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12.一反木綿

「お前、読書傾向変わったな」


 ふいに声をかけられ、和木は持っていた本の表紙から眼を上げた。


 横に原書店の息子、原(ひろし)がエプロン姿で腰に両手をあてて立っていた。


 いつの間に染め直したのか、短い髪の色が、以前のカッパーからアッシュシルバーに変わっていた。色の白い大にはよく似合う髪色だ。なかなかにきまっている、と言いたいところだが、エプロンにでかでかとプリントされた、店主すなわち大の親父の手による、金釘流の店名ロゴが、奴のクールな外見をいちじるしくそこねていた。


 大とは、幼稚園以来の付き合いになる。同じ西新宿四丁目に育ち、同じ小中学校に通った幼馴染みというやつだ。高校からは別々の進路になったが、奴の家が小さいながらも一番近くにある本屋ということで、和木もちょくちょく利用したため、今にいたるまで仲が途切れず続いている。


「そ、そうそう、和木さあ。この間のライブの出来、どうだった?」


 来た。この質問が。


 大は緊張を面に浮かべ、和木の顔を見つめている。


「まあ、良かったんじゃないかと思うよ。俺は」


「そうか? そうなのか?」


 当たり障りのないよう返した言葉に、ほっと胸をなでおろしたように喜ぶ大の様子に、和木は少しばかり罪悪感を感じた。


 ――すまん。大。この間のライブも、俺には意味がわからなかった。


 大は高校時代にバンドを始めた。そして卒業してからも、こうやって店の手伝いをしながら、同じメンバーでずっとバンド活動を続けている。目標はメジャーデビューだ。


 大のパートは、ヴォーカルとサイドギター。当然のごとく、親友である和木にも、ライブのたびにチケットを回してくるわけだが、それを観にいくのは中々に苦痛な作業だった。


 正直、和木には、大たちのやっていることを理解できたことが、今まで一度もなかった。ジャンル的にはパンクの部類に入るのだろう、ということは、音楽にあまり詳しくない和木でも察することができた。だが演奏内容となるともうわからない。ギターとベースが合っていない。ベースはドラムと合っていない。ドラムはヴォーカルと合っていない。そしてやたら繰り返される単調なフレーズ。要するに単なる下手糞たちが集まって演奏しているようにしか聞こえない。


 大に言わせると、「ライヒがやっているように、意図的に拍をずらして、グルーヴ感を出してるんだ」ということだが、そのライヒとやらが何だかわからない和木にとっては、依然として大たちの演奏が理解不能なことにかわりはなかった。


 和木が大に感じている唯一の才能は、その容貌だ。


 小顔。切れ長の眼。細身の身体に長い手脚。色素の薄い肌と瞳。ロックミュージシャンの風貌としては、申し分ない、というか、抜きんでたものがある。実際奴の容姿を目当てにライブ会場へやってくる女の子も、ぼちぼちといるらしい。


 もっとも、その中身のほうは、ロック的とは到底言い難かった。はっきり言って大は、超がつくほどの小心者だ。テストの前、嫌な授業の前、大は必ず学校の大の方のトイレにこもりきりになった。今でもライブの前には、同じようにライブハウスのトイレを独占しているらしい。


 もちろん中で妙な薬などをやっているのではない。単純にびびって、腹具合をおかしくしているのだ。和木にライブの感想を訊いてくるときに、いちいち吃ってしまうのも、その小心のなすところなのだろう。


「そ、そういえばさ」またも吃りつつ、大が訊いてきた。「お前、この間彼女つれてきてくれただろ。志徒子ちゃんとかいう、綺麗な」


「ああ」


「あの人はさ、どんなふうに言ってた? 俺たちの演奏のこと」


「ええと、そうだなぁ」和木はしばし記憶を探る。「ああ、思い出したよ。そうだ。そう、凄くよかったって言ってたよ」


 嘘ではなかった。たしかに志徒子は、和木には意味不明のあの演奏の後、大たちのことをしきりに褒めていたのだ。


「そうか! で、何て言ってたんだ? 具体的に」


「ええと、何だっけ。そうそう、『どんな形にせよ、他人がやったことのないことをやろうとするのは偉い』だってさ。でもって、あともう少し、観客の気持ちになるようにしたら、もっとよくなるんじゃないかって」


 そうかあ、と言って大はとろけるような笑顔を浮かべた。どうやらよほど嬉しかったようだ。やはり、聴衆からストレートに褒められることは稀なのだろう。


「有難うよ。いい感想きかせてくれて」と、うるんだ瞳で言うと、大は再び和木の手元に眼をやり、

「それはそうとさ。その本だよ。お前の専攻って、こんなのだったっけ? それとも一般教養っていうやつ? どっちにしろ随分難しそうな本読むなあ」


 難解なのは、お前らの音楽の方だろう。そう思いながら、和木は自分でも気づかぬ間に手にしていたハードカバーの書籍を書架に戻す。本のタイトルは『パラノイアに憑かれた人々〈上〉ヒトラーの脳との対話』だ。


「それにお前、ひでえ疲れた顔してんな。大丈夫か?親父さんが逝っちまってから色々と大変なのはわかるけどよ、あんまり根詰めてバイトし過ぎると、身体壊すぜ?」


「別に無理しちゃいないよ」


「じゃあ何でそんなにやつれた顔してるんだ?」


「ちょっと、身の回りでゴタゴタがあってな。結構複雑なんだよ」


「何だかよくわかんねえ話だなあ」


「まあ、個人的な問題さ。邪魔したな」そう言って和木は専門書が入っている奥の書架から、店の出口へと歩き始める。大は後を追いつつ、


「何だ。何も買わねえのかよ。たまにはエロ本でも買えよ」


 和木は少しばかり呆れた口調で、「お前さっき、『うちが親なしで色々と大変なのはわかる』なんて労りの言葉くれただろうが。実際うちの家計はそれなりに大変なんだ。当然俺の小遣いも微々たるもんだ」


 じゃあな、と言って自動ドアのスイッチを押した和木に、大が後ろから声をかけてきた。


「おい、あのさ、す、菫さん元気か?」


 思わず和木は苦笑する。普段は「パンカーとしての俺」なんて言って恰好つけているくせに、菫の名前を口に出しただけでこのありさまだ。この男はつくづくわかりやすい。


「元気だよ。俺と正反対にな」


「じゃ、じゃあ、今度お前んちにゲームしに行っていいか?」


「ああ。別にいいよ。お前が来たいのならな。ちょうど今日俺、バイト休みだし」


 大はその夜、本当に高丘家にやってきた。


「おじゃまします」と、小学生のようにぺこりと頭を下げ、玄関を上がった先の階段を上がり、二階にある和木の部屋に入った。


「あのよう。和木」部屋に入るなり、大が言った。「何かさ、庭の物干しに、やたら細長い白いサラシみたいのがかかってたんだけどさ、あれって何? 一反木綿いったんもめん?」


「ああ、あれか」和木は疲れた声で答えた「何でもない。気にするな」


「そ、そうか? なら気にしないようにするけど」


 と言い、大は床に座り込んだ。だがそれきりで、ゲームをしに来たはずの大は、今入ってきたドアの方を落ち着かなげにちらちらと見ている。


「あのう、和木よ。菫さん、残業か?」


「いいや」


「じゃあ、どこかに出かけてるのか?」


 和木は大が違和感を感じた理由がすぐわかった。いつもならば、さほどに間を置かず菫が茶を持ってやって来る。だが今日は来ないどころか、玄関からここまで来る間に、一度も姿を見せなかったのを、大は訝しんでいるのだ。


「別に。どこにも出かけてないよ」


「じゃあ、どこにいるんだ?」


「親父たちの寝室」


「具合でも悪いのか?」


 いや、と和木は首を振った。「俺と違ってぴんぴんしてる」


「じゃあ俺、挨拶に行こうかな。おい、行ったほうがいいよな?」


 和木はじっと大の眼を見る。大はいつものように、照れ笑いを浮かべている。


 確か中学の頃からだったっけ。こいつが菫のことを過剰に意識、というかはっきり言って惚れはじめたのは。そして肝心の告白を愚図愚図と先延ばしにしているのは。


 以前、和木は大に、姉の菫のどこがいいのか、訊いたことがあった。


「な、何だよお前、失礼な奴だな」と少々むくれつつも、大は答えた。


「だってさ、完璧な女の人じゃんかよ」


 和木は驚く。和木の知っているかぎり、菫ほど完璧という言葉から遠い女はいない。


「だって綺麗だろ。それに声も可愛いし、何よりも優しいじゃないか。捨て犬を三匹もまとめて拾ってくるなんて、優しくないとできないことだと思うけど」


 あれは優しさというよりも、ふられた反動でやったんだ、と言おうとして、和木は言葉を呑み込んだ。大が、菫がふられたことを、いやそれ以前に男と付き合っていたことさえ知らないということを思い出したからだ。純真な親友がせっかく抱いているイメージを好んで壊すほど、和木は意地が悪くはなかった。


 和木はたっぷりと、大の気弱げな笑いを眺めた後、言った。


「本当に、姉貴に会いたいか?」


「あ、ああ」


「覚悟はできているか?」


「覚悟? どういう意味だよ」


「いや、昼間言ったように、うちは今、結構複雑でさ」


「はあ。そうなのか」


「でもお前は、俺の姉貴に会いたいんだな?」


「だからそうだって、さっきから言ってるだろうが」


 さすがに焦れたのか、大は苛立ったような口調になった。和木は弱く息を吐くと、


「わかったよ。じゃあお前の望み通り、姉貴に会わせてやるよ」


 * * *


 二分後。奥の間で。大は、畳に手をつき深々と頭を下げている寺田の姿を、ぽかんと間抜けたように口を開け見ていた。


 最近の寺田はあの土埃で汚れた袴と着物ではなく、さっぱりとした浴衣を身につけていた。花火大会のおりなどに、父が身につけていた浴衣らしい。


 大はスローモーションのようにゆっくりと口を閉じると、寺田の隣でにこにこと笑む菫を見、次に救いを求めるように和木の顔を見た。和木が黙ったままでいると、鯉が水面で息をするように口を数回開閉させた後、喉の奥から絞り出すようにして言った。


「う、で、あのう――結局こちらの方は、どちらさんでいらっしゃるんでしょう?」


「お前さっき、庭で一反木綿見たって言ってたろう?この人がそれ、六尺褌の持ち主だ」


 菫は微笑みつつ、「いやね、和木ったら。そんな変な紹介して。大ちゃん。さっきも友五郎さんがおっしゃったでしょう?こちらは下野国宇都宮藩からいらっしゃった、お侍の寺田友五郎行現さまよ」


 そして菫はまた笑みを浮かべた。


 はあ、と声を発した大の目の前で、寺田が下げていた頭をようやく上げ、口を開いた。


「いかにもそれがしは、菫どのの紹介にあった通りの、寺田友五郎行現と申す。訳あって一時、当家に寄宿させていただいておる。原どの、今後ともどうぞお見知りおきをお願いいたし申す」


「は、はあ、いや、その、どうぞよろしく、いや、こちらこそあの」


 しどろもどろでそう言うと、大はまた救いを求める眼で和木の方を見た。和木はゆっくりと首を左右に振った。残念だが大に出す助け船はない。


「しかし原どの」寺田が不思議そうな顔をした。「原どのは、ここに参る途中で、砂でもかぶり申したか。失礼ではあるが、頭が翁のように銀鼠色をしておるが」

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