3.和木
同じ夜。高丘和木には一つの予感があった。
今夜あたり、姉の菫が男からふられるであろうという予感だ。確率にしてみると、七割から八割のあいだだろうか。予感というよりはむしろ、確信と言ったほうがいいだろう。
和木がそう思うにいたった根拠はいくつもあった。
まず第一に、毎朝姉が作って出かけていく味噌汁の味が不味くなったことだ。下らないようだが、何年も朝食を姉に頼りきってきた和木としては無視できない兆候だ。第二に、姉が部屋にこもる時間が、十日前あたりからどんどん増えてきていることだ。そして第三に、これが一番決定的な根拠だが、姉が部屋から出るとき、風呂に入りにいくとき、トイレに向かうとき、ともかくあらゆるときに常に携帯電話を握りしめているということだ。姉には、携帯で暇をつぶす習慣はない。おそらく、待てどもこない男からの連絡を待っているのに違いない。
今朝顔をあわせた姉の様子は、酷いものだった。具体的に顔などに目立った変化があるわけではない。問題は気配だ。姉は全身から周囲に、鬱陶しい負のオーラを放ちまくっていた。もし姉の失恋が本当に今夜起こるならば、今頃、ここ数日のうちで最悪の雰囲気に家は包まれていることだろう。和木にとってこれは、いちじるしく迷惑なことだった。
和木たち姉弟は、和木が五歳のときに交通事故で母を、二十一のこの春に癌で父を亡くしていた。
もちろんそれ自体、和木にとって不幸なことだったが、もう一つの不幸があった。父が死んでから、元々情緒不安定の気があった姉、菫の精神状態がより頻繁に悪い方へ傾くようになったのだ。
こう説明すると、生前の父がさも優しい人柄の男だったように聞こえるかもしれない。だがそうではない。父は冷淡な人だった。和木に対しても、菫に対しても。
例えば姉が落ち込んで長々と部屋にこもっていたとしても、父は我関せずで鼻歌を歌いながら家事をしていたり、テーブルにむかって新聞のクロスワード・パズルを解いていたりするのが、高丘家の日常的光景だった。
あれは姉が十七のときだったか。菫が泣きながら台所に立って調理をしている後ろで、父は呆っとテレビのニュース番組を眺めていたことがあった。
父は怖い人ではなかった。が、ある種の「鈍感さ」を持っていたのは確かだった。だがそんな気の利かない男であっても、姉にとっては、家族というパズルの大切なピースの一つであったらしい。特に長じてから菫と父は、よくキッチンに二人でいることが多かった。
台所に立って料理をする菫と、ダイニングテーブルに座っている父とのあいだに、さしたる言葉のやりとりがあったわけではない。しかしそれでいて、二人のあいだには何かしら、和木の言葉ではうまく表現できない「つながり」があるように感じられた。ときに和木が、ささやかながら嫉妬めいたものを覚えたほどに。
その父が死んだ。そしてそれ以来、姉の心の不安定さは増した。まあ当然だろう。これで両親ともに失ったのだ。世間的感覚でいえば、大きなダメージを感じていない和木のほうが、むしろ普通ではない。
だが、それにしても。
和木は盛大に溜息を吐いた。家に帰りたくなかった。辛気くさい姉のいる、あの家に。
溜息をくりかえしつつ仕事をしているうちに、バイトの上がりの時間がやってきた。
和木としては、できることなら今夜は夜通しでもバイトをしたい心境だったが、もちろんそんなわけにはいかない。十一時をむかえて掃除も終え、やることもなくなった和木は、店長に追い出されるようにして店を出た。
街の熱気と梅雨の湿気を含んだ、もわりとした空気が和木を迎えた。バイト先の居酒屋は、靖国通りに面した歌舞伎町一丁目にある。和木は従業員階段の脇からロードサイクルを押して出ると、靖国通りを対岸へと渡った。西武新宿駅入口を斜めに見ながら愛車にまたがると、西に向かってペダルをこぎはじめた。JRの高架をくぐり、ごみごみと狭い思い出横町の横を走りすぎ、小田急ハルクの南を通って、また交差点を渡る。
和木は、それまでのろのろとこいでいた脚に力を入れた。ディレイラーをあげ、軒並み高層ビルの建ち並ぶ北通りを飛ばしていく。もうすぐ和木の一番好きな場所だった。
北通りと議事堂通りの交わるところで自転車を止め、目一杯背をそらして、首をあおむけ空を見た。新宿アイランドタワーに三井ビルディング、住友ビル。真っ暗な天頂に向かって四方を、高層ビルたちの窓の灯が囲んでいた。深く息を吸い、吐くと、苛立っていた心が少しずつおさまっていくのを感じた。
和木はここからの空の眺めが好きだった。嫌なことや面倒ごとがあると、よくこの場所に来て、天を突くビルたちの群れを眺めた。
どうして皆、頂上に登ろうとするんだろう。こんな近くに、美しいものがあるのに。
和木にとって夜景とは、エレベータで上階に登り、上から見下ろすものではなかった。真下に、あるいは遠くに立ち、空に向かってのびている姿を眺めるべきものだった。
十分ほどそこにいてから、再びペダルをこぎはじめた。気分はさっきよりもずいぶん軽くなっていた。
夜風を切って走りながら思う。まあ、姉のことはどうでもいいじゃないか。しょせんは姉の問題なんだし。夜食など必要ないように賄も多めに食べてきたことだし。ダイニングキッチンに行かなければ顔をあわすこともそうないだろう。もしも出くわしてしまったら、疲れたとでも言って、早々に自室に引きあげてしまえばいい。
和木は新宿中央公園の中ほどから道を渡ると、西新宿四丁目の住宅街へ入った。都庁舎の眺めを背にしつつ、あちこちに野良猫が棲む細い坂道をのぼり、真新しい住宅と、古びた木造家屋が混在するエリアに入っていく。そのうちの一軒の、二階建て木造家――自宅の前で自転車を降りると、ハンドルを押して、すすけた色の木の門をくぐり中へと入った。
狭い庭の隅に駐輪し、上から雨露よけのシートをかけながら考えた。そろそろ一人暮らしを始めたいものだ。そうすれば鬱陶しいあの姉に振り回されることもなくなる。
だが自他ともに認める要領のいい和木であっても、昼間大学に通いつつ、夜にこれ以上バイトを入れていくのは、いささかしんどいものがあった。運良くも相続税のカタにとられずにすんだ、ボロ家だが家賃不要の生活は、やはり手放しがたい。
さてどうしたものだろうかと、今夜も結論の出ない思考をめぐらせつつ、玄関の引き戸の鍵を開け、そっと屋内へと足を踏み入れたときだった。
「お帰りぃ」という弾んだ声が、いきなり台所のほうから聞こえてきた。
何だ。何が起こったのだ。今、妙に浮かれた声、それも菫によく似た声が、家の奥から聞こえてきたような気がするが。
もしかして誰か、菫そっくりの声の従妹でも訪ねてきているのだろうか。和木の記憶には、そんな人物などいなかったが。
困惑しつつ、和木は声のした方へと近づく。のれんをくぐり、おそるおそる中をのぞき込んだ和木は、またもや意表をつく光景を目にし、その場に立ちすくんだ。
深夜だというのに、菫が台所でまめまめしく立ち働いていた。一体どんなことがあったのだろう。つややかに顔を輝かせ、一心に何か料理をしている。
和木はしばらくの間、のれんを頭の上にのせたまま、その場で唖然としていたが、おそるおそる中へ入っていき、テーブルの椅子をひき、そっと腰かけた。目についたリモコンを手にとってテレビをつけ、それを観るふりをして、横目で姉の様子をうかがった。
どうやら菫が作っているのは、雑炊らしかった。
何だ。頼みもしないのに夜食を用意してくれているのか。どういう事情かわからないが、あの辛気臭い雰囲気に、今夜はつきあわされずに済むらしい。よかった、と思おうとしたときだった。和木の頭にふと、ある記憶がよみがえった。
あれは姉が高校生のときだったか。つきあっていた男子生徒にこっぴどくふられたことがあった。菫はひどく落ち込み、数日の間、部屋に閉じこもった。問題はその後だった。
ようやく学校に復帰したと思ったら、その日の帰りに菫は、捨て犬を三匹もひろって帰ってきたのだ。
これには無感動性の父も、少しばかり驚いたようだった。姉は、あくまでも家で全頭を飼いたいと言い張ったが、高丘家にあるのは、狭い家に狭い庭。おまけに当時の隣人が騒音に対して異常に過敏だったこともあって、飼うことはかなわず、犬たちはそれぞれ、友人や親戚宅へと引き取られていく結果となった。
その後姉はまた泣き、長々と落ち込んだわけだが、和木としてはそちらの様子よりも、短い間だったが犬の世話をしていたときの、姉の晴れ晴れとした表情のほうが強く印象に残っていた。
――まさか、あのときみたいに。
和木の胸に疑惑が浮かんだ。姉はまた、犬か猫でも拾ってきて、自分の寂しさを紛らわそうとしているんじゃないだろうか。今作っているのも、和木への夜食なんぞではなく、その犬だか猫だかのための餌なのではないだろうか。
和木は耳を澄ます。だが炊事の音に邪魔されて、それらしき動物の物音は聞こえない。
「ねえ和木、そこにある小皿とレンゲをお盆にのせて」
姉の示す先には、盆とレンゲ。そして香の物と梅干しがのった小皿があった。
なんだ。やっぱり俺に作っていたのか。
和木は安堵する。犬や猫に梅干しを与えるはずはない。そもそも雑炊だって変だ。普通犬ならドッグフード。猫ならキャットフードを買ってきて与えるだろう。まあ、ともかくこれで納得した。せっかく作ってくれたんだから雑炊を食べてやろうとしよう。
だがまた、予想外のことが起こった。姉は土鍋をコンロからおろすと、小皿とレンゲとともに先程の盆にのせた。そしてそれを持って和木の前を素通りしていった。
えっ? それって俺のために用意したんじゃないの? と困惑する和木をおいて姉は廊下に出ると、その先の、誰もいないはずの父母の寝室に向かって歩きはじめた。
「お、おい!」和木は思わず声をあげた。何だ? 一体姉は何をしようとしているんだ? 仏壇への供え物にしては、いくら何でもゴージャスすぎるじゃないか。まさかふられたショックのあまり、気がおかしくなったか?
「ちょ、ちょっと待って!」和木は慌てて席を立ち、菫の後を追った。