21.羅刹
「ご協力ありがとうございました」
斉藤は中年婦人の前で頭を下げると、隣に立つ下山に目配せをし、玄関から踵を返し、庭を横切って道へ出た。
下山は斉藤の目の前で、胸ポケットからショートホープの箱を取り出すと、一本くわえ、ゆっくりとした手つきで火を付けた。煙をたっぷりと吸い込むと、胸深く溜めるようにしてから上を向き、かんかん照りの太陽を睨み付けながら、ひと息にそれを吐き出した。
一連の儀式を終えた下山が、斉藤に向かっておもむろに言った。
「ありゃあ、シロだな」
またか。このおっさんは。斉藤は胸の内でげっそりとする。
あの中年女が警官拉致の犯人じゃないだろうことは、小学生にだって見当がつく。配属されたばかりの刑事ドラマかぶれの新人じゃあるまいし、一体どうしてこんなクサい芝居じみた振舞いを、この親爺は一軒一軒の訪問を終えるたびにするのだろう。もしかして若手である自分に対する、下山なりの冗談の一種なのだろうか。
いいや、そんなはずはない。斉藤は心の中で首を振る。下山が刑事部屋の中で、密かに「地蔵」と呼ばれていることは、この春、配属されたばかりの斉藤でさえ知っていた。
そのあだ名の意味は「温厚なベテラン」などという褒め言葉ではなく、「堅物なだけの役立たずの年寄」だ。
しかしいくら下山が暑苦しい言動をしても、後輩である斉藤に為す術はない。上が決めた組み合わせは絶対だ。いくらパートナーが鬱陶しい奴でも、ここは我慢して炎天下を歩いて聞き込みを続けなければならない。
下山の発する汗とヤニの入り混じった匂いに辟易としつつ、さっきまで聞き込みをしていた一戸建ての隣に建つ集合住宅へと回った。
一部屋一部屋ベルを押していった。だが反応のある部屋は一つもなかった。無理もない。すぐ近くに大学もあることだし、このアパートの住人の大方は学生だろう。ならちょうど帰省時期にあたる今頃に部屋にいる可能性は低い。実家に帰っているか、そうでなければ夏のバイトに精を出しているかだろう。
二人は隣に並んで建つ、同じような造りのアパートへと向かった。
「ドゥメルそれいゆ」という、この手のアパートにありがちな意味不明の名の看板のついたこの建物も、101号室から103号室までは、案の定留守だった。
だがその隣の角部屋、105号室で斉藤はベルを押す前にちょっとした発見をした。
エアコンの作動音だった。壁側にまわって見ると、窓付けのクーラーが水滴をぽたりぽたりと垂らしつつ、熱気をごうごうと外に向け吐いている。
「下山さん。あれ」
指差す斉藤に、下山がぎらぎらと眼を光らせ頷いた。
やれやれ。また何を気合いを入れているのだろう。この親爺は。ただ在宅の部屋を一つ見つけただけだというのに、それだけでもう重要証言者か犯人とでも遭ったような意気込みようだ。一軒訪問するたびにこんな調子なのだから、斉藤としては疲れること甚だしい。
ひとしきり心の内で文句を並べてから、慣例通り若手の斉藤が「岡崎」と名の書かれたドアの横にあるチャイムのボタンを押し込んだ。
二人してドアの前でじっと待った。建物の外からは蝉の鳴く声がひっきりなしに響いていた。
ドアは中々開かない。
焦れたらしい下山が、もう一度ベルを鳴らそうと斉藤の横から手を伸ばしたとき、かたりと鍵の開く音がし、ドアが開き、中から一人の男がようやく姿をあらわした。
斉藤は素早く、男の容姿を頭に刻み込む。歳は二十代後半。ひょろりとした色白の優男だ。身長は百八十ほどだろうか。この手の独身者向けアパート特有の低い天井に接してしまうほどの高さだ。バンドでもやっているのか、赤く染めた長髪を、後ろで縛っている。上は無地の白Tシャツに、下はグレーのスウェットパンツをはいていた。寝惚けたような眼を手の甲でごしごしとこすっていた。
ドアが開いたと同時に中から流れ出してきた冷気と、つけっぱなしのテレビの音から、どうやら男がクーラーをつけた中、テレビを観ながら居眠りをこいていたらしいことがわかった。
この野郎、いいご身分だ、と斉藤は、汗で濡れたシャツの不快感を感じながら胸の中で毒づくと、精一杯の業務上の笑みを浮かべ、目の前の男に言った。
「ああ、岡崎さんですか? お休みのところすみません。私は石神井警察署の斉藤と、こちらは下山と申します」
初めまして、と言って下山は相変わらず鋭い目付きのまま、斉藤とともに岡崎に軽く頭を下げた。男は下山の眼光に少し面食らったようだったが、物珍しそうに眺めかえし、
「どうしたんですか。何かご用ですか?」
「実は、ニュースなどでもご存じかと思われますが、この近辺で巡回中の警官が突然行方不明になってしまうという事件が起こりまして」
話す間中、斉藤は男の目付き、そして表情の変化に油断無く眼を走らせる。もちろん隣の下山も、同様の行為をもっと露骨にしている。
「杉並区での一家三人殺害事件も未解決のままですし、そういった経緯もあって、我々がこうやって、区内のお宅を一軒一軒お訪ねしてまわっているというわけです」
男はときに欠伸をかみ殺しながら、小さく相槌を打ちつつ、斉藤の言葉を聞いていた。元々他人に関心のないタイプなのか、寝起きのせいか、一般人にしてみれば珍しい体験のはずの刑事の訪問に対して、あまり関心のない素振りをみせていた。
「それでお伺いしたいのですが、七月十五日の前後や、それ以前からでも結構ですので、何か不審なものごとや人間を見聞きした覚えがありましたら、どんなささいなことでも結構ですから、我々にお教えいただきたいのです」
男はまた欠伸を一つかみ殺すと、顎を一つかき、「ああ、なるほど。最近確かに物騒ですからねぇ」と言って首を傾げた。そして、ううん、と唸りを口にすると、双眸を閉じて黙然と考え込み始めた。
斉藤はそっと室内を覗きこむ。
若い男の一人暮らしにしては、よく片付いているようだった。玄関近くにある流しの周りも、きちんと規則性をもって調理具や皿が積まれてある。奥の部屋の本棚も同様だ。
斉藤は部屋の見分を終えると、さりげなく男へとまた視線を戻した。驚いたことに男はまだ同じ姿勢で眼をつむっていた。まるで立ったまま居眠りに入ってしまったようだ。
半ば呆れて斉藤は声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
男はたった今また眼を醒ましましたというように、びくりと身体を震わせると、首を縦に戻し、瞼をごしごしとこすりながら、
「ああ、申し訳ありません。最近寝不足なもんで、つい」
そう言って笑った。
斉藤の予想どおり、今回もさしたる証言を得られぬまま、聞き込みは終った。
名刺を渡し、閉じていくドアを前に礼をすると、今度は二階の聞き込みに向かうために、斉藤は歩き始めた。
その間下山は、珍しくも「シロだ」とも「怪しいな」とも言わず、また胸のショートホープに手をつけることもせず、じっと口を噤んでいた。
下山がようやく口を開いたのは、二人が階段を上り始めたときだった。
「匂うな」
「匂う?」驚いて斉藤が訊いた「あの、今の男がですか?またどうして」
「勘さ」下山がいつにもましての顰め面で言った。「長年刑事やってりゃな、わかるんだよ。どいつが怪しいかってことがな」
「刑事の目の前で、立ったまま居眠りをするような野郎がですか?」
「ああ、そうさ」下山が頷いた。
やれやれ、と斉藤は心の中で溜息を吐く。そんな鋭い勘を持っているのなら、「地蔵」などと囁かれているはずはないだろうに。大体こんなことを、どうやって捜査会議上で報告するつもりなのだろう。ただ「根拠はないのですが、勘で怪しいと思いました」とでも言うつもりなのだろうか。それこそ失笑をかうだけだ。
「おい。斉藤。今の男のこと、ちゃんと帳面につけとけよ」
斉藤はしかたなく、真顔で命令する下山に対し表面だけ真剣な顔で、「はい、わかりました」と答え、言われるまま手帳を開き、熱心にメモを取る素振りだけをしてみせた。
* * *
二人の目付きの鋭い男――警察と名乗る男達が去った後も、しばらく彼はドアにぴったりと耳を付け、眼を細め、身じろぎもせずそのままそこに張り付いていた。
男二人は二階への階段で少しの間足を止めた後、また上りはじめ、一部屋一部屋チャイムを鳴らしていった。やがて二人は二階が全て不在なことを確認し終えたのか、廊下を戻って階段を降り、アパートから去っていった。
彼はようやくドアから耳を話すと、冷蔵庫の前まで行き、中から黒い飲料――ペプシの2リットルボトルを取り出し、蓋を開け、喉を鳴らしてそれを呷った。
ボトルを戻し、冷蔵庫を閉めると、腕組みをしてキッチンのシンクに背をもたせた。
数分の間、そうやって男は何か考え込むように同じ姿勢で留まっていた。やがてシンクから身を離すと、キッチンの中ほどにある、一辺七十センチほどの床下収納の四角い蓋の側にかがみ込んだ。
取っ手に手を掛け、蓋を開くと、中に収納された缶詰やら乾麺やらを一つ一つ外へと取り出していく。中が空っぽになると、今度は収納コーナーの両側面に突き出た出っ張りに手を掛け、先ほどとは比べものにならない慎重な手つきで、上へと持ち上げていった。
やがて彼が、プラスティックでできた収納コーナーの底を完全に除け終えると、そこに黒く四角い、床下の闇があらわれた。彼は一度立ち上がり、居間にある本棚の隅から懐中電灯を手にとって引き返して来ると、スイッチを入れて上からその闇の中を照らした。
剥き出しの地面があった。
彼はかがみ込み、手を入れると、ビニール袋に包まれた一つの物体を取り出した。一枚、一枚とぐるぐるにまかれた袋をほどいていくと、中から二つの黒い鉄塊が姿をあらわした。
鉄塊の一つはリボルバー式の拳銃。もう一つは手錠だった。
彼はしばらくの間、それをたなごころで転がしつつ、眺めていたが、やがてまたビニール袋に戻し、元のようにぐるぐる巻きにしていった。
そして完全に元通りに包むと、また土の上へとそっと置いた。
再び床下収納の底を被せようとしたとき、彼は湿った土の中から、朽ち木の枝のような細い棒が何本か突き出ているのを発見した。
人間の指だった。
あの藍色の服を着ていた男――警官の指と、この部屋の本当の住人である岡崎という大学生の指が、一本ずつ仲良く地面から突き出していたのだった。
彼は、ぴくりと一ミリばかり右の眉を上に動かしたが、別段それ以上の感興もあらわさず、周囲から土をかき集め、二本の指をしっかりと土の中に押し込めた。
床下収納を完全に元の状態に戻し、蓋もし終えると、彼は流しで手を洗い、さっきと同様に冷蔵庫からペプシのボトルを取り出し、少しばかり喉へと流し込んだ。
そして居間へと戻ると、クーラーを背にして、付け放しになっていたテレビの前に、ゆっくりと腰を下ろした。