13.山川某
男たち二人が部屋を去ってしばらく後、菫も一礼をして部屋を出て行き、友五郎は部屋に一人になった。
おもむろに部屋の隅に積まれた書物に手をのばす。
どれも菫と和木が友五郎のために用意してくれた歴史書だ。
『日本史でるとこ攻略法―大学入試 ウラワザ暗記術』、『完全対策日本史問題集』など、題名からして友五郎には意味不明・難解な書物ばかりだ。
その中でも特に菫が勧めてくれた『詳説日本史』なる書物を手に取る。
表紙に並ぶ数名の名前は編者たちらしい。中でも一段離れた場所に書かれた「山川出版社」という名前は、編者の長であろうか。
この書物を初めて手に取ったとき、友五郎は驚愕に打ち震えた。見たこともないような薄く、すべすべとした紙の両面に、楷書の文字が整然かつびっしりと刷られている。文字はおしなべて瞬きをしたくなるほどに小さく、中でも漢字の上に添えられた仮名文字は、米粒よりも細かい。
初めて見たとき、友五郎はそれは文字ではなく、羽虫でも止まっているのではないかと思い、息を吹きかけてしまったほどだ。
枚数も尋常ではない。試みに最初から一枚一枚数えていったら、全部で二百以上もあった。それでいて書自体の厚さは、一寸にも満たない。一体どのようにすればこんなものが作れるのであろうか。
更に驚くべきことには、この書物、ほぼ全ての紙に色とりどりの図版が刷られていて、その中には、実物と見紛うばかりの達者な腕で描出された絵も珍しくなく存在する。
何と驚くべき技術であろう。この一冊を造り上げるまでに、どれほどの時間をこの山川某という人物は費やしたのか。想像するだに気が遠くなる。
そしてまた、どれほどの価値を持つものか見当もつかないこのような書物を所有し、ぞんざいに扱い――書物のあちこちに、明らかに持ち主の手で文字の上に塗られたと思われる、黄や緑の染料の跡があった――自分のようなどこの者ともわからぬ客人に貸し与えているこの高丘家とは、この世界において、どんな位に属する家なのだろう。手伝いの者などは、一切雇っていないようだが――。
この家の女あるじらしき菫は、どうやら職を外に持つ身であるらしいが、それはまたいかなるものだろう。
菫自らは、「障子会社のおうえる」と名乗っていた。
会社については、以前に説明を受けていたので、それがどうやら通いの商家らしいことは理解することができた。おうえるというのは、そこの店子という意味であろう。
だが「障子会社」というのは意味不明だ。大工か、表装を生業とする職人寄合いのようなものだろうか。いずれも、菫の細腕からは、そのような男共のあいだで働いている姿は想像しにくいものがあるが。
そんなことを考えつつ、友五郎は山川氏の編纂による書を開く。全部読むのはいくら何でも大儀であろうという菫のはからいで、友五郎が特に読むべき箇所に、栞が幾つか挟んであった。菫に感謝しつつ、友五郎はその箇所を開いて眺める。そして改めて溜め息をつく。
外見同様に、この書物の内容は、何度見ても言語に絶するものがあった。徳川家の系図が何と、友五郎の世の公方様、吉宗公以降、七代先まで堂々と記されている。まさに驚愕の内容。一体どこまで信ずればよいのか。いや、大恩ある菫が手渡したものであるからして、この山川某の書き記したことに間違いもあろうはずはないのだが。
そしてこの書物、難解さも一筋縄ではなかった。どういうわけなのだろう。文字は全て、左から右への横書きで書かれている。それだけでも見辛いことこのうえないのに、記されている文字の中にも、見慣れぬものが頻出する。
特に甚だしく変わっているのは数字の表記方法だ。一応は予め菫に教えてもらったのだが、今現在に至るも、その読み方の全てを友五郎は把握しきれていない。
菫からこの書を与えられて三日が経過したが、結局友五郎がわかったのは、自分がいた寛保三年から約百十余年後に日本は開国し、それから間もなく御公儀も消滅。さらにそれから八十余年後にアメリカという国と戦をし、敗北。そしてこの世界は、さらにまた六十年以上も経った未来だということだった。
つまり弾正とあの道で遭い、光に包まれた時から、つごう二百六十余年が経ってしまったという、まるで浦島太郎そのものの話になる。
もっとも、これらは書物を読んで得た知識ではなく、すべて菫から直接説明されて知ったことなのだが。
ともかくも何とか理解せむと、難解なところを我慢しつつ、一頁一頁読み進めようと努力を始めた。だがその努力も、じきに萎え、散って行ってしまう。気の行き先は、もっぱら宿敵・弾正に向かってだった。
気がつくと友五郎は、あの参道での失態を、何度もなんども繰り返し、脳裏で反復し続けていた。
がくがくと震える両の脚。しのぎを合わせることもかなわず、あっさりと捌かれる己が太刀。その瞬間、確かに見た弾正の薄ら笑い。
「ああ」と、思わず口から悔恨の呻きが漏れてしまう。なぜあそこであんな風に太刀を運んでしまったのだろう。どうして弾正の動きを読むことができなかったのだろう。そして何より、どうして自分はこのような奇態な場所に来てしまったのだろう。
駄目だ。せっかく開いた山川某の書を、友五郎は一刻もたたぬうちに閉じてしまう。
大きく嘆息をした。弾正を討つという目標は、故郷宇都宮を出た十年のうちに、自らの存在意義そのものとなっていた。それが、生き延びたはよいが、このようなどことも知れぬ異界へと流されてしまって、手も足も出しようがないとは。
そのとき、襖の向こうから、煮付けの匂いが漂ってきた。菫が晩餐の用意をしてくれているらしい。友五郎の腹はすかさずぐう、と反応を告げる。
友五郎の思いは弾正から離れ、ふらふらと夕餉、そしてそれを作る菫の姿へと移っていった。どうしてだろうか。梅に似た面差しの、菫が用意する晩餐は、見かけも味も全く違うのに、不思議とどこかしら懐かしい匂いがした。
襖の向こうから菫の声がした。
「友五郎さん。お夕飯ですよ。和木や大ちゃんとご一緒に、食卓で上がりませんか?」
「有り難い。菫どの」友五郎はゆっくりと立ちあがり、部屋を出た。