2.運命の邂逅
JR新宿駅にて。
その夜、高丘菫は人生で通算五度目にあたる、男との「別れ」を味わっていた。
いや、「別れ」という言いかたはふさわしくないだろう。
通告は一方的に男の方から突きつけられた。つまり菫はふられたのだ。しかもこのパターンは今回だけでない。過去の恋愛全てにおいて、菫は相手から別れを切り出されていた。それも毎回、きつい言い方で。
今回のふられ方は特にひどかった。二十四の菫より五歳年上の彼、真二は、その日いきなり駅のホームへと会社帰りの菫を来させると、自分は一時間も遅れてやってきて、謝りの言葉も何の前振りもなしに、いきなりこう言ったのだ。
「俺、君と別れることにしたから」
「そんな――どうして?」しばしの絶句の後に、振りしぼるように発した菫の言葉に、真二は表情一つ変えることなく答えた。
「鬱陶しいんだよね。君といると」
「鬱陶しい?」
「そう。いつもいつも見張られているみたいでさ。落ち着かないんだよ」
「そんな、わたし、あなたを見張ったりなんて――」
「見張ってるんだよ」真二は菫の言葉を遮った。「ともかくさ、俺としてはもう限界なわけ。だから別れることにしたから。わざわざ君ん家の近くまで来て、直接言ってあげたんだ。それだけでも感謝してよ」
とりつくしまもなく言うと、「さよなら」と告げ、ちょうどやって来た山手線に飛び乗った。ドアが閉まる前、真二は菫を振り返り、とどめを刺すように最後のひと言を放った。
「頼むからさ。ストーカーにだけはならないでね」
「――ストーカーになんて、ならないもん」次々と電車がやって来ては人を吐き出し、また乗せては去っていくホームの雑踏の中、菫はつぶやいた。
どうしてあんなふうに、逃げるようにして去っていくのだろう。無理に追いすがるつもりなんてない。見張っていたつもりもない。真二の携帯の中身をのぞくことはおろか、触れたことさえなかったのに。
大体どうして真二は、こんな大切なことを告げる場所に、新宿駅のホームなどというところを選んだのだろう。意志を伝えるだけなら、メールや電話だけでも足りたろう。
「――君ん家の近くまで来て、直接言ってあげたんだ。それだけでも感謝してよ」
嘘だ。菫は思った。
確かに新宿は、西新宿に住み東京に通う菫にとっての、最寄り駅だ。でも真二は、親切や思いやりでこの場所を指定したのではない。本来別れの場所にふさわしいはずの、「二人きりになれるところ」とは対極の場所、巨大な駅の雑踏の中に呼び出し、そこで別れの言葉を一方的に告げることによって、菫の心に最大限のダメージを与えようとしたのだ。
菫は、鉛の重しでもつけたような足どりで、西新宿四丁目にある古びた自宅に向かって、甲州街道を歩いた。走る自動車の灯が滲んでいた。両眼から溢れ出る涙のせいだった。
「どうしてかな」菫は自分に問いかけた。「どうしていつも、こんなふうになっちゃうのかな」
菫が男から「鬱陶しい」と言われたのは、これが初めてではなかった。今までつきあった男、五人のうち実に四人までもが、菫にこの言葉を吐いて去っていった。
「結局みんな、あの人たちと同じなんだ」菫は呟いた。
職場での小さな失敗に対して、席の横に立たせてはいつまでも尽きることなく嫌味を浴びせつづける課長。給湯室に溜まっては、決して菫にだけは聞かせることのない囁きを交わしあっている女子社員ら。菫の人生のさまざまな時期や場所にあらわれ、さまざまな方法でもって苛立ちや疎ましさを伝えてくる人たち。
彼ら、そして彼女らが菫のどこに疎ましさを感じているのかはわからない。でもおそらく、自分のどこかにそういった、他人を苛立たせるような何ものかがあるのだろうということだけは菫にもわかった。そしてその「何ものか」を、今までつきあってきた男たちも感じていたのだろう。感じていたからこそ、彼らは菫に「鬱陶しい」と言い放ち去っていったのだ。
いけない。もう泣きやまねば。自分に言い聞かせ、涙をぬぐう。
菫は大学生の弟、和木と実家で二人暮らしをしていた。和木は菫の涙や落ち込みを極端に嫌う。ずっと以前からその傾向があったが、今年の春に父を亡くし、二人きりで生活するようになってからは特にそれが顕著になっていた。
和木は歌舞伎町の居酒屋で遅番のバイトをしている。今の時刻にはまだ、家に帰っていないはずだ。急いで先に帰って、崩れたメイクを落とし、泣き顔も洗わねば。そう思って足を速め、甲州街道を右に折れ、十二社通りを北に向かって歩いていたそのときだった。
突然、車の走行音のあいまに、ざわ、という草木をかきわけるような音が聞こえた。
辺りを見渡し、音の出所をさがす。どうやら道路の横にある植え込みからきているようだった。考えに気をとられ歩いているうちに、いつの間にか新宿中央公園の西側にさしかかっていたらしい。
菫は緊張する。しまった。この辺りはホームレスが多いうえ、夜になると人通りがめっきりと減る。だからなるべく夜は通らないようにしていたのだ。
ざわ、と、またさっきと同じ場所から音がした。
走りださねば、というとっさの思いとは裏腹に、足は歩道に根付いてしまったかのように動かない。
立ちつくしている菫の目の前で、また灌木を掻きわける音がし、茂みの中からぎょろり、と二つの団栗眼がのぞいた。驚きと恐怖のあまり、悲鳴さえ出せずにいる菫の前に、大きな音を立てて茂みの中から、一人の男が姿をあらわした。
異様な風体の男だった。髪は長いのを後ろで結わえた総髪。着衣は着物に袴、そして腰に二本の刀という、まるで時代劇に出てくる役者そのものの恰好をし、特徴的な円い眼をいっぱいに見開き、全身を菫に負けないくらい震わせていた。
「えっ? えっ?」と間の抜けたような声を発しつつ、菫は必死で後退った。
男はひどく慌てた口ぶりで、
「ま、待ってくださらぬか。そ、それがしは決して怪しい者ではない」と言いつつ、腰を落とし、狼狽もあらわに、まろぶように寄ってくる。
男が数歩近づいては、菫が数歩後退る。また男が近づき、菫が後退る。そんな調子の動作を数度ばかり繰り返した後だった。男は立ち止まり、ぎょくり、と喉仏を動かし唾を飲むと、絞りだすような声で、
「お、お願いだ――教えてくだされ。ここは、ここは一体――」どこであろうか――と言うとともに、菫の前にがっくりと膝をつき、白眼を剥いて道路に突っ伏してしまった。