1.血闘! 角筈村
すでに最後まで書き終えています。
完結保証です。
毎日1~3回ずつ投稿していく予定です。
夕風が足元に茂った草の葉を揺らしていく。
参道の端に身をひそめてから、もうかれこれ二刻がたつだろうか。昼は景勝地として多くの客でにぎわう新宿は角筈村、熊野十二所権現社の本殿へとむかうこの道も、今では人通りもとだえぎみで、名物の滝の音にまじって十二社の池にすむ蛙たちの盛んに啼き競う声がきこえるばかりとなっていた。
いよいよあの男と今日、相まみえる。
ここに立ってから何度目だろう。胸に浮かんだその言葉に、今ふたたび友五郎は武者震いをおこした。
――お前の剣術は、実戦では役にたたぬ。
言葉が脳裏をよぎる。城下の直心影流道場内では、もはやかなう門弟がいないほどに成長していた友五郎に、父・東市郎が語った台詞だ。そのときは理解できなかった意味が、今では嫌になるくらいよくわかった。命を張るという武士に当然とされる覚悟の真実を味わうことなく、ただいたずらに諸国をさすらうだけで今日まできてしまった己の不覚を、友五郎は心から呪った。
怖気はいよいよ強まり、足元からしだいに上に這いあがってこようとしていた。
懐に手を入れ、もはや己の肉体の一部ともなっている護符に手をふれた。故郷、下野国宇都宮を出るときに、菩提寺の住職である怡渓からさずけられた護符だ。今まで幾多の心細きときに、これにふれることで助けられたことか。
しばらくの後、ほっと人心地つき眼をあけると、掌が白くなるほど強く握りしめていた拳を開き、父譲りの無銘の刀の柄にそっとそえた。
この十年、友五郎はある男を父の仇として追いつづけていた。仇人の名は、服部弾正景直。
悪逆無道の凶漢であり、同時に並々ならぬ剣の腕を持つ男だった。
その弾正らしき男が一昨日、国領から高井戸の方へと甲州街道を上っていったとの情報を得たのは、わずか一日前の朝のことだった。
教えてくれたのは、以前より甲州街道を行き来するたびに馴染みにしていた国領の旅籠の主人、卯吉だった。
卯吉によれば、前に友五郎が語ってきかせたとおりの特異な容貌の男が、白装束に金剛杖という山伏姿であらわれ、旅籠に一泊した後のんびりとした足どりで東にむかって発っていったという。
友五郎はすぐに思い至った。その男は弾正に違いあるまい。奴は江戸への道をむかっている。おそらく次の宿場、高井戸にて一泊程度したのち、日本橋へと向かうのではないか。
問題はその次だ。高井戸と日本橋との間は、四里二町ある。これは弾正にとっては、面倒な距離だ。本来の奴ならば、その中間地点あたりで宿をとるだろう。
だが、かつてそこにあった内藤新宿は、享保三年に幕府の命により現在廃宿となっていて、茶店はあっても、旅籠はない。となると、高井戸から日本橋までを通して歩くしかないが、あくまでもかりそめの姿として山伏をまね、諸国をうろついているだけの弾正がそんな急ぎの旅を好んでするはずはない。おそらくは一泊程度をたのみに、いずこかの寺社を訪れるに違いない。
友五郎はその場所をここ、旧内藤新宿より一歩手前の村、角筈にある熊野十二所権現社と見当をつけたのだった。
大きな賭けだった。もしも弾正の足取りが予想と違っていれば、この十年間においての最大の好機を逃すことになる。だが友五郎には不思議な確信があった。弾正は必ずやってくる。平然と、自らを熊野三山からの修験者と偽り、一夜の宿泊を求めに、社に向かってこの参道を歩いてくることだろう。そのとき自分は討つのだ。父の仇を。
いつの間にかまた、刀の柄を握る手に力がこもっていた。手を離し、袴で掌の汗をぬぐおうとしたそのときだった。参道の入口、甲州街道のほうから、足音が聞こえてきた。
友五郎は慌てて眼をやる。夕闇の中、白装束の男が、参道をこちらに向かってこようとしていた。六尺をこえる身の丈、男とは思えぬほどに白い顔、どこにいても目立つであろう、赤毛の総髪。間違いなく、弾正だった。
友五郎はまろぶようにして道の端から出ると慌ただしく刀を抜き放ち、このときのために何度も心の内で繰り返していた言葉を叫んだ。
「そ、それがしは下野国宇都宮、寺田東市郎の子、寺田友五郎行現なり! 我が父の仇、服部弾正景直! いざ、覚悟を!」
自分でも驚くほどに、声がふるえていた。いや、声だけではない。頭から爪先まで、全身ががたがたと怖気をふるっていた。
だが今は千載一遇の好機。たとえ死すとも、絶対にここで退くわけにはいかない。友五郎はわななく手で刀をかまえると、遮二無二弾正へと斬りかかっていった。
刀を振り下ろそうとしたそのとき、友五郎は見た。弾正の口もとに浮かんだ、明らかな嘲りの笑みを。
瞬間、弾正は目にもとまらぬ速さで手にした金剛杖から中に仕込んでいた二尺の刀身を引き抜き、友五郎の放った一撃を、いともあっさりと右に捌いてみせた。一瞬のうちに死に体となった友五郎に向け、今度は弾正が大きく振りかぶった。
――いけない!
もはやこれまでか、と思い瞼を閉じようとしたときだった。突如として眼に、真昼のような光が飛び込んできた。
気づくと弾正までもが振り下ろそうとしていた剣を止め、驚きに眼を見開いていた。
友五郎は光の源に気づく。光は自分の懐の中からほとばしり出ていた。
護符だった。弾正を追いつづけたこの十年間、肌身離さず身につけていた護符が、四方八方へと、稲妻のようにまばゆい光の束を撒き散らしていた。
驚いている間にも、みるみる光量は増していく。
「あっ、あっ、ああああああっ」意志とは関係なく、自分のものと思えぬような声が喉から出た。
脳天の奥にまで届きそうなほどの激しい光芒にさらされながら友五郎は思った。これはただの光ではない。光の姿をした、未知のなにものかの奔流だと。
圧倒的な眩さに、何もかも、自らの意識さえも押し流されそうになる恐怖が押し寄せる。
やがて友五郎は気を失った。
視界が暗転する瞬間、亡き父と、母と、故郷を出るときに別れた梅の顔が思い浮かんだ。