15.時穴探し
「ご注文、お決まりですか」
カウンター席に座るなりスポーツ紙を広げた背広姿のその男に、和木は心持ち不機嫌な声で訊ねた。ああ、と思い出したように男は顔を上げ、慌ててメニューを広げ、
「大生一つに、揚出豆腐、それと鶏盛り合わせ一つ」それだけ言い、また新聞に眼を落とした。男ご執心の新聞の見出しには、こう書かれてあった。
<新宿中央公園のホームレス殺人に新展開。凶器は日本刀?>
和木は伝票を書き終えると、厨房に向かって「揚出一に盛り合わせ一です!」と叫び、自らは大生を作るため、厨房に隣接したビールサーバの方へと向かった。
大ジョッキを手にし、ビールを注いだ。徐々にたまっていく黄褐色の液体を見ながら、さっきの男客が見ていた新聞記事のことを考えた。
中央公園の事件の凶器が鋭利な長い刃物、日本刀のようなものであるらしいことは、今朝のニュース番組でも言っていた。日本刀、と聞き、和木は真っ先に寺田のことを思い浮かべた。だが、試しにそのことを姉の前で言ったら、激しく反論された。
「友五郎さんはあの日、気を失ってずっと伏せってらしたのよ? それから後も、一歩も外に出ていないし、そんなことをできるわけがないじゃない。それに友五郎さんみたいに真っ正直な心の人が、人を殺めるわけがないでしょう?」
確かに。寺田はそういうことをする悪辣さを持ち合わせていないだろう。それくらいのことは、未だに寺田を避けて生活し続けている和木にだってわかる。
「あ」思わず声を上げ、サーバのコックから手を離す。
ぼんやり考えにふけっている間に、ビールがジョッキからどうと溢れ出ていた。
厨房の中から店長が和木を睨み付けている。和木は、すいませんでしたぁ、と一声言ってジョッキを拭うと、さっきの一人客のところへ大生とお通しを届けに向かった。
志徒子が再び高丘家にやって来たのは、その翌日、寺田がこの家に住みついてから十日後のことだった。
「そろそろ外へ出てみましょうよ」
奥の間に通され、寺田と対面するなり志徒子は切り出した。
手には「寺田友五郎行現様 時間跳躍調査解明計画書」と書かれた冊子が握られていた。
「でも」不安げな表情で菫が言った。「外に出るっていうのは、まだ少し早いんじゃないでしょうか。友五郎さんはテレビだってまだ一時間も見続けられないのに」
「それはむしろ、テレビだからこそ観られないんです。お姉様」志徒子がにこやかに笑んだ。「テレビというのは、断片をシャッフルして見せるメディアです。現実の人間の目線ではあり得ないようなズームや、細切れな編集、騒々しい音楽、そういうものが激しく切り替わっていきます。これが江戸時代の人に激烈なストレスを惹き起こすのは当然のことです。むしろ寺田さまにとっては、外に出て自分の眼で視る景色の方が、よほど落ち着いて受けとめられると思うんです。それにいざ、パニックになって倒れられたときには、この和木さんがおりますし」
「えっ、俺が?」
突然志徒子に名をあげられ、和木は渋い顔をする。
「何だよそれは。俺をおんぶ担当者に仕立てるつもりかよ」
「あたしの計画書にはそう書いてあるけど?」
げ、と言って和木は頭をたれた。何か役が振られるならば大体そんなところだろうとは思ってはいたが。
「でも、まだ友五郎さんは現代に来て二週間ですし――」
「いや、菫どの」菫を押しとどめ、友五郎が口を開いた。「それがしもいつまでも菫どのや和木どのから恩を受け続けるわけにもいかぬ。たとえ漂着した身であろうと、目的は変わっておらぬ。それがしの望みは一刻も早く寛保の世に戻り、弾正をもう一度探し出し、討つこと。志徒子どのがこの身に起こったことを解明してくれれば、元の世へと戻る日も、近づくかもしれぬ」
「さすが寺田さま、わかってらっしゃいますわ」志徒子が眼を輝かせた。
「私は、寺田さまのタイムトリップの要因には、お持ちになっている護符以外にも、さまざまなものがあると思っています。それを調査し、解き明かしていくことによって、寺田さまは無事過去に戻ることができるかもしれませんわ」
「やっぱり、戻らなければいけませんか」菫が言った。寂しげな声だった。
「大恩ある菫どのには申し訳ないが、以前にも申したように、それがしにはつとめ、そして梅との約束がある。弾正との対決から逃れるわけにはいかぬ」
「ともかく寺田さま。そしてお姉さま。まず、寺田さまが時を跳躍した空間座標の特定ですわ。行ってみましょう?新宿中央公園へ」
女二人は、後ろに嫌々付き従っている和木を尻目に、寺田と喜々と会話し歩いている。
和木は思う。あの男が来てから、姉は変わったと。以前は毎朝の低血圧に愚図りながら起きてきていたのに、今は目覚ましも不要とばかりにはやばやと顔を輝かせ起きてきて、奥の間での挨拶の後、いそいそと朝餉の準備をし、夕に会社から帰ってきてはまた奥の間で挨拶、そして夕餉の準備をはじめるしまつだ。
ちなみに食事はほとんどが魚中心の和食。鶏肉や卵料理はときたま出るにしても、毎日ではない。洋食肉好きの和木としては不満この上ない。寺田本人はそういう厚遇に対してひたすら恐縮を繰り返しているようだが、姉は一向その態度を変えようとしない。
厄介なことだが、おそらく姉は、寺田に恋愛感情を持っているのだろう。姉は相当頑固なたちだ。もうすでに寺田を本物の侍と信じきっている。この先もますます和木の言うこと、つまり寺田の正体に対しての疑念を耳に入れなくなることだろう。
それにしても、姉が以前にまとっていた、自信のない、いじいじとした雰囲気はどこへ行ってしまったのだろう。今の姉の明るさ、溌剌さは、寺田がやって来た以前には全くみられなかったものだ。つまり寺田以前に付き合っていた男たちはことごとく、姉からそれを引き出し得なかったということになる。
今の姉を現出させた寺田という男は、何者か。
来る日も来る日も端然と奥の間に座り、姉弟留守がちのあの家を守っている姿。テレビを鑑賞しながら発する、整然理路とした質問の喋り口。それら態度をみていると――
「本物の武士」
思わずそこに考えが行き着きそうになり、和木は慌てて頭を振る。
馬鹿な。いくら志徒子に石頭と言われようと、それだけは認めるわけにはいかなかった。
初の外出ということで、寺田は姉と志徒子により、「変身」をさせられていた。
全身に初めての洋服――Tシャツにジーンズを着せられ、頭の上には、NYヤンキースのキャップを被らされていた。ちなみに足はサンダルだ。
それらは全て、和木の所有物だったのだが、志徒子の「よくみるとあなた、寺田さまと体型似てるわね」のひと言によって、和木の猛反対も虚しく、寺田の衣装となることが決定してしまった。
寺田にとって洋服、特にジーンズというのは随分と着心地の悪いものであったらしい。「野良着か厚手の猿股のようであるな」と言いつつ身につけた後、まるで操り人形のように身体をぎくしゃくと動かしてみせた。
女たちはその姿を見て、「似合ってますわよ」とか、「素敵です」とかいう言葉を発し、しきりに寺田を褒め称えた。和木は傍で、それら光景を苦々しく眺めた。
志徒子によれば、歩き方が変なのは、武士のならいである大小の刀を腰に差していないせいもあるという。いつも左腰にかかっている重しを取り外されたものだから、左右のバランスが狂ってしまっているのだそうだ。ちなみに問題の大小だが、寺田はどうしても持って出ると言ったのだが、菫の説得によって渋々諦めた。
寺田は、外に出てもなかなか尻尾を現さなかった。
いや、それどころか和木が想像をしていた以上の江戸時代人ぶりをみせていた。どうやらテレビでは一々取り上げられない、日常のささいな事物一つひとつが、奴にとって驚くべきものであるらしかった。
まず門を出てすぐに、舗装道路に這いつくばって石の継ぎ目を探し、点々と立つ電柱に触っては、その上を走る電線について志徒子を質問攻めにし、通りまで出ると、行き交うクルマの排気に胸を悪くした。
携帯を手に「独り言」を喋る人はもちろん、果ては人家の飼い犬であるプードルを見て、これは物の怪かと騒ぎ出す始末だ。
和木は次第に空恐ろしくなってくる。最前打ち消したはずの「寺田=タイムトラベラー」説を一々裏付けるような挙動を、奴があまりに頻繁にするからだ。
これはまさか。いや絶対そんなはずは、などと胸の内で繰り返しつつ、前を行く三人の後についていくうちに、新宿中央公園へと辿り着いた。
寺田の希望によって、まずは熊野神社へと向かった。
「これがあの名物の滝のなれの果てか」と、本殿右の人工滝を眺め、しばらくの間絶句した後、友五郎は悄然とした様子で本殿にお参りをし、隣接する階段をのぼり、いよいよ公園内へ入った。
ホームレスたちのテントが並ぶエリアは、入ってすぐのところにあった。刺殺事件については寺田もテレビで知っていたらしく、「あそこが、かの辻斬りのあった場所か」とテントを指差し言った。
「そうですわ」と志徒子が答えると、「未来となっても、人を殺める者が後を絶たぬか」と、寺田は嘆かわしげに首を振った。
せっつくように、志徒子が言った。
「寺田さま。座標の特定をしていきましょう。光に包まれ、気を失った後に寺田さまが目を覚まされたのは、どの辺りですか?」
「ふむ」寺田は周囲を眺め回し、「ここではない。それがしの勘だが、ここよりもっと南に行った場所になろう」
やって来たのは公園の南、滑り台などの子供向け遊具が集まっている場所だった。
「そうだ。この場所だ」友五郎は興奮したように言った。「目の前に、そう、あの二匹の異形の狛犬、そしてやや離れて、強く輝く光玉があったのを覚えている」
寺田は砂場の上に鎮座した白いくじらと青いカバの遊具を指さした後、指を宙にさまよわせた挙げ句、公衆トイレの隣に立っている外灯を指差した。
「あそこだ。ちょうどあのあたりに白い光が浮かんでおった」
「なるほど。じゃあ大体この場所から誤差数メートルというところになりますわね」
志徒子は振り向くと、「和木。手伝って」と呼びつけた。
「へ?俺が?何を?」抜けた声で答えた和木に志徒子は、「この付近の空間に歪みが起きていないかどうか、調べるのよ」
志徒子が取り出したのは、先端に十五センチほどの長さの白い棒が三本付いた、卓上アンテナのような代物だった。各棒は数学で言うところのX・Y・Z軸の三方へ向かって突き出している。白い部分はシリコンらしい。全体として未来的な印象を放っている。
下部の取っ手のような部分からは、コードがのびていて、その先は志徒子の手にあるノートパソコンに繋がっていた。彼女はその物体を和木に握らせると、自らは近場のベンチに腰掛けた。
「じゃあ、今から指示をするから、和木はあたしの言う場所に行って」
ああ、と戸惑いつつも和木が答えると、志徒子は早速、
「まず、あそこの遊具と街灯との中間地点」
和木は渋々とその地点へ歩いていって立つ。志徒子がパソコンのキーを叩く。
「じゃあ次。そこから――ええと、そうね、十五センチくらい左に寄って」
一体何のつもりだろう。最前から感じていた疑問を和木は訊ねる。
「なあ、志徒子さ」
「何よ。あ、次はまた左に十五センチ」
半歩ばかり移動し、和木は、
「さっきから一体、何を測定してるんだ?」
「だから最初に言ったでしょ。空間の歪みを調べるって」
「いや、それは聞いたけどさ、こんな大ざっぱな方法で、そんなのわかるのか?そもそもこのアンテナってどういう仕組みなんだ?」
「うるさいわねえ」息を一つ吐き、志徒子は言った。「磁気センサよ。その場所の磁気の大きさを調べるの」
「はあ?」和木は半ば呆気にとられ、「空間の歪みって、そんな大層なこと、磁気なんて調べるくらいでわかるのか?いや、大体何でこんな道具、志徒子が持ってるんだ?」
「うちの兄貴が理系の大学に行っているの。それで部屋の机の上から、ちょっと拝借してきたのよ」
「磁気と空間の歪みの関連性は?」
「あなた、変なところで細かいわねぇ」志徒子は苛立ったように、「何事もやってみなけりゃわからないでしょう? 本物のタイムトラベラーの寺田さまが、現代に現れたのがこの近辺だって言ってるのよ。ならその辺にワームホールが今でも開いてて、磁気異常の一つくらいあったって、不思議じゃないでしょう?」
「志徒子」
「何よ」
「お前、高校のとき、物理の成績ってどうだった?」
志徒子は一瞬むっとしたような表情なり、それから和木を睨むと、心持ち頬を紅潮させ、
「あたしは一年の時からずっと文系志望よ」
しばしの気まずい沈黙の後、和木は肩を落とし、あきらめ声で言った。
「わかったよ。お前の好きなように調べろよ。言うとおりに手伝ってやるから」
宣言した通り、和木は志徒子の指示に従い、磁気センサを握ったまま、左に右に手前に奥にと、立ち位置を変えていった。志徒子は結果に不満なのか、指示を出し、キーを打つたび頻繁に首を傾げていた。
寺田は菫とともに、最初のうち興味深げに和木と志徒子の様子を眺めていたが、さすがに十分も過ぎる頃には飽きてしまったらしく、公園に置かれた遊具やベンチや、その向こうにそびえるビル群について、しきりに菫に質問を投げかけはじめた。
寺田はそれに対する菫の回答に驚きはみせるものの、狼狽はみせず、熱心に耳をかたむけていた。菫は寺田のすぐ側に寄り添いながら、それを過剰に意識することなく、万事平静に、そして慎重に言葉を選び、ときおり寺田の体調について訊ねつつ、説明している。
和木は志徒子に従い動き回りつつ、そんな姉と寺田の様子をぼんやりと眺めていた。
そのときだった。
「弾正!」
突然、寺田が公園の外へ向かって叫んだ。
遊具で遊んでいた子供たちや、その近くで固まって会話を交わしていた主婦連たちが、いっせいに寺田の方に目を向ける。
「おのれ、弾正! 待てい!」
呆気にとられ、その場に固まるばかりの和木と女二人を置き去りにし、寺田は物凄まじい形相で奔り出した。
「待てい、弾正!」
叫びつつ、寺田は公園を飛び出し、十二社通りを甲州街道方面に向かって駆けていく。
「くそっ!何逃げてんだ。やっぱり奴は詐欺師だったかよ」和木は大きく舌打ちした。
とうとう尻尾を出したか、あの野郎。とっ捕まえて警察に突き出してやる。
磁気センサを地面に放り出し、和木は寺田の後を追って走り出した。