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31 ドラゴンの翼の折れる日 レオン編



 次が最後のレースになるだろう――


 そう獣医からの言葉を聞いた時、頭の中が真っ白になった。


 もっと前からわかっていたつもりだった。

 わかっていたつもりなのに、現実を受け止める事がこんなにも出来ないだなんて思ってもみなかった。


 コトン、というテーブルにコーヒーが置かれた音で、俺はようやく意識を取り戻した。どうやらしばらく放心していたらしい。


 いつの間にか獣医は椅子に座り、湯気の出ているコーヒーを啜っていた。


「そこ、座って飲んでいけよ」


 テーブルを見ると、俺の分までコーヒーを注いでくれていたようだ。全く気付いていなかった。

 コーヒーからは暖かそうな湯気が立っている。


「……この後の診察はいいのか?」


「今日はお前ん所で最後だ」


 あくまで獣医は淡々とコーヒーを啜っている。

 口をコーヒーに近付ける度にメガネが湯気で曇っているが、慣れているのだろう、特に気にしていないようだ。


 俺は言われるがままに腰を下ろした。


 木製のスツールがギシリと軋む。


 頂いたコーヒーを少し啜ると、熱すぎて味がしなかった。少し遅れてやっと苦味がやってくる。


「ミルクも砂糖も無いぞ」


 獣医はぶっきらぼうに呟くと、再びどこを見ているのかわからない様子でコーヒーを啜った。


 少し薄暗い部屋には雨音だけが響いている。時折風に煽られて雨粒が窓に叩きつけられていた。

 特に会話することもなく静かな時間だけが過ぎていく。


 きっとこれは獣医なりの気遣いなんだろう。彼は今まで、幾度となく俺のように舞台から去っていく人間を見てきたはずだ。彼にとってこれは見飽きた光景なのかもしれない。


 俺はコーヒーカップを両手で包んで、見つめた。

 今までいつか舞台から降りる日が来ると、わかっていたつもりだった。でも心のどこかで、自分なら大丈夫。その日はまだずっと先にある。そう思い込んで自分を安心させていた。


 俺自身、もういい歳だ。同じ時代を生き抜いたライバル達はもうみな引退してしまった。

 いよいよひとつの時代が終わる、という事なんだろう。俺が望もうと、望むまいと。


「煙草いいかい」


 獣医は尋ねながらも煙草に火を付けた。

 ふぅ、と煙を吐き出すと、止まった空気の中に煙は留まり続けた。


「……意外だな、あんた煙草をやる人間だったのか」


「仕事中は吸えないから、1日の仕事を終えた後にだけ許された唯一の趣味だよ」


 獣医は再び煙草に口をつけると、天井を向いて煙を吐き出した。


 思えばこの獣医とも長い付き合いになる。

 俺が自分自身の飛竜を手に入れた時、コイツは先代について回る見習いだった。それからの付き合いだから、もうかれこれ10年以上の付き合いになる。

 あの頃はお互いに若かった。今はお互いに歳をとった。


 ふぅ、と煙を吐くという行為は、単なる所作なのか、深い溜め息なのか、見分けがつかなかった。

 獣医は煙を吐きながら口を開いた。


「昔はいろんなライダーがいたよな。圧倒のハリー、閃光のフラウ、飛ばし屋ジョナサン。いろんな奴がいすぎてレース結果も全く読めなくてさ。随分と金を溶かされたもんだ」


 どこか懐かしそうな顔をしている。


「あの頃はだいたいハリーに賭けてたら何とかなっただろ」


「わかってねぇな、あんなオッズの低い奴に賭けても全く儲からないじゃないか。買うなら夢のある竜券しか買わないってのが勝負師ってやつだろ」


「それで金を溶かしてりゃ世話ないけどな。じゃあ最近は勝てるようになったのか?」


「いいや、ずいぶんと前にキッパリ辞めたよ。女房に本気で怒られてな。それから俺の趣味はこの煙草だけだ」


 獣医はそう言いながら手に持つ煙草を宝物のように眺め、根元ギリギリまで丁寧に吸ってから、灰皿に押しつけた。


「次のレースで最後だ。もうこれ以上は翼が負荷に耐えられなくなる。レース中に骨の折れたドラゴンがたどる悲惨な末路は知ってるだろ」


「わかってるよ。あぁ、わかってるよ」


 自分に言い聞かせるように、呟く。


 獣医がコーヒーを飲み干した。話はもう終わりという合図だ。

 俺もぬるくなったコーヒーを一気に流し込んだ。


「悪かったな、ありがとう」


 そう言い残して席を立った。


 外套を着こんで診療所のドアを開けると、外はまだ雨が降り続いていたが、俺の飛竜バルーシが翼を広げて傘にしてくれていた。


 バルーシは出てきた俺を待ちわびていたと言わんばかりに目を細め、顔を擦り寄せてくる。

待たせて悪かったな。お前は本当に賢くて優しい奴だよ。


 目の周りを撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らした。


 どうにかして、なんとしてでも、最後のレースくらいコイツを勝たせてやりたい。そう思うと感傷的になっていたのか目頭が熱くなったが、ライダーが泣いていいのはレースで勝った時だけだ。


 外套のフードを目深に被って鞍に乗り込んだ。


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