、この時代に生まれ育った和木どのにはかなわぬな」
「お前の考えが単純なんだよ」
二人は声を立てて笑った。そして再び、沈黙が訪れた。
今度の沈黙を破ったのは、和木だった。
「いつまでこうやっているつもりだよ」
「弾正を探し出し、果たし状を渡すまでだ」
「弾正、ねえ」和木は息を吐いた。「お前まだそんなこと上手くいくと思ってるのか? 相手は百戦錬磨の大悪党で、剣の腕もお前よりずっと上なんだろう?」
「確かに。弾正は腕の立つ男だ」友五郎は言った。「だが、一度死地をかいくぐった今、それがしも胆力では負けておらぬ。いや、気迫においてのみならば、それがしの方がむしろ勝っているかもしれぬ」
「馬鹿野郎」和木は声を荒げた。「お前のみたいな精神一本主義がな、本物の『力』と『策』の前では全然無力で歯が立たないことが、こっちの世界ではとっくの昔の大戦争で大規模実験証明ずみなんだよ」
「ならばどうしろというのだ」友五郎も語気を強めた。「弾正は今もこの時代において、悪行の限りを尽くしているかもしれぬ。我が父に、そして多くの者どもにしたように、凶悪なる刃でもって。それを、ただ黙って見過せというのか? この時代の、弾正のことを何も知らぬ警察とやらに任せきって」
「だから、その考えが間違ってるんだよ」
「間違っている?」友五郎がたじろいだ。
「お前、どうしてそうやって、一人だけでやろうとするんだ? なんで何も相談しない。『助太刀』ってシステムが、江戸時代にはあったんだろう? 俺も、姉貴も、志徒子だって、お前よりずっとこの時代について知っているんだ。それなのになぜ、俺たちに相談一つしようとしない?」
「何を言う!」友五郎が丸い眼をさらに真ん丸に見開いた。「仇討も、成敗も、この未来世界においては認められぬ行いであると説いたのは、お主自身ではないか。そのようなことのために、大恩ある菫どのや、お主らを巻き込むなど、できるわけがあるまい」
「違う。勘違いするな」和木が言った。「俺は、この今の時代での、お前の人殺しに荷担するわけじゃない。あくまでも過去の、いや、これから先のお前のために、お膳立てを手伝ってやるだけだ」
「いかなる意味か」
「弾正を倒すのは、あくまでもお前だ。友五郎。俺はあくまでも、石頭で融通のきかないお前が、寛保の世界に戻ったとたんに犬死にしないよう、少しばっかり手伝ってやるだけだ」
和木はベンチから腰を上げ、言った。
「立て。詳しい話は、面子を集めてからだ」
* * *
「よう」
和木は、開店のためにシャッターを押し上げている大の背中に向かって、声をかけた。
誰の声かすぐにわかったのだろう。険悪な表情を貼り付け、大がゆっくりと振り向いた。
「何の用だ」
そのとき、和木の手招きとともに、背後から一人の男が歩み出た。一瞬にして、大の表情が驚きに変わった。
「友五郎、さん――」
和木は決然と言った。「大。お前に話がある。もう一度、俺の家に来てくれ」
「今夜か?」
和木は頷いた。大は険しい眼差しで和木と友五郎を見比べていたが、やがて言った。
「わかった。待ってろ。夜の店番を休むのOKか、今親爺を起こして訊いてくるから」
大はシャッターを上まで開けると、ガラス扉を開け、まだ暗い店内へと消えていった。
和木はそれを見届けると、ポケットから携帯を取り出し、電話をかけはじめた。
「誰と話すのだ?」
「決まってるだろ。志徒子だよ」
「女子まで巻き込むのか?」
「そうだよ」携帯を耳に押し当てたまま、和木は言った。「今は男女同権の時代だからな。それにこんな、あいつが喜びそうなこと黙ってたら、後で俺がどんな目に合わされるかわかったもんじゃない」




