四月十四日深夜 心美
幼い頃から、私は自分が女であることに疑問を持っていた。
お淑やかにしなさい。足を広げちゃだめよ。身だしなみには気をつけて。優しい私の母親は、私がまだ幼いころから、私を一人前のレディにするべく教育を施した。今よりずっと活発な子供だった私は、それを苦痛に感じていたのだ。
どうして、と私が尋ねると、返ってくるのは決まって同じ言葉だった。
「あなたは女の子だから」
理由になっていない、と反論することを知らないまだ幼い私は、それでもしつこく『どうして、どうして』と繰り返した。
「大きくなったらわかるわ」
最終的にはいつもこの一言で片付けられた。わからないから聞いているのに、これでは会話が成立しない。でも、素直ないい子でいたかった私は、そうなのかもしれない、と妥協しながら、沸々と湧き上がってくる疑念、怒り、違和感、それらのものを押し殺していた。
私はスカートが嫌いだったし、髪だって本当は短いほうが好きだった。スカートはひらひらして落ち着かないし、長い髪はとても鬱陶しい。でも、母は私にスカートを履かせたがったし、私の長い髪を梳きたがった。だから、幼い頃の私は、それをずっと我慢していた。母の喜ぶ顔が見たかったからだ。
当時の私は、単なる母の着せ替え人形だった。
そんな私にも、人並みに反抗期というものがあった。小六の頃に一度だけ、両親に無断で髪を短く切ったことがある。男の子並みのベリーショートで、男の子はこんなに快適なのかと驚いたものだ。
短くなった私の髪を見て、母はとても悲しんだ。たかが髪の毛のことで、人はこんなにも悲しめるものだろうか――ぽろぽろと涙を流す母の顔を見て、私はぼんやりとそう思った。自分の髪を勝手に切られたならまだしも、娘とはいえ他人の髪の毛のことで。時折母が見せるヒステリックな一面に嫌悪感を抱くようになったのは、この頃からだった。面倒だから、それを表に出すことはなかったけれど。
でも結局、ショートカット生活はあまり長続きしなかった。短い髪はとても快適だったが、女性的すぎる私の顔立ちに、ショートカットが全く似合わなかったからだ。
以来、私はずっと、長い髪の重苦しさに耐え続けている。
私は小学生高学年ぐらいまでクラスの大半の男子よりも身長が高かったし、その頃には既にテニスを始めていたから、体力でもそこいらの男子には負けない自信があった。『か弱い乙女』などというステレオタイプにも反感を持っていた。実際、テニスでも同性には敵がいなかったし、相手が男子でも負けることは稀だった。
家庭環境、クラスの(特に女子の)人間関係、テニス部での体育会系的な独特の上下関係。複雑で面倒臭い上に報われないことも多く、最終的には必ず何らかの妥協を強いられるこれらの問題に比べて、学業の成績は勉強した分だけストレートに点数へと反映されるのがよかった。当時、私の成績はクラスで常に一、二を争っていた。テニスにあれだけ熱中したのも、今思えば、一つのボールをひたすら追いかけ続ける、テニスという競技特有の単純さが心地よかったせいかもしれない。
テニス、勉強、短い反抗期。振り返れば、この時期が一番日々の生活に充実感を得られていたような気がする。だが、それもあまり長くは続かなかった。
中学生になった私は、相変わらずテニスに夢中のスポーツ女子だったけれど、ある時期から突然、小学校の頃までは余裕で勝てていたはずの男子に負けるようになったのだ。私の身体は着実に女へと変化し始めていた。
屈辱だった。
コートの隅で一人涙を流す私に、当時のコーチは諭すように言った。
「中学生ぐらいから男女の体力差が大きくなり始めるんだ。仕方ないんだよ、袴田は女子の中ではトップレベルの選手なんだから、そんなに落ち込むな」
女の子だから。
またこれだ。
女の子だから女の子だから女の子だから女の子だから女の子だから女の子だから女の子だから。
好き好んで女に生まれたわけじゃないのに。
生理痛とPMSの苦しみも、それに拍車をかけた。
同じ女子の中でも、どうやら私は特に生理痛が重い方らしい。子宮がキリキリと痛み、心身共に正常ではいられなくなる。頭痛も腹痛も吐き気も酷く、鎮痛剤を飲んでも症状が劇的に改善されることはなかった。でも、それを言い訳にして休んだりしてしまったら、自分の体に対する敗北を認めてしまうことになるような気がして、どんなに辛くとも平静を装いながら、私は耐え続けた。
しかし、テニスコートに入るとその影響は如実に表れた。痛みで動くのが辛い、気だるさで反応が遅れる、イライラして集中力が持続しない。それが毎月決まって一度はやってきて、PMSの時期まで含めれば、実に月の半分ほどは影響を受け続けることになる。気づけば、あんなに楽しかったはずのテニスが、とても辛い時間になっていた。
一番酷い時期には、周りにいる人間を手当たり次第にぶっ殺したくなる。あるいは、その辺の男の股にドリルで無理矢理穴を開けて、滴り落ちる血を見ながら、どうだ、辛いか、私の苦しみを思い知ったか、と問い詰めたくなるのだ。ただ女に生まれてしまったというだけで、何故ここまで苦しまなくてはならないのか。私はその理不尽さを呪った。
中学を卒業し、私は都内の女子高へと進学した。進路を決めたのは両親だ。
女子が相手のテニスは温ぬるかったし、真剣に部活に取り組むような奴もいなかった。意識の低い相手に合わせた練習内容では実力の向上など望むべくもない。私はいつの間にか女子の中でも一線級の選手ではなくなっていた。そして、心身の不調は学業の成績にも影響を及ぼし始めた。
私の体が女として成長してゆくたびに、少しずつ私が私でなくなっていくのがわかる。日々刻々と変化してゆく自分の体から逃れる術もなく、毎日が憂鬱だった。真っ暗な窯の中に吊るされ、もうもうと立ち上る煙の中で、生きたまま燻されているような気分。皮肉なことに、燻製には桜の木片がよく用いられるらしい。
桜の呪いの中で、私の体から瑞々しさが失われてゆく。
このまま干からびていくのだろうか。
かつて私であった私の残骸だけを残して。
世界は鈍色に覆われていた。
あの人――西野園真紀と出会うまでは。
一昨年の夏、父の所有する別荘に、彼女は二人の友人と共にやってきた。
あまりに美しく、そしてあまりに脆い。
その姿を初めて見たとき、私は飴細工を連想した。
糸のように細く、宝石のように煌めき、触れたら一瞬で壊れてしまいそうな、繊細な飴細工。そして彼女の微笑は、薄い飴の膜を何層にも重ねて作られた薔薇の花弁のように、甘美な危うさを秘めていた。
兄から真紀さんを紹介され、初めて目が合ったその瞬間、私の目は彼女の瞳に釘付けになった。私が憎んでいたもの、そして目を背けようとしていたもの、それを体現した究極の姿が、私の目の前に現れたのだ。
この時彼女に対して抱いた感情、そしてここまで彼女を追いかけてくる原動力となったある種の執念。その正体が恋なのか憧れなのか、それは未だにはっきり答えが出せていない。ただ、この人が欲しい、彼女のようになりたいという二つの欲求が同時に湧いてきたことだけは、明確な事実だった。
だが、真紀さんはどうやら、この時彼女に同行していた瀬名瞬という男に好意を寄せているらしかった。私と彼が言葉を交わすと、彼女は決まって私に鋭い視線を向ける。そんな彼女もまた、ゾクゾクするほど美しかった。
私はその瀬名瞬という男に嫉妬を覚える反面、強い興味を持った。彼女がそれほどまでに執着する男とはどんなものだろう。あの夜私が瀬名瞬の部屋を尋ねたのは、単純に彼に対して興味を覚えたからだが、それ以上に、彼を通して彼女のことを知りたかった。彼女が施したメイクで彼を誘惑すれば、新しい何かが得られるのではないか――そう考えたのだ。
私が女である以上、彼女と結ばれることはない。しかし、私が女である以上、彼女に限りなく近づくことは可能なはずだ。
彼女を手に入れることが叶わないのならば、私は彼女になりたかった。
一昨年の夏以降、私は美しくなるためにあらゆる努力をした。服や化粧品にも興味が出てきたし、美容のために日々の生活も色々と改めた。突然の私の変貌ぶりに、両親も驚いていたほどだ。
特に母の喜びようは特別だった。今までよほど不満だったのだろう、その反動もあって、私にあれもこれもと色々な服を買ってよこした。ただ、母の選ぶ服のセンスはあまりにガーリーすぎて気に入らなかったし、母の喜ぶ顔も、もはや癪に障るだけだったけれど。
毎日の生活を見直したことは、心身にプラスの効果をもたらした。
ホルモンバランスが改善されたためか、生理痛やPMSの症状にも若干の改善が見られたし、一時期下降気味だった成績も持ち直した。それでも、もうテニスをやる気は起きなかった。
青梛大学にやってきて、真紀さんが瀬名瞬と付き合っていると聞いたとき、私は少なからず落胆したが、予想の範囲内ではあった。一昨年の二人の様子を考えれば、交際に発展していてもおかしくないとは思っていたから。しかし、それ以上に私に衝撃を与えたのは、一昨年より更に美しくなった彼女の姿だった。
この一年半の間に、私はかなり綺麗になったという自覚があったし、そのための努力を続けてきたと自負していた。だが、真紀さんの美しさは損なわれるどころか、寧ろ一昨年より一層磨き上げられていた。私のちっぽけな自信は、再会した彼女の美しさの前で、完膚なきまでに打ち砕かれたのだ。
一年半の間に私と彼女を大きく隔てたもの。それはやはり瀬名瞬の影響なのかもしれない。恋人の存在、そして適度なセックスは美容にプラスの効果をもたらすという。だとすれば、私も――。
化粧台の前に座るたび、私は鏡の中の自分に問いかける。
私は彼女に少しでも近付けているだろうか。
彼女と出会って以来、ラケットは一度も握っていない。