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四月十五~十九日 心美

 とても刺激的な経験だった。


 昼食のテーブルで真紀さんが語った、カーテン切り裂き事件への考察。内容は一般論の域を出ないもので、さほど踏み込んだ推理が披露されたわけではなかったけれど、それでも、私は言葉では表しつくせないような興奮を覚えた。


 私が起こした事件について、真紀さんが考える。

 思考、推測、洞察。

 それは、日常における言語を用いた会話などより遥かに高次元の、より深い領域での対話であるように感じられたからだ。

 彼女が思考を巡らす間、彼女の頭の中は私でいっぱいになる。私がいつどうやって、何のためにあんな行為に及んだのか。彼女の意識が私の意思をトレースし、分解し、再構築する。それは彼女が私になり、私が彼女になる、崇高な同化のプロセスであるようにも思われた。


 一糸纏わぬ姿の私と真紀さんが、触れ合い、溶け込み、重なり合って、一つになる。そんなイメージが、ふと脳裏に浮かんだ。

 想像しただけでもゾクゾクしてくる。

 もっとだ。もっと。

 もっと事件を起こしたい。

 彼女の頭の中を私で埋め尽くしたい。



 それから数日後。

 あれだけ学内を震撼させたカーテン切り裂き事件もいつの間にか全く話題に上らなくなり、漫研の部室には新しいカーテンがかけられて、青梛大学三内キャンパスはすっかり平穏な日常を取り戻した。人が死んだわけでも怪我をしたわけでもなく、事件というよりただの悪戯の域を出ないものだから、まあこの程度だろう。別に、自己顕示欲や承認欲求のためにあの事件を起こしたわけでもないのだし、彼女以外の人間には、むしろ忘れられたほうが好都合なぐらいだ。


 昼休みを利用して、私は再び事件のあったサークル棟にやってきた。

 といっても、今回の目的は漫研の部室でもカーテンを切り裂くことでもない。目当ては、サークル棟一階の入り口から最も近い部屋。かつて、今は亡き兄が所属していたサークルの部室として使われていた部屋だ。

 まともな活動は皆無で、実質飲みサー、ヤリサーとなっていたそのサークルにも、表向きは『社会心理学研究会』などという大層な名前がついていて(実際、社会心理学の中に恋愛を扱う分野は確かにあって、その方面のいかがわしい本もよく書かれているらしい)、サークル棟に部室まで与えられていた。飲み会や夜遊びがそのフィールドワークの一部というふざけた理屈。物は言いようだ。


 だが、兄の死、そしてサークルメンバーの数名が惨殺される事件などが相次いだこともあり、サークルは自然消滅した。それ以降、この縁起の悪い部室をどの部も使いたがらなかったため、サークル棟玄関から最も近いという使い勝手の良さもあって、ハサミやメジャーなどの小物を始め、色々なものが押し込まれた物置となっているらしい。


 兄が生前使っていた部室ということもあるし、今はどうなっているのか、ちょっと中を覗いてみたかった。私が足を運んだのは、ただそれだけの理由だ。

 サークル棟は四階建ての大きな建物で、部屋数は少なく見積もっても三十は下らないだろうけれど、大学本部や学部棟の洗練されたイメージと比較すると、若干古びた印象が拭えない。

 昼休みのサークル棟はほとんど人がおらず、あまり他人に姿を見られる恐れはなさそうだ。おそらく、学生の大半は、昼食をとりに学食や外へ出ているのだろう。今は別に殊更人目を憚るような理由もないのだけれど。


 サークル棟に入ると、目の前には長い廊下が伸びていて、左右に引き戸がいくつか並んでいる。数日前、私がカーテンを切り裂き事件を起こした漫研の部室は、正面の廊下の左側一番奥にある。目的の元部室は、向かって左側の一番手前の部屋だ。


 扉を開けて中に入ると、意外と空気が淀んでいないことに驚いた。物置というからには、もっと埃っぽかったり、カビ臭かったりするだろうと予想していたのだが。

 広さは十二畳ほどで、間取りは漫研の部室と全く変わらない。正面には大きな掃き出し窓があり、サークル棟の外に植えられている桜の木が見えた。


 物置として使われているだけあって、中は雑多なもので溢れかえっている。向かって右側の壁には工具や文房具などの小物類がびっしり収められたスチール棚が並んでいた。左側の壁沿いにも同じ高さのスチール棚がいくつか並び、ビニールシートやスコップ、鎌、ロープ、小さな手斧などの外の整備に使う道具が押し込まれている。スチール棚の上には、束ねられた数本の鉄パイプが乗せられていた。天井には二本一組のありふれた蛍光灯。長い間放置されているのか、だいぶ汚れている。

 床に目を転じると、そこには折り畳まれたパイプ椅子やテーブルが平積みにされていて、他にもコーンやら立て看板やら、何に使うのか一目ではわからない、奇妙な形をしたオブジェのようなものまであった。

 だが、部屋の中央にはちょっとした空間があって、この部屋のキャパシティにはまだ余裕がありそうだ。もしかしたら、冬になったら外に置いておけないようなものがここに収まるのかもしれない、と私はぼんやり想像した。しかし、いずれにしても、部室として使われていたころの面影はどこにも残っていない。


 周囲を観察しながら部屋の中ほどまで進んだところで、私はふと、人の気配を感じた。まさか、物置で人の気配なんて。すかさず周囲に視線を走らせる。

 入り口の扉は開けっ放しにしてあるから、偶然廊下を通りがかった者がいたとしてもおかしくはない。だが、廊下に首を出して確認してみても、人の姿はどこにもなかった。そのまま扉を閉めてみたが、それでもまだ、何者かの視線を感じる。

 私は次に、扉から見て正面の位置にある掃き出し窓へと駆け寄った。この部屋にはカーテンなどかかっておらず、外から中は丸見えの状態だ。つまり、外から誰かに見られている可能性は大いにある。クレセント錠を回し、ガラスの窓を開けて外の様子を窺ってみる。が、そこにも人影はなかった。


 気のせい……? いやまさか……。

 掃き出し窓を閉めて再び鍵をかけ、振り返ると、スチール棚の横に小さく身を縮こまらせながらしゃがんでいる、気の弱そうな女の姿が目に飛び込んできた。

 驚いた私は、その場でわずかに身を引いた。女は微かに震えながら、蚊の鳴くような声で、


「ごめんなさい、脅かすつもりはなかったんだけど、びっくりしちゃって……」


 最後の方はゴニョゴニョとしか聞こえなかったが、私はこの女に見覚えがあった。数日前、メークイン堀江梨子と一緒に私を文芸部に勧誘しに来た女。二年生で、名前は……たしか、キタアカリ織原伊都子。


!i!i!!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i


 私は織原伊都子と一緒に、部屋の中央のスペースにパイプ椅子を出して、少し話をした。彼女に興味が沸いたわけではない。ただ、なまじ顔見知りであるだけに、そのまま立ち去るのはあまりに気まずかったからだ。場所を移動するべきかとも思ったのだが、一応上級生である彼女が先にパイプ椅子を出して座ってしまったため、移動しようとは言い出せなくなった。


 織原伊都子は青梛大学文学部の二年生。身長はおそらく150センチ前後で、私よりも頭一つ低い。黒髪はショートともセミロングとも言えない中途半端な長さで、あまり手入れをしているようには見えなかった。血色が悪く見えるほどに肌が白く、黒縁眼鏡の奥からは一重の小さな目が覗いていて、緑のパーカーにデニムのガウチョパンツという服装。率直に言って、とても地味な女だ。


「あなた、一年の袴田心美さん……ですよね?」

「はい。あなたは、織原伊都子さん……でしたよね、梨子っちと一緒に文芸部の勧誘に来た……」

「えっ、覚えてるんですか? 私のこと。結局私、あの場ではほとんど喋らなかったのに」


 言われてみれば、彼女の声を聞くのはこれが初めてかもしれない。二人が経済学部棟までわざわざ勧誘に来たときは、堀江梨子がほとんど一方的に喋り倒していた記憶がある。彼女の名前だって、梨子に『この子、うちと同じ学年の織原伊都子』と紹介されただけで、それを運良く覚えていたにすぎないのだ。


「もちろん、覚えてますよ。小さくて、可愛らしい人だなって……あっ、上級生に対して、これは失礼かな」

「ううん、そんな、失礼だなんて……私、実際こんなちんちくりんだし……袴田さん、すごい綺麗だし、人気者だし、私のことなんか覚えてないと思ってたから……」

「まさか。私、人の顔と名前を覚えるの、得意なんです」

「そうなんだ……すごいね、だから人気者なんだね……私の名前なんか、文芸部でも知らない人がいそうなぐらいなのに……」


 だろうな、と私は思った。芋の記憶術を使っていなかったら、私も間違いなく忘れていただろう。記憶に残っていたとしても、せいぜい『堀江梨子と一緒にいた女』ぐらいなものだ。

 織原伊都子は小首を傾げながら言った。


「でも、袴田さん、どうしてこんなところに?」

「実は私、一昨年兄を亡くしているんです。当時、兄は青梛の三年生でした。夏季休暇中に、うちの別荘で、自ら命を絶って……ご存じですか? この部屋、去年までは『社会心理学研究会』っていうサークルの部室だったんです。私の兄もそのサークルに所属していて……」


 すると、彼女は気まずそうに目を伏せた。


「そ、そうなんですか……ごめんね、辛いことを思い出させちゃって……」


 年下の私に対してもタメ口になりきれない点に、とても気弱な印象を受ける。地味で弱気な見た目そのままの性格だと考えてよさそうだ。こういうカースト下位固定タイプのコミュ障人間は、ちょっと親身に話を聞いてやるだけで仲良くなったと勘違いしてくれるから、何より楽でいい。


「織原さんは、どうしてこんなところに……?」

「実は、これ……」


 彼女はそう言って、足元に隠していたビニール袋を取り出した。どこにでもあるコンビニのレジ袋だ。


「お昼ご飯、食べようと思って……」

「えっ、ここで?」


 私は思わず辺りを見回した。窓のすぐ外に桜の木があるから、桜の見頃なら隠れた花見スポットぐらいにはなりそうだったが、食事をとるのに適した場所だとは言えない。


「……その、私、梨子ちゃん以外、一緒にお昼ご飯食べられるような友達がいなくて……梨子ちゃんがいないときは、いつも一人で食べてるんです。でも、一人で食べてるところを人に見られるの嫌で……その、トイレでお昼を食べたこともあって」


 いわゆる便所飯というやつか。私には全く理解できない心理だ。

 

「でもね、私文芸部で、部室がこのサークル棟の中にあるから、この部屋の前はよく通ってたんだけど……この間、昼休みになんとなく覗いてみたら、トイレよりはここの方がよさそうだなって……ここ、昼休みはほとんど誰も来ないから。だからね、別にここにあるものを盗もうとしてたとか、そういうんじゃなくて」


 なるほど、やけに喋るなと思っていたら、何か盗みに来たと疑われるのを心配していたわけか。


「へえ……確かにここ、静かでいいところですね。春には桜も見られるし」

「でしょ。でも、袴田さんみたいな人気者は、こんなことで悩んだりしないんだろうな……」


 出た、面倒臭いネガティブ思考。こういう発言が最も厄介で、言い方に妬みや嫉みのニュアンスが込められている場合、返答には細心の注意が必要となる。


「いいえ、そんな……私、本当は一人で過ごすのが好きなんです。大学に来ると、なかなかそうもいかないんだけど……静かなところでゆっくりするのが好き」


 これは、嘘偽りのない本音だった。


「えっ……そうなの?」


 伊都子は目を丸くした。意外なところで共通点を見せてやれば、こういうタイプはすぐに懐く。


「私も時々ここに来てもいいですか? もし、織原さんが嫌じゃなければ、ですけれど……」


 これは嘘だった。こんな薄汚い場所で昼食なんて私には到底考えられないが、リップサービスとしてはコストパフォーマンスの極めて高い言葉だ。旅番組で地方に行った芸能人が『また来たい』と言うのと同じである。少し頭が回る人間なら嘘だと気付きそうなものだが、彼女は少し身を引いて、首をぶるぶると横に振った。


「ええっ!? い、嫌だなんて、そんな……こんなところでよければ、私なんかでよければ、その……あ、あの、別に私がこの部屋の所有者ってわけでもないんだし、その、喜んで!」


 たったこれだけの言葉で頬を赤らめる伊都子を見て、なんと無邪気な、と私は思った。しかし、だからこそ扱いやすい。こうまで素直に真に受けてくれれば、嘘も吐き甲斐があるというものだ。


 その時の私は、まさか本当に私がこの物置に何度も通うことになるなんて、思ってもみなかった。

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