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四月十五日 瞬

 その翌朝、いつものように小雨と二人で大学の構内を歩いていると、小雨の友人である堀江梨子ちゃんが、何事か叫びながらこちらへ駆け寄ってきた。


「小雨ちゃん小雨ちゃん! ちょっとちょっと!」


 このそこはかとない既視感は何だろう。大声を出しながら走ってきた彼女は、俺たちのそばまでやってくると途端に声を潜める。それはまるでカラオケボックスから図書館にやってきたかのような落差だった。

 青葉に来てからもう一年以上経つはずなのに、梨子ちゃんは北九州弁が全く抜けていない。独特のイントネーションで、しかも早口でまくし立てるため、俺には何を言っているのかほとんど理解できないのだ。だから、彼女との会話は大体、通訳の小雨を通して行われる。今回も俺は梨子ちゃんに軽く頭を下げただけで、その応対は小雨に丸投げした。ここ最近、英語の翻訳アプリはかなり高性能なものが開発されてきているが、今度は高性能な北九州弁翻訳アプリの登場が待たれる。同じ日本の言語なのだから、英語より簡単なはずなのに、これがなかなか出てこないのだ。

 それはさておき、金曜の夜に一番忙しくなる類のバイトをしている梨子ちゃんが、土曜の朝から大学に来ているのは、なかなか珍しいことだった。彼女は挨拶もそこそこに話を切り出す。


「小雨ちゃん、聞いた? 今朝の事件」

「事件……? なに、それ?」

「あれ、まだ聞いとらんと? サークル棟の」


 俺と小雨は互いに顔を見合わせた。たった今大学に着いたばかりなのだから、事件も何も、という感じである。


「……ううん、何にも」

「サークル棟の漫研の部室で、カーテンがズタズタに切り裂かれとるっちゆうて、朝から皆でったん騒いどるよ」

「え、カーテンが……? なに、それ」

「うちもこれから見に行くけ、二人も一緒に()ぃ!」


 梨子ちゃんに連れられてサークル棟につくと、周辺は既に野次馬でいっぱいになっていた。

 青梛大学三内キャンパスのサークル棟は四階建て。玄関から中に入ると正面に長い廊下が続いており、その中ほどから左右に折れる廊下が二本伸びている。カタカナの『キ』をイメージしてもらえばわかりやすいだろうか。二階から四階も基本的な構造はほとんど同じ。廊下の左右の壁には等間隔で引き戸が並んでいて、その中が各部活の部室として使われているというわけだ。

 キャンパス内には他にもサークル活動関連施設はあるのだが、このサークル棟を使っているのは主に文化系のサークルで、小雨と梨子ちゃんが所属する文芸部の今年度新たに獲得した部室は、この建物の三階にあった。

 事件の舞台となった漫研の部室は、サークル棟の玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の一番奥、その左側に位置している。サークル棟の内部は外よりもさらに人でごった返していて、俺と小雨と梨子ちゃんは必死に人混みをかきわけながら、どうにか一階の漫研部室前まで辿り着いた。

 部室の入り口の扉は開け放たれており、数人の学生がスマートフォンを構えて現場の様子をカメラに収めている。俺たち三人は背伸びをして、前に立つ学生の頭の隙間から中を覗き見ようとしてみたが、なかなかうまく部屋の全体が見渡せない。梨子ちゃんが目の前に立っていた男子学生に声をかけた。


「ちょっとあんた、写真撮ったんやけもう見んでもいいやろ、うちらにも見して!」


 すると、男子学生は彼女の方を振り返りもせず、吐き捨てるように言った。


「うるせえブス」


 梨子ちゃんの名誉のために言っておくが、彼女の容貌は客観的に見てもかなり整っているほうだ。梨子ちゃんは声を荒げ、その男子学生に罵声を浴びせた。


「ああ? なんちきさん? ぶちくらすぞコラ!」


 北九州弁は怖いと言われる所以である。梨子ちゃんの甲高い声が響き渡ると、騒がしかった周囲の野次馬たちは、一転して水を打ったように静まり返った。件の男子学生は身を縮こまらせて、憐れに思えるほど怯えた表情でこちらを振り返る。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだ。


「す、すみません……どうぞ……」


 男子学生は震えながら一人分のスペースを梨子ちゃんに明け渡した。いや、一人分だけではない。梨子ちゃんの怒号に恐れをなした他の学生たちも、顔を強張らせながらおずおずと退いてゆく。俺と小雨は小声で『すみません、すみません』と呟きながら、モーゼに導かれたヘブライ人のように、その空間に身を寄せて中を覗きこんだ。


 部室の中には、漫研の部員と思しき二、三人の男子生徒が呆然と立ち尽くしていた。

 広さは大体十二畳ほどだろうか、ドアから見て正面の壁には大きめの掃き出し窓があって、その向こうに、既にすっかり葉桜となった桜の木が見える。切り裂かれたのはこの掃き出し窓にかかっていたカーテンだ。このサークル棟にある部室は全てこことほぼ同じ間取りだが、二階から四階まではこの掃き出し窓が普通の大きい窓に変わっていて、そこだけが相違点となっている。

 壁に沿って並ぶスチール棚にはびっしりと種々のマンガ本が押し込まれていて、ちょうど棚の陰に隠れているところには、十八禁のエロ漫画もこっそりと置いてある。部屋の中央にはありふれた木製のテーブルがあり、リノリウムの床の上には、昨日の夕方まではたしかにそこにかかっていた白いカーテンが、紙吹雪のように細かく切り刻まれて散乱していた。



!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!



 昼休み、俺と小雨は、いつものように真紀と合流して、学食で昼食をとった。

 漫研のカーテンの事件は既に学内全体に知れ渡っており、現場を見ていない真紀の耳にも、おおよその状況は伝わっているらしい。平穏なキャンパスライフにこれ以上話のタネとなる事件などあるはずもなく、ごく自然に、話題は切り裂かれたカーテンのことに移っていった。


「漫研は昨日の夜、居酒屋で新歓パーティを開いていて、部室を使ったサークル活動はなかった。昼間に一度、部員の一人が忘れ物を取りに行ったそうだけど、その時点では、カーテンに異常はなかったと証言している。部室は戸締りされておらず、サークル棟の入り口も開放されてるから、誰でも出入りは可能だった……あ、それと、昨日はたまたま他にも新歓をやったサークルが多かったから、漫研に限らず、サークル棟全体にあまり人がいなかったみたい。状況を整理すると、そんなところかな」


 真紀がオムライスにスプーンを差し込みながら言った。なんだか、ミステリ的な考察がすっかり板についてきたように感じられる。小雨も同じことを思ったのか、真紀を少し茶化すような口ぶりで、


「それで、素人探偵としては、今回の事件をどう見てるの?」


 と言ってから、野菜炒め定食の味噌汁をすすった。探偵と呼ばれるのが照れくさかったのか、真紀は苦笑いを浮かべる。一口分のオムライスが乗ったスプーンは、まだ皿の上で待機中である。


「探偵なんて、そんな……それにこれは単なるイタズラだろうし、たぶん事件性はないよ。大学本部も被害届は出さないことにしたらしいし、犯人を絞り混む条件が少なすぎる。何にも考えようがない」

「真紀の頭脳をもってしても犯人はわからないか……」

「うん、残念ながらね」


 ここでようやく、オムライスの一すくいを背負ったスプーンが真紀の口に(いざな)われた。ちなみに、俺の今日の昼食は塩ラーメンである。ここの学食は、値段の割に味はそこそこいいのだが、とんこつラーメンがメニューに載っていない点が少々残念なところだ。


「あら、皆さん、お揃いですか?」


 探偵、事件、被害届などと物騒な話題に支配されていたテーブルを、そよ風のように爽やかな声音が吹き抜けていく。声のした方を振り返ると、そこにはトレイを持った心美ちゃんが立っていた。


「あ、心美ちゃん。心美ちゃんもこれからお昼?」

「はい、たまたま皆さんの姿を見かけて……」

「じゃあ、一緒に食べましょうよ。ほら、そこの椅子空いてるし」


 真紀はそう言って、四人席で一つだけ空いている椅子、つまり小雨の隣の席を指差した。小雨は真紀と対面の位置に座っているから、必然的に、心美ちゃんは俺の向かいの席ということになる。


「いいんですか……? じゃあ、失礼します」


 心美ちゃんのトレイに乗っているのは、真紀と同じオムライスだった。


「何のお話をなさっていたんですか?」

「心美ちゃんは聞いてない? あの、サークル棟のカーテン切り裂き事件」


 真紀が尋ねると、心美ちゃんはそのつぶらな瞳を大きく見開いた。


「……えっ、何ですか、それ?」


 俺と小雨が現場の状況を説明し、先程と同じように真紀が事件の概要をまとめると、心美ちゃんは不安そうに眉をひそめた。


「そんな事件が……。怖いですね。そういうのって、やっぱり普段の生活でストレスを溜め込んでいる人がやってしまうんでしょうか……」

「どうかしら。手がかりがなさすぎて、まだ何とも言えないな。漫研に強い恨みを持っている誰か、あるいは、漫研の部員の中で、部に不満を持つ誰か……ありがちなのはその辺かな。あと、カーテンに対して異常な執着があるとか、布を切り裂くことに興奮を覚えるとか、そういう特殊な性癖を持った人間による仕業である可能性もないとは言えない。サイコパスとかね」

「サイコパス……ですか?」

「そう。例えば殺人願望とか、非常に強い破壊衝動を内に秘めていて、その代償行為として小動物を殺したり、物を破壊したり。大量殺人犯……いわゆるシリアルキラーは、実際に人間を殺める前に、小動物を虐待したり、放火や窃盗を行うとも言われている。シリアルキラーの大半は男性だという統計もあるね」


 真紀が最後に余計な一言を付け加えたせいで、三人の視線が一斉に俺に向けられた。


「いや、ちょっと、俺はシリアルキラーじゃないし、カーテンを切り裂いたりもしてないぞ」

「でも、少なくとも、病的に嘘つきではあるじゃない? 息を吐くように嘘をつく。それもサイコパスの一つの特徴らしいよ。実は隠れて浮気とかしてたりして」

「ゲフッ!」


 真紀は意地の悪い薄笑いを浮かべながらそう言った。それは明らかに冗談めかした口調だったのだが、それを聞いた小雨は激しく噎せ始めた。内容が内容だけに、ちょうどご飯をかきこもうとしていた小雨の誤嚥を誘発してしまったようだ。

 ……いや、自分自身が当事者の一人でありながら、一連の会話に対して他人事のように述懐している俺には、真紀の言うとおり、確かにサイコパスの傾向があるのかもしれない。小雨の背を隣の心美ちゃんが優しくさすり始め、その様子を見て、真紀が小雨に声をかける。


「あら、小雨、大丈夫?」

「ゲフッ、ゲフッ……うん、平気平気、もう大丈夫……あ、心美ちゃん、ありがとね」

「ほら、きっとあれだよ。春っておかしな人がたくさん出るでしょ? 桜の花粉にはエフェドリンっていう物質が含まれていて、人を興奮させる作用があるんだって。カーテンの件はさ、そのせいで、なんかこう、ムラムラっときてやっちゃっただけだと思うよ。はい、この話は終わり!」


 真紀がやや強引に会話を断ち切り、話題は学食のメニューに関する事柄へと移っていった。

 会話の中で、真紀はよく突然話題を変える。この話は終わり、とはっきり区切られるのはまだマシなほうで、大抵の場合、テレビのチャンネルを切り替えるみたいに、一瞬で全く別の話題に切り替わってしまうのだ。

 ついさっきまでこのテーブルではサイコパスやらシリアルキラーやら物騒な単語が飛び交っていたはずなのに、今はもう、ここの味噌汁はしょっぱすぎるとか、オムライスはデミグラスソースのほうがいいとか、新入りの心美ちゃんに対してそんな他愛もない話をしている。彼女の頭の中で、カーテン切り裂き事件と学食の味噌汁の味とオムライスのケチャップ・デミグラス問題が同列に扱われているのだとしたら、そっちのほうがよっぽどサイコパスじみているのではないかと思うのだが、どうだろう。ちなみに俺はケチャップ派である。


「ねえねえ瞬、そういえばさ、この間、山根さんからケチャップアート(※)の新作ができたよ~って画像が送られてきたの。見るよね?」


(※)シリーズ五作目『夢遊少女は夜歩く』参照

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